2018年3月27日火曜日

篦棒

太陽の塔の内部が48年ぶりに公開されて、

結構話題になっているけど、

僕は当時、

あの内部に入って見た記憶がある。

今50歳の人じゃ当時は2歳だったわけで、

ほとんど記憶はないだろう。

そういう意味で、

当時の記憶があるほぼ最後の世代ではなかろうか?

率直に言って、

当時はしょうもないと思った。

生命の樹に沿って、

恐竜やらゴリラやらが枝に乗っているだけで、

岡本太郎の深遠な想いなど感ずる事もなく、

落胆はしないまでも、

子供心に、

ああこんなもんかと思った。

それより、

僕の興味は三菱未来館であり、

アメリカ館の月の石だった。

確か、

アメリカ館には入れず終いだったと思うけど。

で、

万博が終わって48年。

今でも残っているのは太陽の塔だった。

70メートルの威容は、

半世紀経っても変わることのない存在感で屹立している。

お祭り広場の大屋根は丹下健三の設計で、

当初は太陽の塔のは構想になかったとか。

もしそのママだったら、

ただの大屋根だったら、

僕らの世代の万博の印象は、

今とはまるで違っただろう。

大屋根を突き破ってそびえ立つ太陽の塔は、

紛れもなく万博のアイコンだった。

今、

大人になって思うのは、

よくもあんな塔を建てることを、

しかも計画の途中から発想して周囲を説き伏せて実現させたな、

ということ。

だって丹下健三の建築をまさにぶち抜くわけで、

そんな破天荒なアイデアを実現させたのは、

やっぱり当時の熱気だったのかなと思う。

2020東京五輪や、

実現すれば2025年の大阪万博で、

あれほどの篦棒なことをやれる人間がいるのか。

それを許容する国であるのか。

そう思うとき、

改めて岡本太郎の偉大さと時代の熱気について、

考えさせられる。

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