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2010年8月12日木曜日

怪談

母に起こされ昼食を食べた後、
二度寝し、
一度起きてさらにリビングのソファで3時間ほど昼寝。

気が付くともう夕方5時だった。

年取ると、
長く寝られないなんていう同年代のヤツがいるけど、
そういう意味ではぼくはまだ若いな(笑)


とそんなことを考えていたら、
通っている皮膚科が明日から盆休みになることを思い出した。

今日行っておかなきゃ。

あわてて自転車に飛び乗った。

きっと2時間ぐらい待たされるのを覚悟して、
持参したのがこの本。













「向日葵の咲かない夏」(道夫秀介著、新潮文庫)

ところが皮膚科に着くと、
予想に反して「3番目です」と言われ、
完全な肩すかし。

結局、
家で読む羽目になったのだが、
連日の一気読みとなり、
先ほど読了した。


先日NHK「トップランナー」に著者が出てて、
それで急に気になって買ったのだけど、
さすがに面白かった。

着想に新味は感じない。
でも、
筆力がすごい。

特にスペクタクルな場面の描写は、
文字通り「ハラハラドキドキ」っていう感じを、
久々に味わった気がする。

あと、
奇想天外、
かつ二転三転するストーリーを、
破綻なく、
というか一応スムーズに読ませきるのも、
相当な力技だ。


現代日本の怪談。

2010年5月3日月曜日

他者

出勤途中のドトール。

GWだからか、
いつもと雰囲気が違う。

注文していると、
横を女性二人組が、
注文より先に、
席を確保しようと喫煙コーナーに行った。


ひょっとして、
席ないかも、、、

そんなことを思って、
アイスコーヒーを受け取ると、
ぼくは慌てて席探しに向かった。


よかった。

空いてる。


その時背後から声がした。

「お客さま~お釣りです~」

「!」


そうだ、
一万円渡したんだっけ。

かなり恥ずかしかった。


やっと席について、
読みかけの本を開くと、
こんな一節に出くわした。

 声はどこからかけられても、それがじぶんに向けられたものか別のひとに向けられたものか、たいていはわかる。


そうなんだよな。

背後から「お客様」と呼ぶ声が、
ぼくに向けられたものであることを、
ぼくはほとんど瞬間的に気付いた。

「視線」みたいに、
「声線」もあるのかもしれない。


ところで、
読みかけの本は、
「じぶん・この不思議な存在」(鷲田清一著、講談社現代新書)。

先日、
元町の海文堂で思いつきで買った。

間違いなくヒットだと思う。

「わたしはだれ?」を真正面から問う本書。

「声線」などと、
余計なことを言って誤解されては困るので、
もう一文引用しよう。

 他者への最後の通路をも失ったとき、そのときに、ともに途方にくれているひとの存在を、しかも通路を欠いたままはすかいに感じることで、かろうじておのが身をささえうるということがありうる。

●著者は哲学者で現阪大総長です●石川遼ツアー新記録「58」。やることがド派手。

2010年4月29日木曜日

生府

健康こそが至上主義の、
政府ならぬ「生府」が統治する近未来。

伊藤計劃の「ハーモニー」(ハヤカワ書房)は、
先日紹介した処女作「虐殺器官」に続き書かれ、
そして彼の遺作となった作品だ。


前作が集団意識をテーマにしていたとするなら、
本作はまさに個人の意識そのものがテーマだ。

人間が完全な生物に「進化」するためには、
自意識などはむしろ邪魔で、
盲腸とか尾てい骨みたいに退化して、
なくなっちゃえばいいのに。

たぶんこれが著者の最大の問いだろう。



なるほどそうかもしれない。



でも自意識がなくちゃあ、
それはすでに人間とは呼べないよなぁ。

人間は自意識をもった存在で、
だからどうしようもなく愚かな時はあるけど、
それもまたよしっていうか、
許容したいって心が、
ぼくの中から抜けない。



ところで。

健康至上主義社会といえば、
未来ではなく、
過去にすでに実例がある。


ナチス・ドイツだ。

ユダヤ人大虐殺へとつながる道のスタートラインが、
「健康は国民の義務」とうたったナチスの厚生事業であることは、
周知の事実である。

喫煙や飲酒を忌み嫌い、
全ドイツ国民を健康にするという理想の果てが、
あの大虐殺であったことは、
今一度思い起こしておきたい。

健康であることは喜ばしいけれど、
「義務」だと言ってしまえば、
たちまち、
病人は国民の義務を果たしていないという論理へとつながったことは、
想像に難くない。

そういえば、
どこかの国に「健康増進法」なるものがあったっけ。



健康は権利であって、
義務ではない。

お間違えなく。


●ハーモニーは、迫力や完成度からいえば虐殺器官ほどではないと思ったが、ガンで亡くなった著者の遺書として読めば、かなり痛切。にしても享年34歳とは、本当に惜しい。

2010年4月20日火曜日

悪態

オウム事件は現代社会における「倫理」とは何かという、大きな問題をわれわれに突きつけた。オウムにかかわることは、両サイドの視点から現代の状況を洗い直すことでもあった。絶対に正しい意見、行動はこれだと、社会的倫理を一面的にとらえるのが非常に困難な時代だ。
 罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。



