1980年、
朝日新聞の論説委員だった西村秀俊氏は、
80年代に生きる若者への提言「君たち、大丈夫か」との一文を寄せている。
先に生まれてきた者の、人生についての知識や経験を、あとからくる者が、すべて吸収でき、だれもがそこから歩きはじめるように創られていたら、いまごろ人類は全然別の生物になっていたに違いない。ひょっとしたら、とっくに滅びていたかもしれない。
幸か不幸か、人間は、そんなふうにはつくられてなくて、みんなそれぞれに、まったく新しい生を生きはじめ、過去にも現在にも決して同じものはない、自分だけの軌跡を描いて去ってゆく。(中略)
自分を、どのように生きさせるかは、つまるところ、みな自分自身の判断と決定にまかされている。そういう存在として、われわれは一回かぎりの、命の時間を生きている。
(中略)
「青春」とは、その途上に待ちうける最初の、そしておそらく最もきつい急坂の名である。越えてしまってふり返れば、どのコースをたどればよかったかが簡単に分かるような気もするのだが、登りはじめたばかりの若者には、それは見えない。
先に通り越した大人たちは、つい「こっちがいいよ。そっちを通ると危ないぞ」と、声をかけたくなる。自分がころび、傷つき、血を流した痛さを、味わわせたくないと、しんそこ思って声をかける。
しかし、若者はきかない。かえって、大人が教えるのとは逆のコースを選ぼうとさえする。そして、転び、傷つき、血を流す。自分で判断し、自分で決定する存在として生きはじめばかりの若い人間が、自分が人間であることを主張し、誇示する衝動に駆られているその姿を、だれも非難することはできない。
ただ若者の流している血が早く止まり、傷口が癒えるのを願うだけである。(中略)小さな傷のようでも、ひとつ間違えると全身をむしばんで、大事になることもありうるのを、知っているからだ。
(中略)
一つの時代に同居する若い人間と、若さを通り過ぎた人間との関係は、結局このようなものではないか、と思ってきた。
(中略)
それが、どうだろう。いまの学校教育の仕組みは、そうなっているだろうか。なっていないように、見えてならない。
大人が与える教えを、早く、たくさん吸収することが、そこでは求められている。回り道をしたり、道に迷ったりしていたら、どんどんとり残される。失敗や行き詰りは致命的であり、いちど押された落伍者の烙印は一生ついて回りかねない。
こんなやり方は、人間のあるべき姿に反している。先に生まれてきた者と、後からくるものとの間に、あってはならない関係のはずだと思う。それが、巨大で、強固な社会のシステムとして確立され、音をたてて稼働している。
だから、表題に反して、これは「若者への提言」ではない。ただいまのような教育のあり方にもかかわらず、若者たちの多くは、きっと自分の力でそれを耐えぬき、みずから考え、みずから歩いてくれるのだと信じたい。事態を変える力を持たぬまま、せめてそう信じたい一人の大人の、これは、はずかしい問いかけである。
君たち、大丈夫か。
これを読んでから、
もうすぐ30年。
確かに血まみれになった。
それでもまだ、
リングに立っている。
ぼくは、
あえて「大丈夫だ」と答えよう。
●西村氏は、その後論説副主幹やアエラ編集長などを務めたようだ●今日の読売新聞の夕刊に、作詞家・秋元康の聞き書き記事が出ていた。「22歳からの二十数年間は、ほとんど酒を飲まなかった。酒に酔う代わりに、活字に酔う時間を作りたかったからだ」。この一文で、ぼくはこの人のことがようやく分かった気がした。本当に賢い人だ●「ナショナル・トレジャー2」をDVDで。ニコラス・ケイジとエド・ハリスが共演していると思ったら、やっぱり製作は「ザ・ロック」と同じジェリー・ブラッカマイヤー。この人、古くは「フラッシュ・ダンス」「アルマゲドン」のほかにも、有名なTVドラマも手掛けていることがAllcinemaで分かった。
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