2008年9月29日月曜日

明日

ポール・ニューマンが亡くなって、
ぼくは「スティング」は大好きで、
DVDを持っているのだけど、
もうひとつの代表作を見たいと思い立ち、
会社帰りにTUTAYAに寄った。

「明日、明日、明日」と心の中で唱えながら、
棚を順に探していく。

あった。

しかも、
借りられてもいない。

ラッキー。

パッケージを取り出す。

「俺たちに明日はない」



違うやんか。

「明日、明日、明日」

あの西部劇の、
そう、
「明日に向かって撃て」だ。

気を取り直し、
再度棚を目で追う。

あった。

でもレンタル中。

そりゃそうだ。

でも折角だからと、
物色していたら、
結局3作品も借りてしまった。

そのうちの「カポーティ」を観た。
作家トルーマン・カポーティを描いた作品なのだが、
特異なのは、
「冷血」という彼の代表作の、
執筆過程に焦点を絞っていることだ。

カポーティといえば、
「ティファニーで朝食を」が有名で、
洒落たニューヨーカーというイメージだがあるが、
実物はかなりの皮肉家、
そして変人。
列車のポーターに金をつかませて、
「あなたの新作は最高でした」などと、
知人に聞こえるように言わせたりする。

彼が米南部出身で、
ポーターが黒人であることが、
このエピソードを一層際立たせている。

しかし実はというか、
当然のことながら繊細で、
彼の外面が虚像であることが、
次第にわかってくる。

その彼が、
ある一家惨殺事件に引き寄せられる。

彼は現地に赴き、
犯人2人にまで面会して取材を重ねる。
そのうち彼は、
犯人の一人ペリーの中に、
屈折した自分自身を見出す。

2人が死刑になるまで見届けたカポーティーは、
結局5年余りかけて傑作をものにするのだが、
代償として精神が破たんし、
小説を書けなくなってしまう。

恐らくペリーの死刑を目の当たりにした時、
彼の中の何かも死んだのだ。

ウィキペディアによると、
若くして天才作家と呼ばれ、
社交界でも華やかな話題を提供してきた彼は、
「冷血」後、
アルコール及び薬物中毒による奇行が目立つようになり、
1984年、
59歳で死んだという。

「冷血」を読んでなかったら、
「何これ」という以外ない映画。

読んでいれば、
絶対また読みたくなる。
そんな作品だ。


●余りの冷え込みに、ナイロン製モッズコートを衝動買いした。今はユニクロフリースだ。暖房もいるぞ●んでさらに雨の中、阪神勝利。巨人と1ゲーム差に開いた●またも右折台風。あす、あさって久々連休なのにナ。

2008年9月28日日曜日

万歳

今宵のNHK「一期一会」は、
自分をさらけ出せないのが悩みという、
19歳の女の子が主人公。
そして、
その彼女に手を差し伸べたのが、
早稲田大学「バンザイ同盟」なる集団であった。

以下、
同同盟のHPより引用する。


バンザイ同盟とは、バンザイをする集団である。身近に祝い事を見つけてはゲリラ的にバンザイをするほか、入学式・合格発表・卒業式などの学内イベント、また結婚式・テレビ番組などにも呼ばれてバンザイをしている。同盟員は日頃、個々様々な活動に勤しみながらも、精神面・スキル面の双方からバンザイ力の向上に努めている。また、一年に数個のペースで新作バンザイの開発にとり組み、現在768種類(2006年現在)ものオリジナルバンザイを習得している。 バンザイ同盟は、人の喜びを自分の喜びとし、ともに勝手に楽しむという精神のもと、日本全国を飛び回っております。いつでも我々をお呼びください。戦闘的ボランティア集団バンザイ同盟が貴方のもとに至高のバンザイをお届けいたします


どうやら本気の馬鹿(東京の大学なので)集団だ。
HPでは判然としないけど、
確か番組では創立37年と紹介していたように思う。
由緒ある馬鹿集団だ。

で、
教師志望という、
すました彼女に同盟の法被を着せて、
高田馬場駅前で一緒に万歳させようというのだが、
なかなかうまくいかない。

当たり前である。
彼らのように出来る方が普通じゃない。
ぼくは彼女に同情した。
もちろん番組に応募したのは彼女だけど。
でもバンザイ同盟とは、
ちょっとハードル高すぎ。

それでも、
番組的には最後に、
彼女が振り付けを考えた新作万歳を皆で披露して、
めでたくお開きとなった。

しかし思うに、
バンザイ同盟の諸君は、
自分をさらけ出していると果たして言えるのだろうか?
同じ法被を着た集団だからできるのであって、
それは自分をさらけ出しているのではなく、
逆に集団に埋没しているだけなのではないか。

一時流行ったストリーキングと同じで、
個性を消せば捨てれる恥は結構ある。
さらけ出しているようで、
実は纏う殻を代えただけとも言える。
これもまた着ぐるみ状態。
つまり「盛り」の女の子も、
バンザイ同盟も根は一緒なのかもしれない。

考えるほどに、
自分をさらけ出すって、
簡単じゃないように思えてくる。

それは、
隠れたがる自分を、
心の奥から引きずり出してくるような、
そうして吐き出さないと死んでしまいかねない、
切羽詰まった行為であるはずだ。
そういう意味で、
人前で歌うというのは、
バンザイよりは、
さらけ出している部類だろう。

そうそう、
彼らのHPの幹部紹介ページで、
顔が似顔絵になっていたり、
写真にモザイクがかかっているのがあった。

オイオイ、
そんなんでどうするんだ。

ま、
いっか。


●坂本竜馬の手紙2通の鑑定結果が3200万円。司馬遼の「竜馬がゆく」は浪人時代に一気読みした。内容は忘れたけど、確かにワクワクした(はず)。それにしても、ただの手紙がねぇ●GT再び同率首位。さぁ、今日は頑張るぞ。

2008年9月26日金曜日

前進

先日、
会社近くを歩いていたら、
前からホームレスとおぼしき男が向かって来る。

この辺りでは珍しくないのだが、
この男は、
段ボールを歩道に敷いて座り、
右手で腰を浮かせると、
左手で段ボールの端をズリッと前に30センチほど進める。
そして、
それと共に自らも前進している。

ペットボトル入りの、
何かの飲物だけが持ち物のようで、
自分が動く時、
手を後ろに伸ばしてそれをいちいち引き寄せていた。

奇行なんだけど、
動作はしっかりしていたから、
特に体が悪いというわけではなさそうだ。

宗教行為か、
はたまたギネスでも狙っているのか、
何かわからないけど、
あまりに不思議な光景で、
しばらく眺めているうちに、
それでも10メートルほどは進んだろうか。

理由を尋ねたかったんだけど、
さすがにできなかった。

今度会ったら聞いてみよう。


●小泉元総理が政界引退とか。沈みゆく自民に引導か。見事に「コイズミ」株を高値で売り切った。それも気分悪いな。「政権交代」の現実味を感じ取った人は多いだろう。

2008年9月25日木曜日

贅沢

駅のホームに着いた途端、
大事な忘れものをしたことに気づいて、
自転車で戻っていたのでは、
ちょっとヤバい感じだったので、
タクシーに乗ったら、
窓が開いていて、
入ってくる風が心地よい。

昨日まで冷房が嬉しかったのに、
気がつくと、
暖房が欲しくなっている、
そんな気候の境目が毎年ある。
たぶん今が、
その境目じゃなかろうか?