昨年6月に読売新聞に3日に分けて掲載された、
村上春樹のインタビューを読み返した。

「1Q84」のBOOK1と2が刊行された直後のものだ。

エルサレム賞の受賞スピーチ「卵と壁」が話題になった後でもある。

当時は、
村上春樹が相当の覚悟で「1Q84」を書いているのだと思ったものだ。

ところが、
BOOK3を読んだ今となってみると、
そういう重いものがすべて、
ラブストーリーという刺身のツマにされてしまった感が、
どうしても拭えない。


BOOK3が出るならば、
これらの問題をさらに深く深く掘り下げ、
いまだかつてだれも見たことのない世界へと誘ってくれる。

そう期待したのはぼくだけではあるまい。

だから、
BOOK3を読んだ率直な感想は、
「へへへ、実はこういうことでした」と、
悪びれず言われたような、
怒る気にもならないような、
そんな気なのである。

それこそ、
持ち上げるだけ持ち上げといて、
はしごをはずされたような感覚だ。


小学生のときに一度手を握り合った男女が、
20年たって尚互いを思い続け、
苦難の果てに結ばれる。

そんなことを書くために、
この小説はあったのだろうか。


もちろん、
二人のラブストーリーは、
この物語の重要な要素ではある。

しかし、
決して最重要ではなかったとぼくは思っていた。

第一、
もしそうだとしたら、
殺人という行為が、
あまりに軽く扱われすぎだろう。

1Q84年だろうが1984年だろうが、
何人もこの世から抹殺した青豆が、
普通に幸せになっていいはずがない。

倫理が相対的なものだとしても、
殺人は絶対悪だという部分は、
ぼくには譲れない。


一説には、
「BOOK4」があるという。

確かに、
1から3までは、
1Q84年の4月から12月までなんだよなぁ。

1月から3月までがないというのも、
なんか不自然ではある。


ほとんど無意味な根拠だ。

でも、
これだけ悪態をついても、
出たら読むんだろうなぁ。

これも未練かなぁ。


●コアなファンの人が読んでいたら、本当にごめんなさい。

2010年4月19日月曜日

撤収

大風呂敷を広げるだけ広げて、
何とか畳もうと努力したら、
600ページになりましたと。


何がって?

もちろん「1Q84 BOOK3」のことです。

ですから、
これから読む人は、
この先は読まない方がいいと思う。





ということで。

繰り返しになるけど、
これだけの分量の文章を、
ほとんど息継ぎなしに読ませる筆力は、
内容とは関係なく単純に敬服します。

プロの仕事だ(笑)


しかしねぇ。


1と2が問題編とするなら、
3は解決編と位置づけられるかもしれないけど、
これで終わりです、
めでたしめでたしと言われてもねぇ。

たぶん、
こんなことなら、
3は知らないでいた方がよかったという人も多いのでは。


もちろん、
うんと深読みすれば、
それなりの意味は汲みだせるんだろうけど、
とりあえず一気読みした人間が、
物語としてとらえた感想は、
そういうことです。

オウム真理教(小説では「さきがけ」)やなんかの宗教、
善悪、
生死、
親子、
システムと個なんていう、
1と2で考えさせられたディープな部分は、
3ではさらっとかわして、
天吾と青豆のラブストーリーに回収して、
さっさと撤収してまった。


ぼくとしてはたぶん、
天吾が小説中で書いている小説というのが、
この「1Q84」ということだと読者に思わせたいと、
村上春樹は思っていると思っているのだけれど、、、

もう「4」は期待できないし、
やっぱりお後は読者の想像に委ねますと、
そういうことでした。


改めてこの本について触れるかもしれないし、
触れないかもしれない。

そういう読後感。

とにかく疲れた。

でもその疲労感は悪くない。

ということで、
こちらも撤収して寝ます(zzz)

2010年4月18日日曜日

代償

「1Q84」を猛烈な勢いで読んでいる。

内容の良し悪しとは別に、
村上春樹の文章はとにかく読みやすい。

ほぼ今日だけで430ページまで進むのだから。


それにしても、
この小説には「代償」という単語が頻出する。

何かを得るためには、
何かを失わなければならない。

その通りだ。
そうやって誰もが生きている。




18歳のある日曜日、
ぼくは大酒飲みになりたくなった。

酒豪と呼ばれたくなった。

きっかりその日を境にして。

調べれば正確な日付もわかるだろう。


だから大学に入学し、
東京で一人暮らしを始めた19歳から、
本格的に確信的に、
あらゆる酒を、
好きな時に好きなだけ飲んできた。

学生から社会人へ。

ホワイトが角瓶になり、
地酒、
焼酎、
シングルモルト、、、

1年365日、
飲まなかった日はなかったし、
それも毎日とことん、
納得いくまで、
つまり心と体が麻痺しきるまで飲んだ。

決して誇張ではない。

そのことで得たものもあるし、
失ったものもある。

当然のことだ。


そんな生活を20年以上続けた挙げ句、
3年前のある日を境に、
ぼくは酒を飲まなくなった。

一滴も。

誇張じゃなく。


それによって得たものもあるし、
失ったものもある。

当然のことだ。














これなんかは、
得たものの代表でしょうかねぇ(笑)


