それぞれ活版印刷や、
レコードの発明によって、
一気に庶民のものとなった。
大木こだま・ひびきのギャグじゃないが、
わざわざ行かなくても、
向こうから来てくれるようになった訳だ。
ある場所に行かねば味わえない感動が、
手軽にお家で楽しめるようになった恩恵は計り知れない。
今の文明はこれらなしではあり得なかった。
その究極の形が、
今読んでいる「日本語が亡びるとき」(水村美苗著、筑摩書房)で描かれる。
シュメール語が記された粘土板から今まで、人類は最低三千二百万冊の本、七億五千万の記事やエッセイ、二千五百万の歌、五億枚の画像、五十万本の映画、三百万本のビデオやテレビ番組や短編映画、そして一千億のホームページを「出版」した。これらの全部の資料は、完璧にデジタル化されれば、すべてが五十ペタバイトのハードディスクに圧縮することができる。そのとき、すべてを収めた図書館が、あなたの財布の中に入り込んでしまう。
ちょっと端折って引用したけど、
そういうことらしい。
ちなみに「ペタバイト」とは2の50乗だって。
この文章に驚いたのは、
無数とか無限であるはずの人類の文化的営みが、
数値化、
つまり有限化されているということだ。
概算にしても、
人類が生みだした画像は五億枚と言われた時、
それが多いのか少ないのか見当がつかないけど、
何か「身も蓋もない」感じがした。
それがいかに膨大であっても、
数え切ることができれば、
つまりデジタル化されれば、
すべからく「圧縮」されちゃう運命にある。
圧縮といっても、
エッセンス、
つまり「濃縮」ならよいのだが、
圧縮すればするほど、
普通は「搾りかす」しか残らないものだ。
人間の営みの本当の魅力は、
圧縮され得ない部分にこそある。
例えば油絵の実物と、
そのデジタル画像の差。
舞台とその録画の差。
本当は言葉も音楽も同じことなのだと思う。
言葉は文字化されることで、
音楽は録音されることで、
圧倒的な流通力を得たけど、
言葉が発せられた場、
音楽が奏でられた場のほとんどすべてのものは、
そこにしかあり得ない。
こだま・ひびきが本当に来てくれればいざ知らず、
やっぱり劇場に行って見なければ、
こだま・ひびきを「体験」したことにはならない。
ところで、
今のぼくを圧縮したら、
どれぐらいの、
「汁」が出るだろう。
量はともかくその味は、
きっと苦いだろう。
●しっかり見ていたわけではないのだが、昨夜、BSの『COOL JAPAN ~発掘!かっこいいニッポン~』という番組で、ある外国人は日本の不動産の間取り図にを見て「コンロの数まで描いてあるなんてアメイジング!」と驚いていた。結構重要なんだけどなぁ●元町のjamjamに行くと、正面のスピーカーにゲバラのでかいポスターが掲げてあって、そこに「Noone is free from faults」と書かれてあった。「欠点のない人などいない」。その通りです。
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