芸能人が遊ぶだけのクイズ番組は言うに及ばず、
30歳代ぐらいの「中年」とよんでも差支えないような人でも、
あまりに日本語の語彙が少ないので驚くことがある。
こんなことで大丈夫なのかと、
心配になりもするが、
まさか日本語が「亡びる」とまでは認識していなかった。
「日本語が亡びるとき」(水村美苗著、筑摩書房)を一読した。
英語が「世界の共通語」となることがはっきりした今、
日本語の「読み書き」は、
ぼくたちが努力して継承していかなければ亡びると、
著者は憂う。
誤解がないようにしたいのは、
日本人が将来みな、
英語を話すようになるという意味ではない。
あくまで書き言葉としての日本語である。
話し言葉と書き言葉を、
著者は明確に区別している。
「文化とは<読まれるべき言葉>を継承することでしかない」
その一方で著者は、
日本語と英語の両方に堪能な、
真のバイリンガルを要請すべきであるとも述べる。
日本語教育を内壁とすれば、
英語教育は外壁という訳だ。
それで初めて、
日本語は守られると。
漢字+ひら仮名+カタカナ文という、
世界でも類をみない日本の書き言葉は、
地理的、
歴史的特殊性があってこそ守られた「奇跡」なのだと言う。
実際、
漢字も仮名も廃止してローマ字に統一しようとか、
いっそ日本語そのものをやめてフランス語に乗り換え用とか、
びっくりするような議論が、
文化人や官僚を交え、
つい最近(といっても数十年前)まで大真面目にされていたのである。
日本語が当たり前に存在し、
当たり前に存在し続けると思っていてはいけないのだ。
地球上で日々言語は消滅していて、
今ある6000ほどの言葉のうち、
8割が今世紀中になくなると予測されているという。
以上はぼくなりのこの本の解釈で、
間違ってるかもしれないが、
なるほどなぁと思う一方で、
言葉は生き物だから、
「守ろうとか」
「流行らせよう」とかしても、
所詮なるようにしかならぬのではないかと、
ぼくなどは諦観派だけど、
それは、
無理やり別の言語を強制されるような、
苛烈な経験がない故の能天気発想なのだろうか。
例えば、
「ナウい」という表現がどういう感触を与えるかなんて、
数年単位の時間の差、
使われる状況、
使う人によって、
千差万別であって、
そういう移り変わっていくものを、
ピタッと固着させて受け継いでいくことなどできないのではないか。
文化を継承できるのは<読まれるべき言葉>だけだろうか。
その一方で、
わずか100年前にこの日本で書かれた文章が、
仮名遣いの違いや漢字の略字化などを経て、
すでに読むことすら困難ということも問題だ。
英語であれば、
何百年前のものでも、
基本的に読むことに苦労はない。
時代的に強引な比較だけど、
源氏物語には「現代語訳」が必要だが、
シェークスピアにその必要なない。
「死語」があったとしても、
理解できない訳じゃない。
ぼくが書いているブログは、
恐らく人類がある限り、
ネットの間を漂い続けるだろう。
しかし、
読む人がいないのなら、
書かれなかったのと同じだ。
確かに、
「第三者的」にはその通りだ。
でもそれは、
ぼくが書かなかったということと同じではない。
この違いは大きい。
●ノーベル賞講演の益川さん。「英語は話せるに越したことはない」。それでまた世の親は日本語より英語教育に熱を入れる●じゃず家セッション。今年最高の出来だったと思う。マイクと仲良くなれた気がした。9日は親父の命日だった。何かの縁だろうか●NHKプロフェッショナル。ボリショイバレエ団ソリスト岩田守弘。存在を知らなった自分を恥じる。久々鳥肌がたった。
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