2008年9月10日水曜日

知声

小林秀雄といえば、
文芸評論家であり、
日本の知性の代表格だ。

今どき、
評論家という職業、
他人の創造をつまみ食いする、
無責任の輩のイメージもあるけど、
小林は、
批評という行為そのものを創造した。

受験生だった時、
彼の「近代絵画」を、
喫茶店で一語一語かみしめるように読んだ時の、
不思議な感触は、
今でもぼくの中に残っている。

一読難解な文章なんだけど、
本当にスローモーションのように、
ゆーくりと読んでいくと、
それまでぼくの頭にはなかった、
ものの考え方がボワッと浮かんできたのだ。

読書体験とはこういうものかと、
その時思ったものだ。

その小林の講演テープが残されている。
茂木健一郎が絶賛していたので、
関心があったのだが、
最近、
その一部をようやく聞くことができた。

「信ずることと考えること」
と題され、
昭和49年8月、
鹿児島県霧島で行われたものだ。

話はユリ・ゲラーのスプーン曲げから始まる。
つまり、
超能力のあるなしということなのだが、
意外にも、
小林は超能力の存在を、
「んなの当たり前ですよ」という感じで、
当然のごとく受け止める。

話っぷりは、
落語家のように小気味よく、
豪快というより、
最近ぼくがはまっている、
尺八のように枯れた鋭さだ。

そして話は発展していくのだが、
要は、
科学によって説明できるものなど、
この世の中のごく一部であり、
科学的でない=偽ではないということに尽きる。

科学は進歩しても、
人間性は孔子の時代から進歩してないという指摘は、
まさにその通りだ。
ヒトという生き物は、
進歩どころか、
科学によって逆に退化しているのかもしれない。

質疑応答含め約2時間の講演は、
味わい深く、
それこそ名人の落語のように、
オチが分かっていてもなお、
また聞いてみたくなる。

そういえば、
小林が亡くなったのは、
昭和58年3月。
ぼくが一浪して大学受験のため上京していた時だった。

またお世話になります。


●外国の小話だったか、空港でスーツケースの上にじっと座っている人がいて、「大丈夫ですか」と声をかけたところ、その男は「体と荷物はさっき着きました、今は心が着くのを待っているのです」と答えたとか●自民党総裁選。「出来レース」の真によき見本だ●太田さんと赤松さんから、相次いでメールが届いた。気にかけてもらって嬉しい。

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