足利事件が起きたのは1990年、
つまり平成2年だ。
平成の日本でまだ、
こんな冤罪が起きていたことに驚く。
当時はすでに、
昭和の時代に起きた数々の冤罪の反省から、
自白偏重の捜査が問題視されていた。
だからこそ、
警察はDNA鑑定という、
指紋に次ぐ新たな個人特定手段を導入したのだ。
当時の鑑定精度は200人に1人程度。
精度がその程度であることは、
当時からわかりきっていた。
指紋より遥かに劣るものの、
その他の物証や状況証拠などと合わせて、
多くの事件で証拠採用されたはずだ。
にもかかわらず、
冤罪が起きたのは、
警察が依然「自白偏重」だからだ。
それはとりもなおさず、
裁判官が自白調書を重視するということである。
やってもいない犯行を、
「やりました」と認める心理は、
ぼくにはリアルには想像できないけど、
恐らく、
来る日も来る日も繰り返される尋問によって、
圧倒的な無力感に襲われるからだろう。
「絶対服従」しか道はない。
そう思いこまされれば、
犯してもいない殺人でも認めてしまうのだ。
ぼくも。
あなたも。
だから、
裁判員の時代になって、
ぼくらが気をつけるべきは、
自白調書に重きを置かないということだ。
ましてや、
裁判になって被告が自供を翻した場合などは、
調書の存在そのものを頭から削除すべきだ。
その上で、
「疑わしきは被告人の利益に」
この鉄則を頭に叩き込んでおくことだ。
そうでないと、
いつ、
ぼくらが冤罪に加担するか分からない。
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