このブログで何度も触れて来た、
「もといち」の担任A先生がガンだと知ったのは10月14日。
ちょうどひと月前だ。
その日のうちに、
当時の学級副委員長と二人で、
ご自宅を見舞った。
彼女は忙しい人だったけど、
たまたまその日は時間が空いていて、
ぼくも休みだった。
思い立ったが吉日だなと、
彼女としみじみ話した。
先生のお宅には大学生の時に伺ったことがあったが、
阪神大震災の後に越された新居に行くのは初めて。
住所も確かめずタクシーに飛び乗って、
副委員長も住所を知らないことが判明。
あわてて自宅に電話して、
母に年賀状の住所を教えてもらい、
グーグルマップで検索して訪れた。
先生の自室は、
決して広いとは言えない和室で、
そこに何やらものすごい量のモノが、
しかし非常な几帳面さで整頓されていた。
そこの布団で先生は寝ていた。
アポ無しに近い訪問だったけど、
先生はとても喜んでくれ、
布団の上にあぐらをかいて、
あれやこれや、
小一時間、
ほぼ一方的に話をしていたのは先生だった。
その枕元には、
ぼくらが「もといち30周年」で行った、
旅行の時の記念写真が飾られていた。
ぼくらにとって特別だったように、
先生にとってももといちは特別だったのだ。
あの日は、
集合場所を母校にして、
会議室で先生の簡易「授業」をしてもらい、
それから校内探検をして、
それから三田に向かった。
30数年前、
ぼくらは出会った。
クラス替えの一覧を見た時のショックは、
いまだに忘れられない。
男女とも、
かなりの曲者ぞろい。
こりゃ厄介なクラスになったな。
最初に思ったのは、
そういう暗い印象だった。
担任は、
生徒以上に厄介な先生だった。
授業は適当。
50分の大半は雑談。
しかも、
下らない。
ちょこちょこっと、
授業らしきものはするのだけど、
その内容は、
教師向けのアンチョコそのままだった。
子供心に、
あんなんでよう先生できるな、
と思った。
しかし、
何故だかぼくらはウマがあった。
実際、
先生は先生仲間の間でも厄介な存在だったと、
大人になってから知った。
最後は県立高校の校長までつとめたのだけど、
その最後のあいさつは、
学校への嫌みタップリだったと聞く。
だから、
もといちというのは、
厄介者と厄介者との、
奇跡的なコラボって感じだったわけだ。
先生を見舞ったあの日、
最後に頑張ってと握った手は、
力強かったのに、、、
「来年の年賀状は書けへんかもな」
先生の言葉は本当になってしまった。
2013年11月13日午後4時17分。
先生は永眠された。