●明日は「1Q84」の感想になるでしょうねぇ、やっぱり。

2010年4月17日土曜日

未然

子どもの虐待殺人が多い。

腹を踏みつけて殺した奴は、
ゾウにでも踏んづけさせてやればいい。

床にたたきつけて殺した奴は、
20階ぐらいのビルの屋上から、
道路にたたき落としてやればいい。

した通りのことを、
そっくりお返しして差し上げるのだ。


それにしても、
未然に防ぐことはできなかったのか。

だれもが思う疑問だ。

99件未然に防いでも、
1件見過ごすと大騒ぎになる。

そういう側面はあるだろう。

でも見過ごしたその1件で、
子どもが一人殺される。

ただただやりきれない。


ところで、
虐待を受けて育った子は、
自分の子を虐待してしまうケースが少なくないという。

一見不思議なこの連鎖にも、
一応理由があるらしい。

子育てとはそういうものだと、
刷り込まれてしまっているのだという。

英語を話す親に育てられれば、
子どもは普通英語を話すようになる。

ほかのやり方を知らないだけなのだ。


だからといって、
情状の余地はない。
なぜなら、
それは決して遺伝ではないからだ。

子どもを虐待する遺伝子などありはしないし、
大酒飲みになる遺伝子もない。

どんな環境に育っても、
大人になって矯正することはできる。


逆のケースもあるけれど、、、


さて。

今日、
元町の海文堂に立ち寄ると、
「1Q84 BOOK3」が平積みされていた。

もし今日アマゾンから届いていなければ、
ちょっと悔しい思いをするところだった。

さっき帰宅したら、
ちゃんと届いていた。


しかも2冊、、、


確認したところ、
ぼくはアマゾンで2月に予約し、
さらに4月に再度予約していた。

もちろん、
4月の時には予約の確認をした。

でもアマゾンの画面は基本的に30日以内の注文に対する、
未発送を表示する仕組みなので、
2月の予約分は表示されなくて、
ぼくはてっきり自分の思い込みだと勘違いしたのだ。

思い込んだと思い込んだ。

シャレにもならない。


ぼくもぼくだがアマゾンもアマゾンだ。

同じ予約が2度されれば、
配送前に一言確認してくれてもいいのに、、、

でも、
返品はできるようなので、
1冊は未開封のまま送り返すことにする。


ぼくのウッカリ癖もまた、
遺伝ではない。

ぼくだけの突然変異だ。

●写真の方は、ウッカリ忘れることなく、無事返却できた●長くなった。さぁ、読むぞ!

2010年4月16日金曜日

節理

映画というのは、
映画館で1度だけ観る人が大多数だから、
1度でストーリーのあらかたが分かるべきだ。

というのはぼくの持論だけど、
その点、
小説はその制約はぐっと少ない。

分からなくなれば、
何度でも読み返せばよいからだ。


読み返してもなお分からなくても、
「読者の想像にゆだねる」という、
最強の言い逃れができる。

とはいえ、
「1Q84」には放置されたままの謎が多すぎたから、
3巻目が出されるのは必然だった。













「1Q84 BOOK3」が発売された。

午前零時から売り出した書店もあるというから、
もうすでにこの時間、
あらかた読んでしまった猛者もいることだろう。


青豆は本当に死んじゃったのだろうか。

天吾とふかえりはどうなるのか。

あのなんとかという編集者はその後どうなったのか。

ふかえりをかくまっていた爺さんはどうなったのか。


解明される謎もあれば、
されないままのものもあり、
また新たに付け加わる謎もあるだろう。

ぼくとしては「BOOK1、2」で、
オウム真理教への肩入れ度合いが強かった、
そのへんをどう処理するのかに興味がある。


つまり、
この世に「必要悪」はあるのか、
ということだろうか。

「必然悪」と言い換えてもいい。


地球が丸いように、
桜が春に咲くように、
空が青いように、
人の世に悪はどうしようもなく生まれるのだろうか。

それに抗う術はなく、
それこそが人が人であるということなのだろうか。

オウムの信者は、
その節理に従ったまでなのだろうか。


ぼくの手元に本が届くには、
まだ数日かかるだろう。

それまでに、
「1、2」を一度読み返そうかな。


かくして、
「ピストルズ」読了がさらに遠のく、、、


●巨人坂本、逆転満塁ホームラン。久々に大声を上げた●もう金曜日だ。写真を返さないと。ちょっと名残惜しいが(笑)

