2009年6月6日土曜日

自白

足利事件が起きたのは1990年、
つまり平成2年だ。
平成の日本でまだ、
こんな冤罪が起きていたことに驚く。

当時はすでに、
昭和の時代に起きた数々の冤罪の反省から、
自白偏重の捜査が問題視されていた。

だからこそ、
警察はDNA鑑定という、
指紋に次ぐ新たな個人特定手段を導入したのだ。

当時の鑑定精度は200人に1人程度。
精度がその程度であることは、
当時からわかりきっていた。

指紋より遥かに劣るものの、
その他の物証や状況証拠などと合わせて、
多くの事件で証拠採用されたはずだ。

にもかかわらず、
冤罪が起きたのは、
警察が依然「自白偏重」だからだ。

それはとりもなおさず、
裁判官が自白調書を重視するということである。



やってもいない犯行を、
「やりました」と認める心理は、
ぼくにはリアルには想像できないけど、
恐らく、
来る日も来る日も繰り返される尋問によって、
圧倒的な無力感に襲われるからだろう。



「絶対服従」しか道はない。
そう思いこまされれば、
犯してもいない殺人でも認めてしまうのだ。

ぼくも。
あなたも。



だから、
裁判員の時代になって、
ぼくらが気をつけるべきは、
自白調書に重きを置かないということだ。

ましてや、
裁判になって被告が自供を翻した場合などは、
調書の存在そのものを頭から削除すべきだ。

その上で、
「疑わしきは被告人の利益に」
この鉄則を頭に叩き込んでおくことだ。

そうでないと、
いつ、
ぼくらが冤罪に加担するか分からない。

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