先日、
台風を観測する飛行機から撮影した、
「台風の目」の写真が新聞に載っていたけど、
ちょうどそんな感じ。
一瞬で過ぎ去る季節のエアポケット。

母方の実家は、
新しい物が好きで、
冷房機を取り付けたのも早かった。
今の小型冷蔵庫ぐらいの大きさで、
車のラジエーターのような、
金属の板をいっぱい並べた部分に、
水滴がいっぱいついていて、
噴き出す風は、
こりゃ健康に悪いのではと、
子供心に心配になるほど冷たかった。

独特の冷気の匂いを今でも鼻の奥に感じることができる。
家の前の道は舗装されてなくて、
端には雑草が生い茂り、
ムッとするような熱気があたりを覆う中、
そのダイニングキッチンだけは別世界だった。
花輪クンちに行ったまる子状態。
親にねだることさえ考えられないほど高嶺の花ということ。

ほかの部屋はもちろん扇風機で、
羽にアーと言って遊んだり、
先っぽに人差し指をあてて、
少しずつ回転を遅くしたりして、
遊んだもんだ。

確か同じ家で、
祖母は、
先に炭を入れるアイロンを使っていたように記憶している。
そんな超アンバランスな時代の話だ。

我が家に冷房がついたのは、
もっとずっと後のこと。
それも、
祖母の家のお下がりだった。

そうだ、
中学生のある夏、
ぼくが一人で留守番することになって、
その冷房をガンガンにかけて、
ポール・モーリアのレコードをかけながら、
アガサ・クリスティの「カーテン」を読んだな。
何度も何度も針を置きなおして、
ということは、
オートリターンなんてなくて、
それも祖母宅のお下がりのステレオだった。

氷をいっぱい入れてキンキンに冷やした、
カルピス飲みながら。。。


最高の贅沢だった。


●この夏は発声練習をよくやったと思う。何度も何度も、や、これが極意かと思いながら、翌日には全然そんなことないと気づく繰り返しだったけど、少しはましになったかもしれない●麻生太郎総理大臣。2世が駄目なら3世か。内閣には34歳の2世もいるな。

2008年9月24日水曜日

備えあれば

大麻を吸うと、
とりあえず「お気楽」な気分になれて、
覚せい剤のような常習性や、
心身荒廃のリスクもないし、
現にアメリカでは合法の州もあるくらいや、
煙草の方がよっぽど体に悪いんやで、
日本が違法にしてんのは、
国民がお気楽になって働かなくなくなったら、
国力が落ちるからや、
ジャマイカでは皆やってんでと、
あてにならぬ話でしたり顔の同級生。

これが妙に皆の心をとらえ、
そうやなぁ、
何もせんと幸せ気分でいられるんやったら、
それが一番やなと、
働き盛りの同級生たちは、
一瞬、
夢の世界で想像を膨らませた。

そこへ別の男が、
ハワイのタロイモは、
切って食べても、
次々に根から新しいイモが生えてくんねんで、
食べもんの心配いらんねんやったら、
何にも怖ないなーと続け、
すると隣の女が、
タロイモの根は強いわよぉと、
相槌を打つ。

そうかハワイもええなぁ、
ていうか、
最終的にその手があんねんやったら、
何にも怖くないなということになって、
その後、
つい世知辛い話になっては、
ジャマイカで大麻、
ハワイでタロイモと、
思い出したように言っては皆で笑い、
隣の女は、
イモの根は強いわよぉと、
念を押すように付け加えた。

すっかり忘れていたのに、
「何でも鑑定団」の出張鑑定がブラジルだったから、
ふと思い出した。
何でブラジルでジャマイカなのかはともかく。

移民の苦難を知れば、
そんなにお気楽な話など、
世界中のどこにもありはしないことぐらいは、
もちろん分かってますよー。

でも、
いろいろシンドイ中年には、
そんな与太話も、
心の予備電池みたいなもんで、
一応、
必要なんだな。


●じゃず家のセッションで、ボーカルの池島里佳さんに久し振りに会った。夏の間忙しかったようで、それでもいつものように元気で明るい素敵な歌声を聞かせてくれた。ぼくの事はどうでもよろしい●王監督が引退する。野村監督が「わしやってていいんかな」と言っていた。

2008年9月23日火曜日

表情

巨人が首位に並んだ。
会社でスポーツ新聞を読んでいたら、
後輩に、
「顔がにやけてますよ」と指摘された。

はっと我に返ると、
確かに顔の筋肉がゆるんでいる。

最近は、
それほど応援している訳ではないのだが、
やはり本性は隠せない。
確かに、
子供の頃から巨人ファンだ。

会社ではクールにしているつもりだが、
自分で思っている以上に、
内面が顔に出やすいのかもしれない。

人間の表情は、
喜び、
悲しみ、
怒り、
驚き、
不安、
嫌悪、
の6種類あるという。

というか、
肌の色、
性別、
国籍に関係なく、
人類に表情は、
おおむねこの6種類しかないのだという。

言語の種類は一説には6800以上だというから、
表情の画一性に驚く。
エスキモーだろうがニューギニア原住民だろうが、
楽しい時には笑う。
何が楽しいかは別として。

呼吸と同じように、
表情は意識的にコントロールすることもできるが、
普段は無意識下にある。

思い返せば、
子供のころ、
巨人の野球帽をかぶっているというそれだけで、
阪神の帽子の子にいじめられたことがあったよな。

ここは阪神のおひざ元なのだ。
会社にも大人気ないトラキチが一杯いる。

首位争いは、
依然予断を許さない。
顔も心も、
引き締めよう。


●スポーツ新聞を読んでいても怒られない。いい会社ではある●福岡の小1殺害は思わぬ展開で言葉もない

2008年9月22日月曜日

理屈

前を行く亀を、
アキレスは追い抜けない。

なぜなら、
アキレスが亀のいる場所に着いた時には、
亀はさらに前にいるはずで、
その場所にアキレスがたどり着いても、
亀はさらにさらに前にいる。

こんなことが無限に続くので、
アキレスは亀を追いぬくどころか、
追いつくことさえできない。

唐突にゼノンのパラドックスを持ち出したのは、
北野武監督の映画がきっかけだけど、
ちょっとネットで調べてみたら、
2500年前から議論され、
記憶に反して、
何といまだ解決をみないのだという。

しかしながら、
解決できないのは、
物理学や哲学など、
形而上学での話であって、
実際にアキレスが追い抜けないと信じる人はいない。

理屈でいくら「追い抜けない」と言われても、
だれもが「追い抜ける」ことを知っているからだ。

人は頭だけで考えていると、
とんでもない間違いを犯すことがあるものだ。
言葉も含めて、
理屈のまやかしを打ち破れるのは、
実体験だけだ。

というのも理屈だけど。


●ぼくは0.99999...と無限に続く数=1だからだと思っていたけど、そういう話でもないらしい●巨人は阪神に追い付いたじゃないか。これも現実だ●遠方より言葉の贈り物が届いた。この言葉にまやかしはない。信じるに足る、力のある言葉だ。

2008年9月20日土曜日

溝口恵美子さんⅡ

溝口恵美子さんをコーナーポケットで聞くのは2度目だ。
マスターの鈴木喜一氏の一周忌メモリアルライブ第2弾。
ベーシストの北川潔氏が3日連続で、
ギターやボーカル、
サックス奏者らと競演するという趣向の初日に行った。