2010年4月15日木曜日

捨石

たまたま入った本屋で、
パッと目についた本が、
意外に面白いことが多い。

あれこれ考えないということは、
つまり「背伸び」していないということだろう。

昨日難波のBook1で買った、
「村上春樹の秘密」(柘植光彦著、アスキー新書)もそのひとつ。

村上春樹のこれまでの歩みが、
コンパクトにまとめられていて、
しかも、
作品を横断的に分析する、
その切り口が新鮮だった。


「1Q84」のBOOK3が16日午前0時に発売されるという。

きっと行列ができて、
社会現象になって、
新聞ダネになるだろう。


で、
「村上春樹の秘密」についてだけど、
同書で紹介されている、
「お伽噺の31の機能」というのは、
ぼくは全く知らなかった。

ロシアのウラジミール・プロップという学者が提唱した説で、
昔話には特定のパターンがあるというもの。

ウィキから引用すると、

「留守もしくは閉じ込め」
「禁止」
「違反」
「捜索」
「密告」
「謀略」
「黙認」
「加害または欠如」
「調停」
「主人公の同意」
「主人公の出発」
「魔法の授与者に試される主人公(贈与者の第一機能)」
「主人公の反応」
「魔法の手段の提供・獲得」
「主人公の移動」
「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」
「狙われる主人公」
「敵対者に対する勝利」
「発端の不幸または欠如の解消」
「主人公の帰還」
「追跡される主人公」
「主人公の救出」
「主人公が身分を隠して家に戻る」
「偽主人公の主張」
「主人公に難題が出される」
「難題の実行」
「主人公が再確認される」
「偽主人公または敵対者の仮面がはがれる」
「主人公の新たな変身」
「敵対者の処罰」
「結婚(もしくは即位のみ)」

多くの昔話(少なくとも魔法がらみの)は、
こういう展開をたどる、
ということらしい。

ちょっと調べてみると、
スター・ウォーズから、
ドラクエ、
宮崎駿作品、
そして村上春樹作品にも、
このパターンが読み取れるという。

およそ人間が考える物語の展開、
それも面白いものとなると、
大なり小なり似てくるもんだとも思えるけど。

そう、
重要なのは、
人間の行動(思考)パターンは、
結構限られているのだということ。

みんな千差万別の環境にあって、
運不運に左右もされながら、
唯一無二の人生を送っているように思いながら、
その実、
ほとんどのものは、
お決まりのパターンに落ち着くっていうことはよくある。

オレとあんたは違うんだって、
そう思っていても、
とどのつまり同じですよと、
そう嫌というほど思い知らされた今となっては、
とってもよく分かる。

昨日書いた「虐殺器官」も、
人間の思考パターンを悪用するヤツが出てきたなぁ。


かなり独創的と思われた作品でも、
そういう作品が生まれるパターンは、
以前の事例を踏襲しているだけってこともあるかも。

そういう意味では、
人間が人間である限り、
真の独創などめったにないのかもしれない。

それを息苦しく考えるか、
どうせ型通りにしか生きられないなら、
思う存分好き勝手にやってやろうと考えるかは、
その人次第だろう。


そういえば、
今日のNHK「歴史秘話ヒストリア」で、
吉田松陰を取り上げていた。

前にも書いたけど、
この人、
学校の歴史で習った印象と違い過ぎ。

笑えるほど無茶苦茶な行動を繰り返し、
弟子が止めるのも聞かず、
ついには死罪になってしまう。

型破りというか、
時代の捨石になるのを厭わない人。


たとえ捨石にでも、
なれれば素晴らしい。

●著者の柘植氏は、もう70歳を過ぎているのに、随分若々しい文章を書くので驚いた●寄り道読書ばかりで「ピストルズ」が進まない。ちなみに「1Q84」、今回はアマゾンでちゃんと予約してある。あぁ。

  

2010年4月14日水曜日

虐殺

タイの現状は「騒乱」というのだそうだ。

「内戦」や「内乱」とどう違うのかよく知らないけど、
そんなタイミングで読んだのも、
何かの縁だろう。


「虐殺器官」(伊藤計劃著、ハヤカワ文庫JA)

近未来SF小説で、
「ゼロ年代最高」との呼び声もある。


その世界観に引き込まれるように、
グイグイ読み切った。

内戦には、
内戦に至る文法のようなものがあって、
その文法を用いれば、
どんな平和な国でも内戦状態にできるという発想に驚く。


突飛かなとも思うけど、
カンボジアやルワンダなんかを思うと、
あながちそうとも言い切れない。

誰だって平和を願い、
そういう国にしたいと思っているのに、
どうしてこうなるの?
という疑問は、
まるで坂本龍馬みたいだ。


でも実際、
人は時に、
何かに魅入られたかのように、
徹底的に殺し合う。

それは、
理屈ではなく、
あたかも人間の本性でもあるかのようだ。


人間はきっと、
性善説と性悪説に二分はできないんだと思う。

良心の行きつく果てが、
とんでもない悪夢だったなんてことも起きうる。


日本だって、
ドイツだって、
アメリカだって、、、

別にアフリカでなくても、
一定の条件が整えば人間は、
平然と狂気に化する。

暗い気分にはなるけど、
人間はそういう生き物だということを、
この本は認識させてくれる。

●著者の伊藤氏は、ぼくより10歳も若いのに昨年ガンで他界された。大変な才能なのに。亡くなってから知るなんて●難波「フラミンゴ・アルージャ」で「Flow33」のライブを。詳細は後日。

