先日、
梅田の地下街を歩いていると、
前を歩く男性の、
パーカーの柄が妙に気になって、
思わず写真を撮った。
拡大したのがこれ。
最後の晩餐
いや別に、
そりゃあ、
こういう柄もあるだろうけど、
なんだか気になった。
男性は、
このパーカーを買う時、
どう思ったのだろう?
うわ、
最後の晩餐、
超クールじゃん。
なのか?
ならばダヴィンチも草葉の陰で喜んでいるだろう。
完全なこじつけだけど、
だれしも死ぬわけだから、
最後の晩餐はだれにでもある。
しかし大抵の場合は、
これが最後の晩餐だと、
当人は知らない。
結果的にアレが最後だったと、
あとになって、
当人以外の人が知るだけだ。
死ではなくても、
結果的にアレが最後だった、
ということは、
人生においてママある。
例えば仕事において、
アレが最後の作品だったとか。
そういうことなら、
ある程度は事前に本人にも把握できるから、
ああこれが最後の仕事かと、
感慨を込めながらできる。
ま、
往々にして、
最後と思っていたのに、
結局またやる羽目に陥ったりするのだが、、、
言いたいのは、
これが最後とわかるということは、
幸せなのか否か?
などなど、
パーカーの男性を見た時に思ったわけでは、
全然ないけれど、
盗撮まがいの写真まで撮らせたということは、
何がしかぼくの中に、
反応するものがあったのかしらん、
と思った次第。
ちなみに、
これが本日の我が家の晩餐。
ま、
最後じゃないとは、
思うけど、、、