2017年11月23日木曜日

手紙

10年越しに、

ある人の手紙を読んだ。

読みたいような、

読みたくないような、

そんな気持ちをずっと抱いていたが、

今日読んでみて、

意外になほど冷静に受け止めた自分に驚く。

書かれている内容は、

僕にしてみれば的確に当時の僕の内面を捉えていて、

その分析眼と文章力にはある意味感心した。

さぞ苦労して書いたのだろう。

その後色々と考えたのだが、

それはある時期のある一面であって、

書かれなかったこと、

意図的かそうでないかは知らないけれど、

書いた本人の自分自身への分析は不十分だった。

つまりは一方的な書いた人の言い分であり、

たとえ書いた動機が僕のためであったとしても、

それはあくまで一面であり、

あの時起きた一連のカオスの全体像ではない。

それを知っているのは、

おそらく僕と相手だけだ。

手紙を書いたことに悪意はなかったと思う。

ただ、

その手紙を僕が読むことは当時はなく、

結果的に全く意味がない手紙だった。

今、

10年経って僕が受け止められたということは、

あの地獄の日々のトラウマを、

少しは乗り越えられたのかなと思う。

僕にとっては書かれていないことが本当に大事なことで、

その肝心のところが書かれていない手紙は、

感心はすれども感動は与えない。

他人の欠点はよく見える。

自分の欠陥には気づかない。

気づいても正当化する。

それが人間だ。

僕もその人も。

他人から見れば問題があるバランスでも、

それは一朝一夕でできたものではない。

歪ではあっても、

昨日今日現れた人にそのバランスを崩す資格はない。

それを手紙の主は、

およそ想像もつかないような手段を次々に繰り出して、

ぐちゃぐちゃにしてくれた。

そのことのダメージがどれほどのものだったか。

書いた人は10年経った今でも気づいていないだろう。

それでいい。

もう二度と会うことも話すこともないのだから。

僕はかつて「自己責任」という言葉をよく使った。

それはこういう意味だ。

たとえ選択が間違っていても、

その結果地獄に突き落とされても、

その道を選んだのは自分の意思だ。

だから、

結果も自分が引き受けねばならないということだ。

そういう意味では、

今の僕の全てが自己責任だ。

誰のせいでもない。

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