2010年2月4日木曜日

絵画

久々に「刑事コロンボ」を見た。

「2枚のドガの絵」というヤツで、
確か前に見たことがあるはずなのだが、
最後の最後までオチが分からず、
かといってつまらない訳じゃなく、
ラストの鮮やかさに仰天してしまった。

もう30年ぐらい経っているはずで、
映像そのものは「古い」のだけど、
傑作はそんなことを軽く超越する。

でもどうしてぼくは、
こんなすごい結末を平気で忘れるのだろう?


19世紀後半に写真が発明されて、
絵画の持つ意味は大きく変化した。

写真以前、
絵画は人が目にする光景をありのままに描く技術、
あるいは想像の世界を可視化する技術、
そういった技術が重要視されてきたが、
写真や映画の登場で、
その技術は絵画にとって、
最重要のものではなくなった。

近代絵画はそこからスタートする。

写真の登場によって、
絵画は最初ダメージを受けた。

しかし次第に、
写真があるからこそ、
絵画は「あるがまま」という鎖から解き放たれた。

セザンヌやマティスやピカソが挑んだのは、
単に見ることを超えた「視る」行為。

彼らの絵画は、
絵を描くという行為は、
知覚ではなく感覚で対象物を捉える行動だったわけだ。

しかし、
椅子を椅子と考えずに描くということは、
考えてみれば難しい。

ある意味人間であること超越する営みだろう。


「絵画の二十世紀」(前田英樹著、NHKブックス)を読んでいたら、
つい受け売りじみたことを書いてみたくなった。

なんでこの本を読んでいるのか、
その話はまたややこしくなるからパス。

でも、
またも海文堂が絡んでいる。

amazonで購入して、
カバーをはずして読んでいたのだが、
今さっきカバーを見て、
帯の推薦文が保坂和志であることに驚く。

いろんなことが連係する今日この頃。

ぼくの心と歌は、
ちっとも連係してくれないのに、、、


●もといちの日の写真をメールで送ったのに、うまくいっていない様子。理由がわからない。

0 件のコメント:

コメントを投稿

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...