ここはジャズ喫茶で、
普段の主役はJBLの「怪物」スピーカーパラゴンだ。
店の音響は非常にタイトに作られていて、
スピーカーの「鳴り」を味わうにはいい具合なのだが、
ライブ、
特にボーカルにとってこれほど「キツイ」場所はないと思う。

元々反響が少ない上に、
狭い店内は、
約20人も入って超満員。
見ている方でさえ汗が出てくる。
シュアーのマイクボリュームも音量も絞り気味で、
当然ながらリバーブなどなし。
素顔ならぬ、
素声で勝負しなければならない。
日ごろ、
ゴテゴテに「厚化粧」しているようなボーカルでは、
とてもじゃないけど務まらないと思う。

さらに、
ベースとのデュオ。
北川氏の指先から生み出される、
圧倒的なうねりとの一対一は、
並み大抵じゃこなせない。

溝口さんは、
それはれは神経を張りつめ、
丁寧に丁寧に歌ってた。

北川さんも情け容赦ないから、
ある意味、
ベースと闘っているようでもあったが、
それが実に楽しげで、
その充実感オーラが店内に満ち、
ぼくらを酔わせた。

そりゃ、
いわゆる「厚化粧」PAや、
CDでは絶対わからないような、
多少の高音部のかすれや「行き違い」はあった。
でもそんなことは、
歌うこと、
歌で人を感動させることと何の関係もない。

魂の歌は、
出てない音まで聞こえるし、
スキャットなど、
いつまでも聞いていたいほど気持ちいい。


これが実力というものだ。


●数日前にセッションで同じ音響、マイクで歌っただけに、身に沁みてわかりました●巨人ついに首位阪神と1ゲーム差に迫る●1年の間に両方のアキレス腱を切ったラグビー神戸製鋼の大畑大介のリハビリと復活までを追ったBSスポーツ大陸で、彼が通っている整骨医がうちの近所だと知ってビックリ

=、≒、≠

ゴスロリの女の子に対して抱いた感触は、
要するに、
「ひこにゃん」を見ているのと同じだと分かった。

ひこにゃんの着ぐるみは、
あちこちのイベントで引っ張りだこだが、
「かわいいー」と歓声を浴びるのは着ぐるみであって、
その中に入っている人へではない。

ぼくでも、
あなたであっても、
「ひこにゃん」に変わりはない。
仕草の巧拙は今は抜きにして。

ゴスロリやその他、
パターン化されたファッションは、
ひこにゃんの着ぐるみと同じだ。

だから、
中の人間は、
ひこにゃんとは「全く」別の人間だということが、
あまりにもはっきりしているから、
外見と内面をリンクさせる発想がそもそも起きない。

化粧やファッションは、
もちろん自己演出だから、
その人の素と=ではないのは分かっているけど、
せめて≒ぐらいにして欲しい。
根拠はありませんが。

出来ればその人の性格というか、
個性を際立たせる方での演出が望ましいけど、
その人が欠点だと思っている部分を補う形であっても、
それは自分自身を振り返ってみても、
ありえていい。

いずれにせよ、
2倍とか3倍とか5倍とか、
素と≠、
かけ離れた方向に演出されてたら、
「見た目と中身が違いすぎー」ってなるだろう。

ぼくの場合は。。。

=?

≒?

≠!


●電車に乗ってきた若い女性が、目の前に座って独り言を言っている。それも大きな声で。ぼくは音楽を聴いているので内容まではわからない。隣の人とも、向かい、つまりぼくの隣の人と会話している風でもない。
携帯で話しているのなら、マナーの悪さにムッとくるんだけど、彼女の場合は、手に携帯もないし、とにかく不思議で仕方がない。じろじろ見るわけにもいかない。少しして、声がやんだと思ったら、彼女はバッグの中から携帯を取り出し操作した。なーんだ、イヤホンマイクで会話してたのか。それにしても、携帯を持っていないだけで、あれほど奇妙な光景に見えたことに驚いた。街で大勢の人が携帯も手に持たず、しゃべりながら一人歩いていたら、きっと怖い●岡本「ボーンフリー」で北浪良佳さんのライブ。初めて聞いた。からっと晴れた青空!という感じで、好印象だった。渡辺美里を思い出した。ここ1年ほど東京を拠点に活動しているそうで、ファーストアルバムも今年リリース。来月、NHKの旅番組に出演したのが放映されるそうで、一気に全国区の人になるか。

2008年9月18日木曜日

監視カメラ

英国内には監視カメラが420万台も設置されている。
ネット情報だから、
確かとは言えないけど、
少なくとも各国の中で突出していることは間違いない。

そういえば、
先日みたナショナル・トレジャー2にも、
主人公がお宝のありかを示す木片を奪われそうになり、
わざと信号無視をして監視カメラに撮影させるという、
荒業的なシーンがあった。

日本でも、
治安の悪化に比例するように、
その数は急増していることは、
実感としてある。
最近では、
事件解決の手がかりになることも少なくない。

TVでみたのだけど、
英国では、
犯罪の一部始終が監視カメラにとらえられていても、
警察は慌てたりしない。
次々と場所を変えて捉えられる犯人を、
じっとモニター画面で追跡し、
落ち着いたところでハイ御用となる。
何でかんでもうまくいく訳でもあるまいが、
切り札ではある。

公園で母親がトイレに行っているわずかの隙に、
小1の男の子が絞殺される事件が、
福岡市の公園で起きた。
この公園には監視カメラはなかったといい、
今後また、
一気に増えることは間違いないだろう。

にもかかわらず、
監視カメラ大国に嫌悪感を憶える、
ぼくの感覚は、
たぶん間違っていない。

その本質はなんだろうと、
かんがえているのだけど、
どうにも的確に表現できない。

これまでも言ってきたように、
ただ長生きさえすれば、
とにかく安全でさえあれば、
そのためには手段を選ばずという、
国の姿勢が気に入らないのかもしれない。

国民の生命や財産を守ることは、
国の大切な役割だろう。
そのことに異論はないけど、
経済分野では自己責任を強調しつつ、
また、
振り込め詐欺の一つも満足に減らせないような国が、
知らず知らず国民を総監視下に置くというような事は、
ぼくには「あなたの幸せのため」という美名を借りた、
人権侵害だとも思えるのだ。

そもそも国ってなんだろう。

ぼくは確かにこの国に生まれ育ち、
DNAレベルから日本民族ではある。
でも、
五輪で感動したのは、
日の丸が揚がったからでも、
君が代が流れたからでもない。
選手に感情移入するからだ。
どこの国の選手であっても、
感動する時はする。

この土地に住み、
働いて税金を納め、
もちろん恩恵を受けているのだが、
国という概念が国民よりも上位であるかのような、
そんな感触が嫌いなのだ。

つまり、
権力というものが。


●あまりに悲惨な事件だったので、テンションが上がってしまった●ドトールのマンゴーミックスジュースが販売終了になってしまった。残念●カラオケボックスの半額メールが連日届く。そんな日に限って行けなかったりする。

個性

制服。

中学から高校まで、
ぼくの時代は詰襟だった。
もちろん、
春夏は上着はないけど、
中学の時は帽子もあった。

襟は固くて3、4センチはあったかな。
内側にプラスチックの芯を取り付けるようになっていて、
前はフックで留める。

改造はしなかったけど、
このフックと第一ボタンぐらいまでは、
いつもはずしていたと思う。

小学校までは私服だったから、
制服は、
すこし「大人」になった証に思えたし、
おしゃれに疎いぼくとしては、
毎日着るものを考えずに済むから、
嫌いじゃあなかった。

