今日ペンギンさんと話していて思い出したのだが、
若い頃のぼくは議論好きで、
何かにつけては酒を飲み、
友人と議論しあっていた。
今でいうディベートみたいなこと。
でも、
同窓会の折などに、
同じような調子で議論を吹っ掛けて、
相手の女の子に引かれちゃった苦い経験がある。
こちらはいつもの調子で、
ゲーム感覚で掛け合いしていたつもりが、
相手には、
糾弾とまではいかずとも、
何やら問い詰められているように思われようだ。
世の中、
理屈でわからないことなどないなんて、
無邪気に信じていた馬鹿なころの話だ。
議論っていったって、
所詮は自分の考えを納得させる、
いや押しつけていただけだった。
「なんで?なんで?」って子どものような問いを繰り返し、
相手を追い詰めては、
言い負かしたと得意になってた。
質問することの、
何たるかも知らぬ阿呆だった。
よい質問には答えが半分隠されている。
敬愛する作家開高健の言葉だ。
でも馬鹿で阿呆のぼくには、
その意味がよく分からなかった。
今だからこう思う。
質問とはつまり、
同じことを自分にも問うことだ。
だから、
開高のいう「よい質問」というのは、
それについて考えを深め、
質問者自らも成長できる質問っていう意味だと思う。
そしてさらに思うのは、
質問というのは、
哲学であれ、
世界情勢であれ、
機械の操作であれ、
ペットの飼い方であれ、
ともあれ何かを知りたいという情熱と同義だ。
だから、
情熱のない質問は、
仮に答えが得られたとしても無意味だ。
話しはそれるけど、
よく「それはよい質問だ」など嬉しそうな偉い人がいるが、
あれは単に、
その人にとって「都合がよい」質問である場合が多いから、
注意が必要だ。
いや今日は、
質問について考えたよ。
質問とは、、、
自分が何を知らないかを知り、
それを知りたいと思う情熱。。。
つまり、
相手を知るということは、
自分を知るということなのだ。
●ペンギンさんが開高健「輝ける闇」(新潮文庫)を読んでくれている。それは、とっても嬉しいことなんですよ。特別な意味で。
0 件のコメント:
コメントを投稿