火花を読んでいた時にも思ったけど、
一人称の小説って、
語り手、
つまり私がとても賢く思える。
なんでかというと、
小説が賢い言葉で書かれているからだ。
情景にせよ心情にせよ、
巧みに書かれている。
ということは、
語り手である私が賢いということになる。
これは矛盾をはらんでいて、
賢くない人間の一人称小説は、
本来、
賢くない日本語で書かなきゃいけないはずなのに、
それでは小説として成り立たないだろうから、
どうしても賢い言葉で書いてしまう。
あるいは、
形として下手な日本語で書かれていても、
やっぱり何がしかの感情を読者に想起させるためには、
やっぱりテクニックを使わなければならない。
そういう意味でやっぱり賢くなってしまう。
自分語りの難しさは、
結局そういうところにあるのではないか。
自分を正直に語ろうとすればするほど、
頭でいろいろ考えてしまい、
結果として、
語られた言葉は本当の自分とかけ離れてしまう、
のではないか?
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