でも、
そもそも反抗期だから、
校則と同じように、
「こうしなければならない」と言われると、
無条件に「嫌だ」と思う年頃でもあった。
そんな「矛盾」を感じながら、
6年間は過ぎて行った。

いま改めて考えると、
制服はあった方がいいな。
だって制服は決して没個性なのではなく、
中身の、
生の人間の個性を際立たせるものだと思うからだ。

12歳から18歳なんて、
本人はどう思うかは別として、
個性など、
あったとしてもわずかな囁き程度だ。
ぼくらの学校には1000人ぐらい生徒がいたから、
教師がその1000の囁きを聞き分けるには、
生身以外はできるだけ違いがない方がいいのだ。

生身の生徒は、
囁き程度ではあっても、
間違いなく個性を発しているのだから、
ノイズでかき消されては困るのだ。
少なくとも学校にいる時間は。

ところで、
今日の東京カワイイTVは「ゴスロリ」がテーマ。
毒々しい派手さは、
街で見かければ目を引くけど、
2人だろうが100人だろうが、
皆同じに見える。

それでは逆に没個性ではないかとも思ったが、
彼女らはそれなりに、
微細な部分の違いでそれぞれ個性を競っているようだ。
それは昨日の「盛り」も同じだ。

でもぼくの目には、
やっぱりどれも一緒にしか見えない。
だいたい「どれ」って言ってる時点で、
人間扱いしていないことに気づいた。

ファッションって、
元来そういうものかもしれないが、
そこまで外見が没個性なら、
中途半端に個性的なファッションの人より、
意外に会話をすれば、
その人柄が際立つような、
そんな逆説を思った。

ゴスロリの子と話することは、
たぶん一生ないけど。


●おかげで「黒色すみれ」の存在や、海外で「ゴスロリ」が注目されていることなどを知った。前にもこんなこと書いたっけ?●台風13号。中国に天敵でもいるのか?●おやすみなさい。

2008年9月17日水曜日

国の宝

「名医」番組が大流行だ。

いろんな分野で、
人一倍の努力で腕を磨き、
時には手術道具まで考案して、
世界中から尊敬を集める。

今夜のNHKプロフェッショナルも、
内視鏡を使った大腸がん検診の名医を取り上げていた。
通常なら開腹手術するケースでも、
技術を尽くして、
より患者のダメージを少なくする。
「患者を家族だと思って最善を尽くす」のだそうだ。

「神の手」としばしば呼ばれるこれらの医師は、
当然の如く、
めちゃめちゃ忙しい。
他の医師が投げだした、
あるいは名声を聞きつけた患者が、
全国から駆けつける。
時には医師自ら全国の病院に出向く。

ところが、
医者の不養生とはよく言ったもので、
以前見たある名医は、
十数種類の薬が手放せなかったし、
今日の名医も、
検診の隙を見て食べていた昼食は、
病院の購買部の弁当。
他県の病院への移動もローカル線を使っていた。

どうにかならないのかなって思う。

こんな人たちは人間国宝にでも認定して、
まず、
病院の煩瑣な事務から解放する。
全国の移動はヘリ、
専門の栄養士をつけて、
給与も十二分にあげて、
心おきなく患者を診て、
少ない休日も、
心からリラックスできるよう最大限の配慮をする。

その技術と情熱を、
若い医師に伝えることだけに専念して欲しい。

税金で何とかならんか?


●じゃず家セッション。力を抜くコツが少しつかめたように思う●東京カワイイTV。女の子に流行の「盛り」はクレオパトラの時代からとか。いや、この番組は面白い。

2008年9月16日火曜日

優先順位

コード・ブルーには、
トリアージの場面が何度か出てきた。

災害現場で
医師が被害者にタグをつけ、
傷害の状態を数秒で把握し、
タグの先端をむしり取っていく。

残った端が緑や黄色なら、
処置は後回し。
救命不可能を意味する黒も同様に後回しになる。
処置の対象になるのは、
もっぱら「頑張れば命を救える」赤の患者だ。

もし、
ぼくが被害者になって、
タグの先が黒ならどうする?
ちなみに黒は死亡を意味しない。
あくまで、
救えるかどうかが基準だからだ。
虫の息で黒を見たくないな。

またもし、
黄色だったら?
とりあえず命は大丈夫だと、
安心するだろうか。
傷がめっちゃ痛かったら、
自分でもう一枚むしって赤を偽装するかもしれないな。

ちなみに、
トリアージはフランス語で、
「選別」を意味するそうだ。

黄と赤、
赤と黒。
タグ一枚の色の差の持つ意味は大きい。

医師の判断は、
やむを得ないのだけど、
命には優先順位があるなどという、
短絡した発想がぼくたちに沈殿しないかと、
少し心配だ。

新型インフルエンザのワクチンにも、
職業によって接種する優先順位がある。

これもまた、
職業の貴賤とという発想と、
関連づけられないか不安だ。

あくまで、
最大の救命効果を発揮するためという、
前提を絶対に忘れてはいけないと思う。


●西宮北口「コーナーポケット」セッションに久しぶりに参加した。たまたまピアノの大友孝彰君がいて、伴奏を快諾してくれた。おまけにベースは北川潔氏!冗談抜きに世界的に活躍している人だ。すっかり緊張して出来は散々だったと思うけど、それでもこちらは「命の洗濯」だった。

2008年9月15日月曜日

気休め

イチローは毎朝カレーを食べる、
という話は有名で、
彼の「変」さ加減を語る時に、
必ず引き合いに出されるが、
ぼくは、
その気持ちがかなり分かる。

偏食という訳ではないのだが、
例えば大学時代、
学校近くの「じゃんじゃん」という定食屋で、
じゃんじゃん定食と、
ハンバーグ定食を、
ほぼ毎日変わりばんこに食べていたが、
ちっとも飽きなかった。

違うものを頼んで、
美味しくなかったら、
その方が嫌だ。

今は、
夜勤の時の夕飯は、
会社近くの3軒を日替わりで巡っている。
今日は天下一品で、
「チャーハン定食、ラーメンの出汁はあっさり」

さっと食べて、
帰り道、
涼しくなったなと、
公園で煙草を一本吸おうとしたら、
左手首にぼんやりとだが、
蚊らしきものが一匹。
あっと思って振り払い、
そそくさと会社に戻ると、
既に両腕に被害は及んでいて、
右手だけで5か所がやられていた。

こんなことも久しぶりなので、
観察していると、
みるみる膨らんできて、
しまいには膨れ同士がくっついて、
腫れのようになっていった。

途中、
思い出して、
膨らみの一つづつに、
爪で十文字の印をつけたけど、
焼け石に水より、
もっと効果がなかった。

痒いというより、
赤く熱をもった患部は、
しばらくぼくを悩ましたけど、
そのうち仕事が忙しくなって忘れ、
今は跡形もない。


●帰宅してBSクラシック・ロイヤルシートをつけていると、メゾソプラノの恰幅のいい女性が何度も何度もアンコールに応え、しまいには「君が代」まで歌っていた●最近お気に入りはKARRIN ALLYSON「BALADS」。コルトレーンの同名のアルバムを、曲順まで同じにカバーしている。

