久々に「刑事コロンボ」を見た。
「2枚のドガの絵」というヤツで、
確か前に見たことがあるはずなのだが、
最後の最後までオチが分からず、
かといってつまらない訳じゃなく、
ラストの鮮やかさに仰天してしまった。
もう30年ぐらい経っているはずで、
映像そのものは「古い」のだけど、
傑作はそんなことを軽く超越する。
でもどうしてぼくは、
こんなすごい結末を平気で忘れるのだろう?
19世紀後半に写真が発明されて、
絵画の持つ意味は大きく変化した。
写真以前、
絵画は人が目にする光景をありのままに描く技術、
あるいは想像の世界を可視化する技術、
そういった技術が重要視されてきたが、
写真や映画の登場で、
その技術は絵画にとって、
最重要のものではなくなった。
近代絵画はそこからスタートする。
写真の登場によって、
絵画は最初ダメージを受けた。
しかし次第に、
写真があるからこそ、
絵画は「あるがまま」という鎖から解き放たれた。
セザンヌやマティスやピカソが挑んだのは、
単に見ることを超えた「視る」行為。
彼らの絵画は、
絵を描くという行為は、
知覚ではなく感覚で対象物を捉える行動だったわけだ。
しかし、
椅子を椅子と考えずに描くということは、
考えてみれば難しい。
ある意味人間であること超越する営みだろう。
「絵画の二十世紀」(前田英樹著、NHKブックス)を読んでいたら、
つい受け売りじみたことを書いてみたくなった。
なんでこの本を読んでいるのか、
その話はまたややこしくなるからパス。
でも、
またも海文堂が絡んでいる。
amazonで購入して、
カバーをはずして読んでいたのだが、
今さっきカバーを見て、
帯の推薦文が保坂和志であることに驚く。
いろんなことが連係する今日この頃。
ぼくの心と歌は、
ちっとも連係してくれないのに、、、
●もといちの日の写真をメールで送ったのに、うまくいっていない様子。理由がわからない。
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