「学校に行くと馬鹿になる」
昔の農村などには、
こんな風に考える人が多くいて、
自分の子供を学校にやりたがらなかったという。
そんなの、
働き手を減らさないための方便だろう。
ぼくはそのようにしか理解していなかったが、
案外これは本当なのかもしれない。
まず最近、
NHKすペシャルで驚いた話。
日本人の20人に一人は、
文字を読んだり書いたりすることに障害がある。
「読字障害」というのだそうだが、
ぼくは聞いたこともなかった。
小学校で音読が異常に苦手な子がいたけど、
ひょっとするとこの障害だったのかもしれない。
そもそも人が文字を「発明」したのは5000年ほど前で、
言葉の発達、
つまり話したり聞いたりすることに比べれば、
人類史的には、
ほんの最近だという事。
だから、
人の脳には、
文字を処理するための「特別」の部位はなくて、
いわば既存の脳を「間借り」して、
本を読んだり手紙を書いたりしている(のだそうだ)。
その証拠に、
人は文字を読む時、
目で見た文字情報はいったん、
音声を処理する分野に送られ「音声」に変換され、
認識へと至る(のだそうだ)。
目読とは言っても、
脳は「音読」しているわけだ。
読字障害の人は、
この視覚情報を音声情報分野に送る部分の動きが、
その他の人に比べて著しく鈍いらしい。
だから文字が見えてはいても、
読めない。
で、
興味深いのは、
この読字障害の人の中には、
その他大勢に比べ、
著しく立体構造の認識力が高い人たちがいるという事実だ。
あるいは「ジュラシック・パーク」。
この映画にに出てくる博士のモデルになった人が読字障害で、
実在の博士は文字は読めないけど、
現代の地形を見ただけで、
恐竜時代のそこの地形が頭に浮かぶという。
恐竜の水飲み場だった場所などがすぐに「見え」るもんだから、
化石を次々に発見し、
恐竜研究に画期的な成果をもたらしたのだという。
古代人にとっては、
そうした地形把握力なんかは、
生存に直結していただろうから、
みんなごく普通に持っていた能力かもしれない。
ぼくたちは、
文字を手にした代償として、
多くの「能力」を失ったのではないか。
それが、
この番組の中で一番印象に残った見解だ。
で、
「学校へ行くと馬鹿になる」だけど、
この言葉が突き付けているのは、
今の日本人は果たして知的かという問いかけだ。
文字書きそろばんができることが知的というなら、
そりゃ知的になったのだろうが、
一方で失ったものを思う。
何も「おばあちゃんの知恵袋」的なことを言いたいわけではない。
もっと本質的な、
生き物としてヒトが本来持っていた感覚。
地形などの3次元把握力はそうだろう。
そのほかにも、
ぼくらが今は見えなくなった、
聞こえなくなったものがあるのではないか。
そんな状態を「馬鹿になる」と置き換えれば、
農家の親父の文句も、
理にかなってるのかもしれない。
少なくともぼくは馬鹿だ。
まったく異論なし。
こう考えてくると、
現代、
文字離れが起きているのは、
ある意味、
ヒトとしての本能なのかもしれない。
文字は、
脳が本来想定していない道具なのだから、
拒絶反応を示すのが、
むしろ普通ともいえる。
他に扱いやすい道具があれば、
さっさと乗り換えるのが正解かもしれない。
だからと言ってぼくは、
「文字に未来はない」などと言いたいのではない。
むしろ、
失くした感覚を思い出すために、
文字を逆利用できないかと思うだけなのだ。
理屈じゃないことを、
理屈で説明する。
そういう無理難題に挑戦し続けないと、
文字文化はやせ細る一方だと、
心配する。
●アイヌ伝承を書き遺した享年19歳の少女。太平洋戦争に反対した僧侶。NHKの宣伝マンみたいだが、こういう人たちの存在を知らないまま死ぬかもしれなかったわけで、あぁ見ていてよかったNHKと実感●ぼくの歌に関する感覚が正しい方向を向いていることが確認できた。こっちでいい●このブログを何かの弾みで知った方がいらっしゃれば、これからもよろしくお願いします。
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