2008年9月14日日曜日

大丈夫

1980年、
朝日新聞の論説委員だった西村秀俊氏は、
80年代に生きる若者への提言「君たち、大丈夫か」との一文を寄せている。


 先に生まれてきた者の、人生についての知識や経験を、あとからくる者が、すべて吸収でき、だれもがそこから歩きはじめるように創られていたら、いまごろ人類は全然別の生物になっていたに違いない。ひょっとしたら、とっくに滅びていたかもしれない。
 幸か不幸か、人間は、そんなふうにはつくられてなくて、みんなそれぞれに、まったく新しい生を生きはじめ、過去にも現在にも決して同じものはない、自分だけの軌跡を描いて去ってゆく。(中略)
 自分を、どのように生きさせるかは、つまるところ、みな自分自身の判断と決定にまかされている。そういう存在として、われわれは一回かぎりの、命の時間を生きている。
 (中略)
 「青春」とは、その途上に待ちうける最初の、そしておそらく最もきつい急坂の名である。越えてしまってふり返れば、どのコースをたどればよかったかが簡単に分かるような気もするのだが、登りはじめたばかりの若者には、それは見えない。
 先に通り越した大人たちは、つい「こっちがいいよ。そっちを通ると危ないぞ」と、声をかけたくなる。自分がころび、傷つき、血を流した痛さを、味わわせたくないと、しんそこ思って声をかける。
 しかし、若者はきかない。かえって、大人が教えるのとは逆のコースを選ぼうとさえする。そして、転び、傷つき、血を流す。自分で判断し、自分で決定する存在として生きはじめばかりの若い人間が、自分が人間であることを主張し、誇示する衝動に駆られているその姿を、だれも非難することはできない。
 ただ若者の流している血が早く止まり、傷口が癒えるのを願うだけである。(中略)小さな傷のようでも、ひとつ間違えると全身をむしばんで、大事になることもありうるのを、知っているからだ。
 (中略)
 一つの時代に同居する若い人間と、若さを通り過ぎた人間との関係は、結局このようなものではないか、と思ってきた。
 (中略)
 それが、どうだろう。いまの学校教育の仕組みは、そうなっているだろうか。なっていないように、見えてならない。
 大人が与える教えを、早く、たくさん吸収することが、そこでは求められている。回り道をしたり、道に迷ったりしていたら、どんどんとり残される。失敗や行き詰りは致命的であり、いちど押された落伍者の烙印は一生ついて回りかねない。
 こんなやり方は、人間のあるべき姿に反している。先に生まれてきた者と、後からくるものとの間に、あってはならない関係のはずだと思う。それが、巨大で、強固な社会のシステムとして確立され、音をたてて稼働している。
 だから、表題に反して、これは「若者への提言」ではない。ただいまのような教育のあり方にもかかわらず、若者たちの多くは、きっと自分の力でそれを耐えぬき、みずから考え、みずから歩いてくれるのだと信じたい。事態を変える力を持たぬまま、せめてそう信じたい一人の大人の、これは、はずかしい問いかけである。
 君たち、大丈夫か。



これを読んでから、
もうすぐ30年。
確かに血まみれになった。

それでもまだ、
リングに立っている。

ぼくは、
あえて「大丈夫だ」と答えよう。


●西村氏は、その後論説副主幹やアエラ編集長などを務めたようだ●今日の読売新聞の夕刊に、作詞家・秋元康の聞き書き記事が出ていた。「22歳からの二十数年間は、ほとんど酒を飲まなかった。酒に酔う代わりに、活字に酔う時間を作りたかったからだ」。この一文で、ぼくはこの人のことがようやく分かった気がした。本当に賢い人だ●「ナショナル・トレジャー2」をDVDで。ニコラス・ケイジとエド・ハリスが共演していると思ったら、やっぱり製作は「ザ・ロック」と同じジェリー・ブラッカマイヤー。この人、古くは「フラッシュ・ダンス」「アルマゲドン」のほかにも、有名なTVドラマも手掛けていることがAllcinemaで分かった。

2008年9月13日土曜日

堂々巡り

一枚の新聞がある。
朝日新聞のPR版で、
「私の意見」と題して読者10人の文章が掲載されている。

そのうちの一人は、
高校2年生の男の子だ。

1980年9月、
その子はこんな風に書いている。



 悩みごとがあると、「十年後の自分はこのことで悩んでいた自分を思い出して、どう感じるだろう。」と、自問してみる。たいていの場合、軽く笑ってすます程度のことでしかないな、と思っては一種のなぐさめにしてきた。でも、悶々とするその時の真剣さこそが大切なんだ、と思うようになった。今、自分に一番必要で一番欠けているのは、そういう「ひたむきさ」だ。
 自分の人生は自分のものでしかない。一瞬一瞬の積み重ねが長い年月となり、やがて死を迎え、そのとたんに自己という意識まで消えてしまうのだろう。その与えられた時をいかに使いこなすか、それはすべてその人の思いのまま。どこまで自分に正直に「ひたむき」に生きられるかが、人生の目的の一つであり、それは死の瞬間に自ら判断し、それで終わる。
 自分の回りには、「ひたむき」にならせまい、とするものがあまりに多すぎる。「ひたむき」になれば、その犠牲になるものが生まれる。正直に言って、それがこわい。こわいと思うのは、知らず知らず保守的に無難な道を歩もうとしているからだ。そうすることは、与えられた命の無限の可能性を自ら狭めてしまう愚かなことだ。
 わかっている。わかっている。しかし…。
 私は人生の岐路にたちすくんでいる。広がる道は、どれも自分を拒絶しているかのように見える。自分がかわいいのだ。だからこそ、今こわさにうちかつ勇気を持ちたい。
 十年後の自分では、こんなことすら考えなくなってしまうだろうから。


16歳のこの男の子の、
それからの約30年の足どりをたどれば、
確かに無難な道は歩まなかったことが分かる。

かといって、
この子が思い描いていたような、
大人にもならなかった。

相変わらず、
同じようなことで悩んでいる。



●この文章は、西村秀俊という論説委員の提言への返答という形で書かれたものだ。恐らく、いまのぼくと同じぐらいの年齢(であったろう)西村氏の文章は、今のぼくにはどう映るのか。「君たち、大丈夫か」と題されたその提言については次回●福原愛の「スポーツ大陸」。NHKにしては薄味?●普段とっても忙しい人が、わざわざぼくを呼びとめるので、ただ事ではないと思ったら、確かにとっても嬉しい話だった。

2008年9月11日木曜日

連ドラ

もういっかい

もういっかい

もういっかい

もういっかい

ミスチルの主題歌が頭から離れない、
「コード・ブルー」が終った。
連ドラの次回が待ちどおしかったなんて、
久しぶりだった。

救命救急の現場で悪戦苦闘する、
研修医らの物語。
ぼくは途中から、
しかもとびとびで、
さらに、
終盤は、
同時並行で再放送の録画も見ていたから、
事実関係の把握など、
後になって気がつくこともあって、
無闇なことは言えない。

ただ「ER」の影響下にあるのは間違いなく、
医療用語がやたら飛び交い、
心理描写は、
科白より、
ちょっとした目線や、
しぐさなど、
演技に頼るところが大きく、
若い俳優の頑張りが楽しめた。

