ぼくがわざわざ東京の、
とある大学に行ったのは、
文学部に演劇科があるから、
という理由だが、
それはもちろん、
ただ東京で一人暮らしがしたいからとは、
正直に言えなかったための方便だった。
だから入学しても、
劇団や演劇サークルに入ることもなかった。
といっても、
まるっきり興味がなかった訳ではなく、
鴻上尚司の「第三舞台」は何作か観たけど、
やっぱりよく分からなくて、
けっきょくバイト三昧の6年間を過ごすこととなった。
「誰かについて考えている誰か、のことを誰かが考えている」(新潮9月号)で、
画家の古谷利裕は、
チェルフィッチュ(岡田利規)について論じていて、
興味深く読んだ。
脳科学や、
精神医学の発達によって、
「私」という意識は、
たとえば「魂」という言葉で示されるような、
確固たる存在ではなく、
ある人間が環境にさらされる中で生じる現象にすぎないということは、
もはや共通認識になっているかのようである。
「神は死んだ」が、
21世紀になって「私(という意識)も死んだ」
というわけだ。
ぼくという人間は、
100人にとっては100通りの解釈があるだろうし、
ぼく自身にしても、
数日前ならいざしらず、
数年前や、
子供のころとなると、
すでに脳以外は細胞レベルですでに「別人」だし、
脳で生み出される意識にしても、
子供のころとの連続性を担保するのは、
あやふやな記憶や、
当時の写真、
作文などからの推測でしかない。
意識とはそういう意味で、
ホログラムのようなもので、
あるように見えるけど、
触ることのできる実体はない。
自分が今考えていることを、
いくら追いかけても、
泉のように湧き出る意識の源流には決して辿り着けない。
ぼくの体はいつも、
ぼくより先に反応していて、
ぼくはそれを追認することしかできない。
それでもこうして生きていられるのは、
そんな不確かな証拠でも、
「私はずっと私だ」と信じているからだけど、
その信念は、
例えば地球は丸くて、
太陽の周りを回っていてということを、
直接見たわけでもないのに「絶対そうだ」と思っていることと、
大差はない。
自分の考えだと思っている事の大半は、
新聞や雑誌など、
いわゆる他人の受け売りか、
いいところ剽窃に過ぎないし、
玉ねぎの皮をむいていったら芯はありませんでしたと、
そんな玉ねぎな自分だったら怖い。
●古谷利裕はブログ「偽日記」で知られていて、本業の絵はよくわからないけど、考え方には刺激を受ける●「篤姫」宮崎あおい。かわいいし演技も素敵だけど、家茂の母に見えない。根本的な問題だ。
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