駒の動かし方は知っているけど、
とても「指せる」とは言い難い将棋。
それでも棋士の言葉に接したり、
竜王戦の中継を見たりするのは好きで、
色んなことを気付かせてくれる。
彼らは将棋盤を挟んで座っているのだが、
実際は刀を持った剣士だ。
比喩じゃなく、
隙あらば互いを一刀両断にしようと構え、
じりじり間合いを詰める剣士そのものだ。
あるいは、
相手の繰り出すパンチを間一髪かわしながら、
同時にパンチを繰り出すボクサー。
「静」に見える二人の棋士の頭の中は、
一瞬たりとも気を抜くことのない「動」だ。
サッカーや卓球の激しい動きと何ら変わりはない。
ただ見えないだけだ。
将棋には、
途中のある時点での駒の全配置が、
過去の対局と全く同じになることがある。
だけど、
そこに至るまでの経緯は異なり、
たとえ、
経過さえも同じであったとしても、
棋士の頭の中の戦いは同じでありえない。
極論、
初手から終局まで、
まったく同じ棋譜が過去にあったとしても、
二つの対局は全く別のものだ。
棋譜は、
ある対局のほんの一部を記録したに過ぎない。
楽譜が、
奏でられる音楽の一部でしかないのと同じように。
たとえ近い将来、
コンピューターが将棋の「解」、
つまり先手必勝か後手必勝かを導きだしたとしても、
将棋の面白みが損なわれるものではない。
コンピューターは、
考えうる駒の動きすべてのパターンを、
網羅的に計算しつくしただけであって、
そこにはルールに基づいた「解」はあっても、
「勝負」はない。
将棋の醍醐味は、
闘う生身の棋士の「あり様」そのものだ。
だから、
その対局の醍醐味を真に理解しうるのは、
対局者同士だけであって、
それ以外の者は傍観者に過ぎない。
音楽の真の醍醐味も、
演奏されたその場にいた者だけが得られる、
ダイナミズムにこそある。
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