山下智久は、
グラビアでは笑わないんだと、
情熱大陸で知ってはいたけど、
演技でも同じなんだ。

個人的には、
若手ではないけど、
りょうが素敵だった。

ところで、
命ばかりは、
もう一回というわけには、
残念ながらいかない。

そこに若い医師の葛藤があるのだが、
悩みながらも、
またドクター・ヘリに乗り、
事故や災害の現場へと向かう。

そこで思うのは、
ミスチルが熱唱する「もういっかい」は、
繰り返しではないということだ。

この一回と、
次の一回は同じではなく、
どこからどこまで似ていても、
必ず、
絶対に、
違う。

年をとるということは、
ほんのわずか経験値を高めたに過ぎず、
人生の達人などいやしない。
だれもが人生においては素人だ。

それは怖い事であり、
希望でもある。


●素人と打って変換したら、見慣れた名前が出てびっくり。そっかぁ素人か●買った物を早く身につけたいのはよく分かるが、秋物を着ている人を見るとちょっと暑苦しい。

2008年9月10日水曜日

知声

小林秀雄といえば、
文芸評論家であり、
日本の知性の代表格だ。

今どき、
評論家という職業、
他人の創造をつまみ食いする、
無責任の輩のイメージもあるけど、
小林は、
批評という行為そのものを創造した。

受験生だった時、
彼の「近代絵画」を、
喫茶店で一語一語かみしめるように読んだ時の、
不思議な感触は、
今でもぼくの中に残っている。

一読難解な文章なんだけど、
本当にスローモーションのように、
ゆーくりと読んでいくと、
それまでぼくの頭にはなかった、
ものの考え方がボワッと浮かんできたのだ。

読書体験とはこういうものかと、
その時思ったものだ。

その小林の講演テープが残されている。
茂木健一郎が絶賛していたので、
関心があったのだが、
最近、
その一部をようやく聞くことができた。

「信ずることと考えること」
と題され、
昭和49年8月、
鹿児島県霧島で行われたものだ。

話はユリ・ゲラーのスプーン曲げから始まる。
つまり、
超能力のあるなしということなのだが、
意外にも、
小林は超能力の存在を、
「んなの当たり前ですよ」という感じで、
当然のごとく受け止める。

話っぷりは、
落語家のように小気味よく、
豪快というより、
最近ぼくがはまっている、
尺八のように枯れた鋭さだ。

そして話は発展していくのだが、
要は、
科学によって説明できるものなど、
この世の中のごく一部であり、
科学的でない=偽ではないということに尽きる。

科学は進歩しても、
人間性は孔子の時代から進歩してないという指摘は、
まさにその通りだ。
ヒトという生き物は、
進歩どころか、
科学によって逆に退化しているのかもしれない。

質疑応答含め約2時間の講演は、
味わい深く、
それこそ名人の落語のように、
オチが分かっていてもなお、
また聞いてみたくなる。

そういえば、
小林が亡くなったのは、
昭和58年3月。
ぼくが一浪して大学受験のため上京していた時だった。

またお世話になります。


●外国の小話だったか、空港でスーツケースの上にじっと座っている人がいて、「大丈夫ですか」と声をかけたところ、その男は「体と荷物はさっき着きました、今は心が着くのを待っているのです」と答えたとか●自民党総裁選。「出来レース」の真によき見本だ●太田さんと赤松さんから、相次いでメールが届いた。気にかけてもらって嬉しい。

2008年9月9日火曜日

引き際

巨人
大鵬
卵焼き

何ですかぁそれ?

確かに、
若い人には通じないかもしれない。

一昔前、
国民の大多数が好きなものの代表として、
よく使われた言葉だ。

江川
ピーマン
北の湖

時代は少しあとになるけど、
国民の「嫌われ者」の代表だ。

もっともこちらは、
ほとんどの人が知らない言い回しだろう。
それは当然で、
考えたのは、
ぼくの高校時代からの友人だ。

野菜と力士の順番が違うけど、
語呂もよく、
いい出来だと思う。

北の湖敏満(きたのうみ としみつ、本名:小畑 敏満(おばた としみつ)、1953年(昭和28年)5月16日 - )は、北海道有珠郡壮瞥町出身の大相撲力士で、第55代横綱。引退後、一代年寄北の湖となり、日本相撲協会第9代理事長(2002年2月 - 2008年9月8日)

横綱時代の体格は、179cm・169kg。三保ヶ関部屋所属。得意手は左四つ、寄り、上手投げ。優勝回数24回、先輩の大鵬幸喜、後輩の千代の富士貢に並ぶ戦後の大横綱の一人である。重量感と馬力を存分に感じさせる相撲で1970年代後半に一時代を築いた。

ウィキペディアには、
以上のように紹介されている。

中学1年生の時に入門した怪童で、
横綱になったころから記憶にあるけど、
とにかく強かった。

土俵下に吹っ飛んだ相手に、
手を差し伸べるどころか、
フンッってな顔をしてるものだから、
嫌われた嫌われた。
ごくたまに、
あっけないほど簡単に負けることがあって、
そんな時は、
子ども心に快哉したものだ。

それに比べれば、
朝青龍など、
かわいらしいものだ。

相撲取りといって頭に思い浮かぶ、
そのまんまの体型。
インタビューしても、
「はい」
「そうですね」
ぐらいしか言わない。

強ければそれでいい。
まこと、
昭和の横綱の典型だった。

力士の中には、
嫌われ者でも力が衰えると、
同情を呼んで人気者になる人もいたが、
ぼくの中では、
現役時代の北の湖には、
憎たらしいイメージしかない。

その彼が、
大麻問題で、
ついに、
日本相撲協会の理事長職を辞任した。
朝青問題、
しごき殺人問題と、
角界を揺るがす事件が立て続けに起きても、
彼だけは責任をとらず、
理事長職にとどまり続けたのだが、
自分の部屋の力士の不祥事とあっては、
さすがに居直れなかった。

誰もが思う通り、
辞任は遅すぎた。

江川、
ピーマンのイメージはだいぶ変わったけど、
北の湖は、
最後まで「嫌われ者」だった。

それはそれで、
いかにもな、
引き際なのかもしれない。


●難波の「845」で2曲。自分の感覚としてセンターのドを確信できるようになったことは、進歩だと思う●「図書館戦争」「阪急電車」の有川浩が女性とは、恥ずかしながら知らなかった。

2008年9月7日日曜日

細部

ドラマ、
映画、
小説。

そのどれにせよ、
自分が職業にしている分野が扱われると、
興味がわく。
しかしながら、
これまでの経験では、
そのほぼすべて、
ガッカリさせられることになる。

違う、
全然、
あぁ駄目。。。

ストーリーとは直接関係ないのに、
小道具や、
ちょっとした用語が違うと、
どうにもこうにも気になって、
しまいには、
自分の職業が馬鹿にされているようにさえ思えてくる。、
とどのつまり作品、
あるいは作者まで偽物に思えてくるほどだ。

ちょっと調べるなり、
本職の人に尋ねれば済む話なのに、
そのひと手間を惜しむからそんなことになる。

たった一点の些細な誤りが、
評価に決定的な影響を与えることもある。

なんだお前、
その融通の利かなさは、
昔と全然変わってないじゃないか、
と言われそうだ。

もちろん、
重箱の隅をつつくような見方をしている訳ではない。
普通に見たり、
読んだりしているのだが、
生理的に受け付けないような、
そんな間違い方というのがあるのだ。

