2008年12月21日日曜日

演技

高倉健や吉永小百合を、
ぼくはこれまで、
あまり役者として重要視してこなかった。

「よい(上手い)役者」というのは、
役に成りきった芝居をする人であると、
ずっと思っていたからだ。

滅茶苦茶大ざっぱに言うと、
「舞台系」の人は上手くて、
「映画(テレビ)系」の人は大したことがない、
みたいな。

大変な男っぷりや美貌で、
確かに「大スター」ではあるけど、
吉永小百合が演じると、
どんな悪女でも汚れ役でも、
「吉永小百合」が透けて見えすぎて、
役になりきってないな、
なんて生意気にも思っていた。
高倉健についてもしかり。




そういう意味では、
中井貴一も吉永~高倉ラインの人で、
ぼくの中では「演技は上手くない人」だった。

でも、
「風のガーデン」を見て、
まず中井貴一を見直し、
さらに「演ずる」ということへの認識までが変わった。

役が憑依したかのごとき芝居も確かに凄いとは思うのだが、
「演ずる」ことの本質は、
すなわち役の本質をとらえることだと思い至った。




あたかも役が憑依したかのごとき演技であっても、
それはあくまで役の表面的なもので、
それだけでは、
結局「真似が上手い」ということにしかならない。
つまり「達者」の閾を出ないのではないか。

逆に、
役の本質をつかんでいたからこそ、
いつも変わらぬ七三分けの中井貴一が、
末期のすい臓がんであるプレイボーイの麻酔科医という、
役そのものに見えたのではないか。。。




何となく思い返しただけでも、
吉永小百合にしても高倉健にしても中井貴一にしても、
演じてきた役の幅はかなり広いように思う。
案外、
「上手い」と世評の役者は、
その人の「はまり役」ばっかり演じているだけかもしれない。

そう考えると、
宮崎あおいは篤姫を演じ切ったと言えるように思った。



●と、自分のものの見方の浅はかさに気付かされました。仲間由紀恵は何やっても「ごくせん」なんて言っちゃ失礼なのかも。

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