2010年4月5日月曜日

穴場

完璧な花見日和。

休日で、
青空で、
暖か。

今日はそう呼んでいい。

何年生きるのか知らないけど、
これほどの年はそうはあるまい。

母が「穴場」だと教えてくれた場所に、
ぼくが行く気になったほどだもの。


そこはJR甲子園口の南口から、
武庫川に向かって歩いて3分ほど。

堤防沿いにあった。

まだ若いソメイヨシノが、
土の小道の両側に、
行儀よく並んで咲いている。

ちょっとした桜のトンネル。











関西では夙川がかなり有名だけど、
あそこはこの時期、
人で大渋滞。

屋台やらなんやらで、
風情も何もあったもんじゃない。

それに比べここは、
七輪で焼き肉している家族連れなんかも、
いるにはいたが、
夙川に比べれば全然のどか。

というより、
屋台が並ぶスペースもないほどの小道で、
なかなかいい感じだった。

確かに今ならまだ、
「穴場」と言えるかもしれない。


堤防のコンクリの上に寝そべって、
しばらく桜を眺めた。

それにしてもソメイヨシノの花弁は、
限りなく白に近い。


ここが「穴場」と呼べるのも、
あと何年ぐらいかなぁ

●つい気持ちよくなって梅田まで出て、紀伊国屋で「ピストルズ」(阿部和重)を買ってしまった。600ページを超える大作。読めるのか。

2010年3月18日木曜日

余韻

何気に寄った駅前の本屋で、
「永遠のとなり」(白石一文著、文春文庫)を買って読んだ。


部下の自殺をきっかけにうつ病に罹り、会社を辞め妻子とも別れ、何もかもを捨てて故郷・博多に戻った青野精一郎。肺がんを発病し、死の恐怖から逃れようとするかのように、結婚と離婚をくりかえす津田敦。48歳となった、小学校以来の親友ふたり。やるせない人生を共に助け合いながら歩んでいく感動の再生物語。


裏表紙の紹介文。

あまりにリアルな内容で、
怖い気もしたけど、
ひどく共感できた。


物語の中盤、
青野が自らの人生を振り返る場面がある。


 私は、私という人間のことが本当に嫌いだったのである。
 そう気づいた瞬間、何だそうだったのか、とすべてが了解できる気がした。
 四十七年間もの長きにわたって嫌いな人間と一緒に生きてくれば、誰だって心に陰鬱な陰りを生じさせてしまうのはむしろ、当然ではないか。
 (中略)
 たしかに、私という人間は、いつもいま現在の自分から逃げているところがあった。生き延びること、前進するということはそれまでの自分を捨て去り、常に新しい自分に為り変わっていくことだと信じていた。そうした考え方は一見前向きのようにも見えるが、実はその反対だ。為り変わるとは、結局、それ以前の自分を全否定することに他ならない。過去の自分は現在の自分よりも駄目でつまらないものだと規定して生きてきたのだ。(P141~142)

 

なるほどなぁと思う。
 
というぼく自身、
自分の人生を振り返って、
「生き散らかしてきた」と、
最近よく思う。

前進するということは必ずしも成熟を意味しない。

むしろ、
何事も熟成させることなく、
とっかえひっかえ場当たり的に、
目新しいものに飛びついてきただけなのかもしれない。

ぼくは鬱病にもガンにもなってはいないけど、
40歳を超え、
人生の折り返し点を迎えた男性は、
大なり小なりそんな感じを持つのではなかろうか。


物語は最後、
再生への余韻を残して終わる。

ぼくの人生も雑音だらけだった。

せめて最後の余韻はきれいに。

今更ながらの願いかな。

●気合いを入れず買ったものが案外よかったりする、典型的な例●関西地方では現在「古畑任三郎(第3シーズン)」を再放送中。録画を見たら、岡八郎が出ていて驚いた。関東の人は知らないだろうけど。

2010年3月16日火曜日

改善

「知恵を絞る」と言うは容易いが、
普通の人間が普通の思考をしていたのでは、
十人並みの結論しかでない。

「ワンランク上の問題解決の技術《実践編》」
(横田尚哉著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
という本は、
改善したい事物を「機能」という観点から徹底的に分解し、
その費用対効果を見直すという、
「VE(ヴァリュー・エンジニアリング)」という手法を紹介した本だ。