生理的違和感と言えば、

「無理やり関西弁を話す人」

と言えば、
少しは近いかもしれない。

英語の歌詞を歌う者として、
自戒せねばならないことだと思う。


●美空ひばりの歌うジャズを聞いたアメリカ人は、彼女が英語をまったく話せない事を信じなかったという。さらにこれはぼくが直接知っている、アメリカ人ミュージシャンは、ひばりの「お祭りマンボ」のライブをテレビで見て、あの早いフレーズ一音一音のピッチが、寸分の狂いもないことに驚嘆していた●岡田J。最後まで見たけど、やってくれるねぇ。アナウンサーもかなり焦ってた●久々西宮北口コーナーポケットに1時間ほど。極上の音に浸るのは、それだけでものすごい練習した気にさせされる。

若いころ、
ぼくは決め付けたがり屋で、
人でも、
物でも、
出来事でも、
ちょっとしたことを拡大解釈して、
「だからいい」とか、
「だから駄目だ」とか、
判定してしまっていた。

きっと、
本質というものに早くたどり着きたくて、
焦っていたのだと思う。
そこには硬くて不動の、
輝ける真実があって、
掘ればきっと見つかると信じていた。

年を重ね、
性格ってやつは本質的に変わらないけど、
すべて物事には、
様々な要素が分かちがたく含まれていて、
割り切れるものでないと知る。

時には明らかな傷、
失敗でさえ、
捉え方次第では「味」と思えるようにもなる。

きょう、
高校時代の友人数人と集い、
わずかながらひと時を過ごし、
一番感じるたのは、
そういう事だ。

出会ってもうじき30年になる。

サラリーマン、
主婦、
警官、
医者、
教師。。。

それぞれが、
それぞれの道でここまで生きてきて、
会えば昔に戻って馬鹿話の花も咲くけど、
皆、
理想と現実の間でもがいてきて、
世の中割り切れないことだらけだと、
互いに言わなくても分かる。

ぼくのように、
ひび割れ、
欠損、
ずさん補修を繰り返し、
何が何だかわからなくなったような人間は、
なおさらその感を強くするし、
割り切ることに躊躇し、
鮮やか過ぎる断面には、
胡散臭ささえ覚える。

ふと、
円周率を思う。

3.14159265......

何万桁たどっても、
決して割り切れぬ不思議。

完全な形に潜む完全な無秩序。

割り切れないから美しく、
はてしなく続くから重いのか。

あるいは、
円は完全ではないのか。


●夜10時半ごろ、遅れて集合場所へ。盛大な焚き火の後の残り火という感じではあったが、十分楽しかった●岡田Jが先制した。このままで済むとは思えぬが。。。●赤松真理さん(pf)トリオのライブ。北野坂のクレオールは非常に美しい店で、そこで奏でられた音もまた、響き美しく、澄み、深く、心地よかった。いい音楽は、聞くだけで癒され、また勉強になる●日本2点目。美しすぎる。

2008年9月6日土曜日

復元

その織物は、
芥川龍之介をして、
「恐るべき芸術的完成」と言わしめた。

初代龍村平藏。

それ誰やねんって感じだけど、
新聞の書評に興味をそそられ読んだ、
「錦」(宮尾登美子著、中央公論新社)は、
この初代をモデルにした一代記だ。

主人公菱村吉蔵は、
16歳で織物の世界に飛び込み、
独創的な織り方の考案はもとより、
古代裂の復元で名をはせた。

作中、
法隆寺や、
正倉院に残る列の復元を手掛ける場面がある。
古人の創意工夫に近づかんとする、
鬼気迫る職人たちの姿は、
この作品の白眉だろう。

ボロボロの布きれから、
織り方、
文様、
染色方法を想像していく。

正解のない、
果てしない模索。
ついには周囲に気がふれたとまで言われ、
没頭すること何年にもおよび、
ようやく自らに納得の行く作品を完成させる。

妻、
妾、
そして幼きころに吉蔵に一目ぼれし、
生涯身の回りの世話をすることになる女性。
この3人の織りなす綾など、
なるほど宮尾登美子とうなる手慣れた書きっぷりで、
女心に恐れ入る。

と、
これを読んでいる時、
NHK世界遺産の旅で、
ワルシャワ旧市街を取り上げていた。

ここはナチスによって破壊の限りを尽くされ、
だから現状の美しい街並は、
この40年ほどの間に復元されたものだそうだ。
すべての建物、
レリーフ、
彫刻、
石畳に至るまで、
精密に再現できたのは、
銃弾飛び交う中、
街の破壊を予感した建築科の学生たちが、
細かに図面に写し取っていたからで、
その膨大な資料は、
修道院の棺に隠されたという。

だから、
世界遺産の指定は、
建物そのものの歴史的価値ではなく、
復興にかけた市民の情熱に対して行われたのだそうだ。

番組中、
ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督がインタビューに答え、
次のように言っていた言葉が、
印象的だ。


「恐れずに過去を見つめ、未来に伝えることが、われわれの使命だ」


●いつも忙しい人と、思わず小一時間、有意義な会話ができた●セリーグペナントレース。ついに巨人が首位阪神に3.5ゲームにまで迫った。さぁ、にわか巨人ファンが増えるぞー

2008年9月5日金曜日

怪物

東京湾は意外に深くて、
そこに200種類もの深海魚が棲むという。
そのなかでも最強なのは、
ゴブリン・シャーク(悪魔のサメ)なのだという。
NHKスペシャルで見たその姿は、
グロテスクという形容がピッタリだ。

一見、
ぼくらが普通に想像するサメより、
少し鼻づらが長いようにしか見えないのだが、
獲物に近寄った瞬間、
エイリアンのように、
牙をむいた口が突き出すのだ。

番組の説明では、
ヒレが十分に発達していないため、
俊敏に泳ぐことができないらしく、
のっそり移動して、
襲う瞬間、
口だけがすばやく動くように「進化」したという。
1億年前から姿は変わっていないらしい。

何で泳ぎが達者になれなかったのか。
はたまたならなかったのか。
ダーウィンの進化論ってよくわからん。
適者生存っていうことは、
この怪物より前の段階の生物がいて、
それが突然変異を起こし、
その中で、
環境に適応できたものだけが生き残ったってこと?

それがあの怪物で、
それから1億年もの間、
進化をやめているってことなの?
地上はこんなに変化しているのに。


?????????????


ヒトのスパンで考えちゃいけないんだろうけど、
1億年もありゃ、
もうすこし何とかならんかったんか。
「生き物の不思議」ってことにすりゃあ、
済む問題かね。

どんな突然変異を重ねれば、
あんな「怪物」が出来上がるのか。

あぁ、
とてもこの頭では理解できない。


●「コード・ブルー」いいね●ジャンカラのシークゥアーサージュースを初めて飲んだ。美味しいといえば、おいしい。でもぼくはドトールのマンゴーミックスジュースが好きだ。

2008年9月4日木曜日

語らず

高校の同級生が、
クラスメートの前で、
「ぼくは意志が弱いので、不言実行ではなく有言実行です」と言って、
難関大学の合格を目指すと宣言した。
確か授業で、
好きな言葉を一人ずつ発表していたのだと思う。

彼はそれから、
部活動にも入らず、
Z会という通信教育に熱を入れていたはずだ。
受験など、
そのころのぼくの視界にはなく、
休み時間も勉強している彼を見ながら、
いささか呆れ、
しかし、
実は自分はバスに乗り遅れているのではあるまいか、
などと不安に襲われもした。

