2013年11月14日木曜日

恩師

このブログで何度も触れて来た、
「もといち」の担任A先生がガンだと知ったのは10月14日。

ちょうどひと月前だ。

その日のうちに、
当時の学級副委員長と二人で、
ご自宅を見舞った。

彼女は忙しい人だったけど、
たまたまその日は時間が空いていて、
ぼくも休みだった。

思い立ったが吉日だなと、
彼女としみじみ話した。

先生のお宅には大学生の時に伺ったことがあったが、
阪神大震災の後に越された新居に行くのは初めて。

住所も確かめずタクシーに飛び乗って、
副委員長も住所を知らないことが判明。

あわてて自宅に電話して、
母に年賀状の住所を教えてもらい、
グーグルマップで検索して訪れた。

先生の自室は、
決して広いとは言えない和室で、
そこに何やらものすごい量のモノが、
しかし非常な几帳面さで整頓されていた。

そこの布団で先生は寝ていた。

アポ無しに近い訪問だったけど、
先生はとても喜んでくれ、
布団の上にあぐらをかいて、
あれやこれや、
小一時間、
ほぼ一方的に話をしていたのは先生だった。

その枕元には、
ぼくらが「もといち30周年」で行った、
旅行の時の記念写真が飾られていた。

ぼくらにとって特別だったように、
先生にとってももといちは特別だったのだ。

あの日は、
集合場所を母校にして、
会議室で先生の簡易「授業」をしてもらい、
それから校内探検をして、
それから三田に向かった。

30数年前、
ぼくらは出会った。

クラス替えの一覧を見た時のショックは、
いまだに忘れられない。

男女とも、
かなりの曲者ぞろい。

こりゃ厄介なクラスになったな。

最初に思ったのは、
そういう暗い印象だった。

担任は、
生徒以上に厄介な先生だった。

授業は適当。

50分の大半は雑談。

しかも、
下らない。

ちょこちょこっと、
授業らしきものはするのだけど、
その内容は、
教師向けのアンチョコそのままだった。

子供心に、
あんなんでよう先生できるな、
と思った。

しかし、
何故だかぼくらはウマがあった。

実際、
先生は先生仲間の間でも厄介な存在だったと、
大人になってから知った。

最後は県立高校の校長までつとめたのだけど、
その最後のあいさつは、
学校への嫌みタップリだったと聞く。

だから、
もといちというのは、
厄介者と厄介者との、
奇跡的なコラボって感じだったわけだ。

先生を見舞ったあの日、
最後に頑張ってと握った手は、
力強かったのに、、、

「来年の年賀状は書けへんかもな」

先生の言葉は本当になってしまった。

2013年11月13日午後4時17分。

先生は永眠された。




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