2008年11月16日日曜日

将棋

駒の動かし方は知っているけど、
とても「指せる」とは言い難い将棋。

それでも棋士の言葉に接したり、
竜王戦の中継を見たりするのは好きで、
色んなことを気付かせてくれる。


彼らは将棋盤を挟んで座っているのだが、
実際は刀を持った剣士だ。

比喩じゃなく、
隙あらば互いを一刀両断にしようと構え、
じりじり間合いを詰める剣士そのものだ。

あるいは、
相手の繰り出すパンチを間一髪かわしながら、
同時にパンチを繰り出すボクサー。

「静」に見える二人の棋士の頭の中は、
一瞬たりとも気を抜くことのない「動」だ。
サッカーや卓球の激しい動きと何ら変わりはない。
ただ見えないだけだ。


将棋には、
途中のある時点での駒の全配置が、
過去の対局と全く同じになることがある。
だけど、
そこに至るまでの経緯は異なり、
たとえ、
経過さえも同じであったとしても、
棋士の頭の中の戦いは同じでありえない。

極論、
初手から終局まで、
まったく同じ棋譜が過去にあったとしても、
二つの対局は全く別のものだ。
棋譜は、
ある対局のほんの一部を記録したに過ぎない。
楽譜が、
奏でられる音楽の一部でしかないのと同じように。


たとえ近い将来、
コンピューターが将棋の「解」、
つまり先手必勝か後手必勝かを導きだしたとしても、
将棋の面白みが損なわれるものではない。

コンピューターは、
考えうる駒の動きすべてのパターンを、
網羅的に計算しつくしただけであって、
そこにはルールに基づいた「解」はあっても、
「勝負」はない。


将棋の醍醐味は、
闘う生身の棋士の「あり様」そのものだ。
だから、
その対局の醍醐味を真に理解しうるのは、
対局者同士だけであって、
それ以外の者は傍観者に過ぎない。

音楽の真の醍醐味も、
演奏されたその場にいた者だけが得られる、
ダイナミズムにこそある。

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