大麻汚染に揺れる角界の北の湖理事長。
突然辞任を発表し、
「あなたとは違う」と言い捨てた福田首相。
いずれも、
世間が大騒ぎする中、
黙ったままだ。

これはただ、
無言実行なだけで、
そこに美徳や決意はうかがえない。
何かに脅えているだけだ。

同級生の彼が、
その後どうなったのか、
ぼくは何十年もの間、
関心を持ったことすらなかった。

ただ、
それが最善の策であるかのごとく、
無言を貫く首相や理事長を見ていて、
ふと、
思い出された。

沈黙は金。
雄弁は銀。

確かにそうだと思う。

だが、
語るべき時に語らないのは、
銅ですらない。


●室伏が繰り上げ銅になるとか。2大会連続の繰り上げメダル。やりきれないだろうなぁ●ついに、エアコンがいらない夜が訪れたようだ。

2008年9月3日水曜日

ワンピース

「神」なき時代に、
「私」すら確信できない時代。

というような事を昨日書いたけど、
別に難しいことでもない。

たとえば、
結婚して子供もいて、
なおかつ働いている女性の場合、
妻、
母、
会社員(パート)と、
単純に3つの「顔」を持ち、
無意識のうちにでもそれぞれを使い分けている。

さらに、
近所付き合い、
親戚付き合いの中で見せる顔も、
これらとは違うであろうし、
それぞれの場面において、
その女性は「別人」となる。

こんなことは、
昔から分かっている。

いまこの時代が、
20年前と決定的に違うのは、
ネットの存在と、
iPS細胞に代表される、
生命科学の到達だ。

このブログが典型で、
ここで書いていることは、
普段母親や、
職場や、
その他どの場面のぼくとも異なる。

できるだけ、
いまの自分の「素」を捉えて書くよう心がけている。
つまり、
2ちゃんねるで見られるような、
過激、
あるいは突飛な表現はとらないようにしているけど、
それでもなお、
ぼくのある面だけを知っている人にとっては、
驚きでありうる。

いまぼくは「素」ということを書いたけど、
それだって実はあやしくて、
誰かに読まれることを前提にしている以上、
多少はいいかっこしているだろうし、
嫌悪感を持たれるような可能性のある事は、
避けて通っている。

そもそも、
ぼくがぼくの「素」を分からない、
という事こそが「私」の不確実性の根本にある。

このブログの名前を最初、
「たはしろnoのりしろ」としたのは、
ぼくの中の「ぼく」の断片をつなぐ「のりしろ」が、
ここで表現できる、
あるいは自分で確認できるかなと思ったからだ。

でも続けているとこれは、
のりしろというより、
断片そのものだなと気づき、
今の題に改めた次第。

毎日、
ワンピースずつ増える、
ジグソーパズルのようなものか。


●毎日、夜中に一気に書いているので、きっと内容のダブり、事実誤認、誤字脱字、その他もろもろお許しください●じゃず家セッション。先週とは一変、4曲も歌えた。自分の中では2勝2敗っていう感じ。

2008年9月2日火曜日

切り替え

歌の練習に使うカラオケボックスがある。
受付に行くとまず、

「お名前をカタカナでフルネーム、年齢と電話番号をお願いします」

はいはいカタカナね

「ご希望の機種はございますか」

何でもいいです(カラオケは使わないのだから)

「お飲物はお部屋のインターホンでお願いします。そこのドリンクバーもご利用いただけます」

というやりとりが繰り返される。

この夏はさらに、
かき氷や、
パフェや、
沖縄のシークァーサージュースを勧められ、
それらを断ってようやく部屋にたどり着く。

マニュアルで決まってるのだろうけど、
もぅぼくなんか、
受付用紙とペンを差し出して、
「時間は?」と一言尋ねてくれればそれでいいよって言ってあげたくなる。

わりに混んでる日があって、
待ち時間の合間に観察していたら、
若い従業員のコらは、
同じように若い客にも、
当然のことながら、
いちいち丁寧に接客していて、
客の若者の方は、
当然のようにぶっきらぼうに答えていた。

立場が逆なら、
従業員のコたちも、
あの客のように軽いノリで、
「いらなーい」とか、
「はーい」とか言ってるんだろうなと思いながら、
いつか、
なんとかジュースでも頼んでみるかと思った。

それにしても、
丁寧といえばエドはるみ。

24時間テレビはほぼ完全に見なかったが、
さっきやってたマラソンのドキュメントは半分ぐらい見た。

ぼくと同年代の彼女。
ただ者じゃないと思ってはいたが、
いろいろあったんだなぁ。
懸命に走る姿からは、
芸人魂とか、
サービス精神というものより、
彼女が、
ひとり芝居を続けてきた20年の時を清算する儀式のように、
ぼくには見えた。


●エドはひとり芝居を続けていた39歳の時、友人に「このままだと来年も今年と同じだよ」と言われ、吉本のお笑い養成所に入る決心をしたという。グーッときた●「わたしは自分を客観視できるんです」と言って辞めた福田首相。この人にも、いろいろあったんだろうなぁ●梅田のアズールで畑ひろしさんのギターを少し聞いた。

2008年9月1日月曜日

玉ねぎ

ぼくがわざわざ東京の、
とある大学に行ったのは、
文学部に演劇科があるから、
という理由だが、
それはもちろん、
ただ東京で一人暮らしがしたいからとは、
正直に言えなかったための方便だった。
だから入学しても、
劇団や演劇サークルに入ることもなかった。

といっても、
まるっきり興味がなかった訳ではなく、
鴻上尚司の「第三舞台」は何作か観たけど、
やっぱりよく分からなくて、
けっきょくバイト三昧の6年間を過ごすこととなった。

「誰かについて考えている誰か、のことを誰かが考えている」(新潮9月号)で、
画家の古谷利裕は、
チェルフィッチュ(岡田利規)について論じていて、
興味深く読んだ。

脳科学や、
精神医学の発達によって、
「私」という意識は、
たとえば「魂」という言葉で示されるような、
確固たる存在ではなく、
ある人間が環境にさらされる中で生じる現象にすぎないということは、
もはや共通認識になっているかのようである。

「神は死んだ」が、
21世紀になって「私(という意識)も死んだ」
というわけだ。

ぼくという人間は、
100人にとっては100通りの解釈があるだろうし、
ぼく自身にしても、
数日前ならいざしらず、
数年前や、
子供のころとなると、
すでに脳以外は細胞レベルですでに「別人」だし、
脳で生み出される意識にしても、
子供のころとの連続性を担保するのは、
あやふやな記憶や、
当時の写真、
作文などからの推測でしかない。

意識とはそういう意味で、
ホログラムのようなもので、
あるように見えるけど、
触ることのできる実体はない。

自分が今考えていることを、
いくら追いかけても、
泉のように湧き出る意識の源流には決して辿り着けない。
ぼくの体はいつも、
ぼくより先に反応していて、
ぼくはそれを追認することしかできない。

それでもこうして生きていられるのは、
そんな不確かな証拠でも、
「私はずっと私だ」と信じているからだけど、
その信念は、
例えば地球は丸くて、
太陽の周りを回っていてということを、
直接見たわけでもないのに「絶対そうだ」と思っていることと、
大差はない。

自分の考えだと思っている事の大半は、
新聞や雑誌など、
いわゆる他人の受け売りか、
いいところ剽窃に過ぎないし、
玉ねぎの皮をむいていったら芯はありませんでしたと、
そんな玉ねぎな自分だったら怖い。


●古谷利裕はブログ「偽日記」で知られていて、本業の絵はよくわからないけど、考え方には刺激を受ける●「篤姫」宮崎あおい。かわいいし演技も素敵だけど、家茂の母に見えない。根本的な問題だ。

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...