先日の「情熱大陸」で著者が取り上げられていて、
建設コンサルタントだる著者が全国の自治体で、
この10年間に総額1兆円の公共事業の見直しに携わり、
合計2000億円の削減に成功したという実績に興味を持ち、
Amazonで即買いして即読んだ。


200ページ余りがほんの2日足らずで読めたのだから、
書いてある内容は非常に簡明だった。

でも実践するとなると、、、

相当に難しい。


例えば、
本の後半に出てくる照明スタンドの機能分解。

第一段階として著者は、

①光を出す
②光を集める
③部品を固定する
④移動を容易にする
⑤雰囲気を和らげる
⑥転倒を防ぐ
⑦リサイクルを可能にする


と7項目をサラリと示して見せる。

ぼくなら①しか思いつかないな。

もう一度書くけど、
これで第一段階だ。

ここからさらに各項目をさらに分解して、
徹底的に機能をバラバラにしてしまう。


それでも、
料理で言えばまだ仕込み段階であって、
その分解した機能から原案の費用対効果を割り出し、
その数値を上げていくという作業に入るのだ。

いやはや。

この本には、
確かに知恵の絞り方が書いてあるけど、
実際に絞るのは個人の努力なんだな。

でもそれが出来ないから、
全国の自治体が著者のような人に頼るのだ。

著者はきっと、
「決してあなた自身では出来ませんよ」と本音では思っているだろう。

1700円の本を2日で読んだ費用対効果は、
まぁそういうことが分かったということだ。


とはいえ、
この本をヒントに、
ぼくをワンランク上に「改善」するため、
自分自身を機能に分解してみようか。

2010年2月16日火曜日

語感

「嘘を吐く」という活字を見た時、
「うそをつく」と読むのだと理解はしていても、
それより先に「うそをはく」と生理的に読んでしまう癖は、
いまだに抜けない。

「酷い」も「ひどい」より「むごい」が先だ。

こういう語感はなかなか矯正されない。

この二語は、
最近の小説で特によく使われているように感じられる。


「反省してまーす」と言った国母選手に、
生理的反発を覚えるのは、
きっと日本人だけだ。

この感覚を外国人に説明するのは、
ほとんど不可能に思える。

「反省しているという言葉をだらしなく発音した」と説明して、
さらに「つまり彼は本当は反省などしていないと多くの日本人に受け取られた」
と補足しても、
日本人なら生理的に感じる感触をそのまま伝えることはできないだろう。

当然逆もまたしかりで、
外国語にあるであろう「反省してまーす」的な感覚は、
ぼくには一生実感できまい。

先日亡くなったサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は、
きっと英語のネイティブなら感じ取れる多くのニュアンスが、
日本語では抜けていて、
たぶんその抜けてしまったところこそが、
この小説の肝ではないのかとさえ思える。


話は前後するが、
国母選手のくだんの発言はYouTubeにもアップされていて、
それを見ると「反省してまーす」の直前に、
「ちっ、うっせーな」と言っているのが、
確かにマイクに拾われていた。

そういえば、
あの一件の後、
国母選手が銅メダルを取る夢を見た。

なのにマスコミの扱いは異様に小さいという、
変てこな夢だった、、、


で、
ここからが本題なのだけど、
「ミステリアスセッティング」(阿部和重著、講談社文庫)。

平易な文章の中に「涕涙(ているい)」とか、
「傲岸(ごうがん)」とか「双眸(そうぼう)」とか、
難読熟語いっぱい出てきて、
そのひっかかりが意図的なのかどうかが、
ひっかかった。

若者に人気の著者である。
しかもこの小説は、
著者初の「ケータイ小説」だったそうだ。

いくらルビがふってあるとはいえ、
こういう文字を読んだ若い人が受ける感触はどんなものなのか。

きっとぼくの語感とは、
全く違うに違いない。

2010年1月31日日曜日

後味

「告白」(湊かなえ著、双葉社)を買ってしまったのは、
映画化されるという話を聞いたことに加え、
「陰日向に咲く」が予想外に面白かったことがあったと思う。

これまでずっと避けてきたのに、
つい手を伸ばしてしまった。


一言で、
救いようのない暗い内容だった。

第一章、
中学校の女性教師が終業式で生徒に語る、
モノローグに近い内容はショッキングで、
そのインパクトで最後まで一気に読んだけど、、、


著者は登場人物のすべてについて、
詳細な人物造型をしてから書くそうだ。

この小説のような教師や生徒や親が、
今や当たり前だとは思えないけど、
ある部分の本質を突いているのだろう。

今の教育の抱える「負」の部分を寄せ集め、
ミステリー風味を加えた、
という感じ。


とにかく後味が悪い。

後味が悪いことは必ずしも悪い事というわけじゃない。

映画「ノー・カントリー」や「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。
本なら「決壊」。

どれも後味は悪かった。
そんな悪い後味の記憶は妙に残る。


決して作っていて楽しくはないであろう、
そういう救いのない作品が創作され、
鑑賞されるということは、
一体どういうことなのだろう?

