ぼくたちが生きるこの時代は、
絶対的なものが何一つない、
再帰性の問題に直面している。
人間が生きる上で、
絶対に守らねばならぬ「倫理」は、
本当はどこにも存在しない。
「人を殺すのがなぜいけないか」
「なぜ自殺はいけないのか」
こんな問いにさえ、
万人を納得させられる理屈はつけられない。
地球の生い立ちや行く末、
その中での人類の存在のはかなさは、
科学によって次々明らかにされている。
ぼくたちが自由意志だと感じているものも、
あやふやであることがほぼ確実だ。
社会システムにしても、
民主主義や資本主義が絶対だとは、
もはや誰も信じてはいないだろう。
にもかかわらず、
この地球上では60億からの人間が現に生きている。
何か考えて行動していかないと、
多くは早晩死んでしまうだろう。
それは戦争や紛争の比ではない。
自由意志があろうがなかろうが、
ぼくたちはとにかく何か考えて、
この21世紀の初頭という時代に行動しないわけにはいかない。
無論、
何もしない「不作為」も立派な意志として、
結果に責任を負わなければならない。
科学がわずか400年足らずの間に飛躍的に進歩しているのに比べ、
何千年たっても人間性が変わらないのは、
この再帰性の問題を棚上げにして、
神(ゴッド)や、
お天道様や、
ご先祖様なんかに倫理観を押し付けてきたからではなかろうか?
もちろん、
昔の人も再帰性の問題には気づいていて、
だからこそ神やその他もろもろの概念を発明した、
とも言えるかもしれないが、
もはや再帰性の問題を避けて通ることはできない。
押し付けてきたツケは払わなければならない。
生に執着するほど死が怖くなる。
そんな言説を読んだ。
なるほどと思う。
生と死の間には差異はなく、
とりあえず生まれて、
今は生きているのだから、
生きている側にいる。
それぐらいに考えるのが妥当な気がする。
絶対的な価値観が失われて、
倫理から社会システムから、
何から何まで「ぼくたち」が決めて、
結果も引き受けねばならないなら、
その理想は、
「あぁ生きてるのもいいかも」って、
だれもがたまには、
自分で自分を祝福できる世ではなかろうか?
それぐらいが、
一番よい。
でもそれすら難しい。
●石川遼、自力で全英切符。
0 件のコメント:
コメントを投稿