2008年11月5日水曜日

信じるⅡ

「信じる」とは「信じる人になる」ということだ。
「なる」というのは「である」のではなく「変わる」ということだ。

でもそれは「清水の舞台から飛び降りる」とか「一世一代の決意」とか大それたことではないだろう。
イスラム教徒が日に何度も祈るように、
母が子の安全を願ってお百度を踏むように、
運動を繰り返すことによって、
ある日「信じる人になっている」。

ぼくの脳だけを取り出して、
生物学的には「生かして」おくことができたとして、
その時「ぼく」はどうなるのか。
恐らくとても短い時間で「ぼく」はフェードアウトしてしまうだろう。
「体」というインプットなしで「ぼく」を維持することはできない。

「ぼく」を作っているのは体の運動にほかならない。
「読む」ことも文字を見るという運動から始まる。
運動と切り離された理屈を頭の中でこねくって分かったつもりにはなれても、
本当に分かったことにはならない。
「ぼく」は脳の中にしかないとしても、
頭蓋をぶち割って脳みそを対象になすりつけるようにしなければ、
本当には分からない。

何を信じ、
何を分かりたいか。
それを決めるのは直観だ。
直感もまた、
運動でしか磨くことはできない。

ぼくは3年前の夏、、
「小説の自由」(保坂和志著、新潮社)を読んだ。
アウグスティヌスのくだりがとても印象的だった。
そこに共鳴できた自分は、
まんざらでもなかった。


●ちょっと別のところに書いた文章をコピペしてます。雰囲気違う、よな●TK逮捕。彼は金持ちではあったが、金持ちには「なれなかった」。時代を踊らせていたはずが、実は踊らされていた?じゃ踊ったぼくはどうなる?●小林秀雄のCDはいい。よく眠れる上、自分が賢くなった気がする。

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