現実から目をそらすな、
ということなのだろうか、、、


●いずれにせよ本屋大賞はもう信じない●「ライ麦畑でつかまえて」もあんまり後味がよくなかったような、、、

2009年12月26日土曜日

相応

以前誰だったか忘れたけど、
世界地図を90度傾けると、
日本はちょうど、
パチンコ台の玉受けみたいな位置にあると言っていた。

世界中で生まれた文化や文明が、
コロコロと各国を伝わり落ちて、
最後に日本に吸い込まれるのだと。

あはは。

確かにそう見える。

日本はつまり、
世界のおこぼれの受け皿というわけだ。

まぁ、
食いっぱぐれはないけど、
一番美味しいとこにもありつけない。


広島・長崎の五輪共催案が、
JOCによって潰された。

曰く、
五輪憲章には1都市開催と定められている。
仮に日本が推薦してもIOCが絶対認めない。
だから駄目だと。

こういう発想を聞いただけで、
体の力が抜けるようだ。

世界で唯一の被爆都市で平和の祭典を。

これほどの大義があるのだから、
憲章を変えさせるぐらいの勢いで勝負すればいいのにと、
ぼくなどは思うのだが。


「日本辺境論」(内田樹著、新潮社新書)を読んでいる。

「和をもって尊しとなす」。

なるほどこの国は、
その成り立ちからして、
辺りをきょろきょろ見渡して、
空気を読んできたのだなぁ。

誰かにルールを決めてもらわないと、
まともに歩くことさえできない、

たまに自分で決めると、
この間の戦争みたいなことになってしまう。

他国のおこぼれで生きている国。
親のおこぼれで総理になれる国。


おこぼれ国家ならばそれらしく、
今後も国際社会で振る舞えばいいし、
東京でもう一度五輪を開きたいなどと大それたことも、
金輪際言わないことだ。

誰かが「いいよ」と言ってくれるまでは。

それが分相応ということになる。


残念ながらぼくもそういう国に生まれ育ち、
たぶん根っこはそういう分際だ。

なのに分不相応なことを願ってしまう。

それがいけないこととは思わぬが。

●と卑下していたら、広島は単独招致を検討するらしい。いいぞ頑張れ。その意気だ。少し力が戻った。

2009年12月8日火曜日

間際

「死ぬ前に後悔すること25」(大津秀一著、到知出版社)

こんな題名の本の新聞広告が目に入った。

著者は緩和医療の専門医らしく、
「人は死ぬ間際にこんなことを後悔しています」
とある。

1 健康を大切にしなかったこと
2 たばこを止めなかったこと
3 生前の意思を示さなかったこと
4 治療の意味を見失ってしまったこと

5 自分のやりたいことをやらなかったこと
6 夢をかなえられなかったこと
7 悪事に手を染めたこと
8 感情に振り回された一生を過ごしたこと
9 他人に優しくしなかったこと
10 自分が一番と信じて疑わなかったこと

11 遺産をどうするか決めなかったこと
12 自分の葬儀を考えなかったこと
13 美味しいものを食べておかなかったこと
15 仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと
16 行きたい場所に旅行しなかったこと

17 会いたい人に会っておかなかったこと
18 記憶に残る恋愛をしなかったこと
19 結婚をしなかったこと
20 子供を育てなかったこと
21 子供を結婚させなかったこと

22 自分の生きた証を残さなかったこと
23 生と死の問題を乗り越えられなかったこと
24 神仏の教えを知らなかったこと
25 愛する人に「ありがとう」を伝えなかったこと


一項目ずつ興味深く読んだ。
これだけで十分いろいろ考えさせられた。

もう実際の本は読まなくていい気がした。

2009年11月15日日曜日

呪文

子どものころ、
新聞の名文コラムといえば、
朝日新聞「天声人語」と相場は決まっていた。

今でもその評価に変わりはないのだけど、
最近では読売新聞「編集手帳」もなかなか健闘している、
というのが最近の評判だ。

筆者が交代すれば、
文章の質も変わる。

匿名コラムとて同じだ。


大学生の時、
入社試験の作文用にと人に一読を勧められたのが、
「カンカラ作文術」(山崎宗次著、光文社)だ。


カンカラコモデケア


合格作文の極意として、
筆者が掲げた呪文である。

ちなみに著者は元毎日新聞記者だ。

カン=感動
カラ=カラフル
コ=今日性
モ=物語性
デ=データ
ケ=決意
ア=明るさ

呪文の方だけなぜか覚えていたのだけど、
その一つ一つの意味はすっかり忘れていた。

でも当時はこの呪文を唱え、
入社試験に合格できたのだから、
少しは効き目はあったのだろう。


その本が今でも手元にあって、
パラパラめくってみた。

昭和59年初版。

定価650円。


本の値段って、
意外に安定していることに感心した。

●ところが驚いたことにアマゾンで調べてみると、何とこの本、今や中古で4380円で売られている!「お宝」になっていたとは●このブログにあてはめると「カラ」と「ア」に欠けていることに気づいた。明日から少し注意しよう●ようやく休みだ。「THIS IS IT」を観にいこう。

2009年11月5日木曜日

読書

インフルエンザ予防に効果的なのは、
うがいよりも圧倒的に手洗いなのだそうだ。

マスクにしても、
風邪にかかっている人がするのは有効だけど、
かかってない人は人ゴミではまぁ役立つかな、
というくらいなのだそうだ。

先日ちらっと見たNHKの「爆笑学問」で、
東大医科学研の河岡義裕教授が言ってたから、
たぶんそうなのだろう。


となるとついつい出不精になる日々。


「地図にない道」(須賀敦子著、新潮文庫)をパラパラめくる。

この人の名前は福岡伸一氏の本で初めて知って、
闇雲にアマゾンで何冊か注文したものの、
全然読んでなかった。

戦後間もなくヨーロッパに留学、
イタリア人と結婚した芦屋のお嬢様の随筆だ。

書き始めたのが60歳ごろからと、
「アラカン」のはしりのような方で、
文章は一言で「端正」。

穢れた世界を描いても、
上品に感じられるのは生まれのせい?
と思うのは先入観だろうか。

でも行間に陰鬱な精神世界が漂うのを感じるのは、
若くして夫と死に別れ、
自身も70歳を前にガンでなくなった、
決して幸せとはいえない人生を知っているが故の、
深読みだろうか?


立花隆氏は10万円。

佐藤優氏は20万円。


ひと月にかける本の購入代だそうだ。

ぼくは読書を趣味だとは認めないけど、
彼らは空気を吸うように本を読んでいる。

先日も紹介した、
「ぼくらの頭脳の鍛え方」では、
必読書として計400冊の本が紹介されているのだけど、
読んだことのある本は「バカの壁」ぐらいだ。


ぼくと彼らとの間にあるのが、
「バカの壁」だナ(泣)

●ということで、先日の誓いはあっさり破り、アマゾンで本を注文してしまった●日本シリーズ2勝2敗同士に。これでハムは札幌に戻れることになった。日本シリーズの過去の戦績をみると、○●○●ときたチームは必ず次も負けている。

2009年9月23日水曜日

欲望

「人間の欲望は他者の欲望である」というラカンの言葉が本当なら、
ぼくの欲望の多くは今は亡き父の欲望だ。

多くの子供は父母の欲望を自分の欲望として生きるし、
ぼくが特別なものではないだろう。

ただ、
そうであることに自覚的かそうでないかの違いはあると思うけど。


今日は予告通り、
久々天満「じゃず家」セッションに行った。

2曲ともバラードというのは、
本来好ましくないのは分かっていたけど、
どうしてもその2曲を歌いたかった。

結果、
決して出来はよくはなかったと思うけど、
自分としては望むべき方向に進歩していると実感できた。

セッションとはいえ、
聞いてくれる人がいるのだから、
冒険的な試みよりも、
安定的なものを披露するべきだったかもしれない。

でも、
人前で歌うということでしか得られないものは確かにあって、
だから、
セッションというのはぼくにとって、
練習と本番の中間のような位置づけとなっている。


父の3回忌が近く、
母の動きが慌ただしくなってきた。
間もなく納骨もする。

息子ならだれでも父親というのは、
目の上のたんこぶというか、
漬物石というか、
何を言われようが言われまいが意識せざるをえない存在であり、
つまり鬱陶しい。
にもかかわらず冒頭述べたように、
潜在的に父を喜ばせたいという思いがあるあたりが、
父と息子のありようの複雑さを招いているように思う。

仮に反抗的態度をとったとしても、
それは裏返しであり、
実は他人の欲望をとりわけ敏感に察知しているということかもしれない。


きっとぼくが今の仕事についても、
こうしてジャズに力を入れているのも、
母と一緒に暮らしているのも、
どこかで父の欲望とつながっているのだろう。

それを自覚したうえで、
父なき今、
ぼくがぼくの欲望を生きることは可能だろうか。

それはぼくとは何なのかという問いにもつながるように思える。

こんなことを書いているのは、
「ラカンの精神分析」(新宮一成著、講談社現代新書)を読み始めたからにほかならない。


欲望ということでは、
今日、
ひとつ閃いたことがある。

煙草でも何でも、
やめたいやめたいと思うと余計にそれが欲しくなるのは人情であるが、
その状態を乗り越えた先には、
何かを欲する情動=それを忌避するスイッチが入るという、
ある意味矛盾した状態に到達できるのではなかろうか。


秋だから少し哲学的に。


●読書の秋ということなのだけど、これはかなり歯ごたえのある本だ。ゆえに同時並行で「ダブルファンタジー」(村山由佳著、文芸春秋)も読み進める。女性作家の本は、男というものに対する女性の見方を知るうえでとても興味深い。

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...