2009年6月29日月曜日

祝福

ぼくたちが生きるこの時代は、
絶対的なものが何一つない、
再帰性の問題に直面している。

人間が生きる上で、
絶対に守らねばならぬ「倫理」は、
本当はどこにも存在しない。
「人を殺すのがなぜいけないか」
「なぜ自殺はいけないのか」
こんな問いにさえ、
万人を納得させられる理屈はつけられない。

地球の生い立ちや行く末、
その中での人類の存在のはかなさは、
科学によって次々明らかにされている。
ぼくたちが自由意志だと感じているものも、
あやふやであることがほぼ確実だ。

社会システムにしても、
民主主義や資本主義が絶対だとは、
もはや誰も信じてはいないだろう。



にもかかわらず、
この地球上では60億からの人間が現に生きている。
何か考えて行動していかないと、
多くは早晩死んでしまうだろう。
それは戦争や紛争の比ではない。

自由意志があろうがなかろうが、
ぼくたちはとにかく何か考えて、
この21世紀の初頭という時代に行動しないわけにはいかない。
無論、
何もしない「不作為」も立派な意志として、
結果に責任を負わなければならない。


科学がわずか400年足らずの間に飛躍的に進歩しているのに比べ、
何千年たっても人間性が変わらないのは、
この再帰性の問題を棚上げにして、
神(ゴッド)や、
お天道様や、
ご先祖様なんかに倫理観を押し付けてきたからではなかろうか?

もちろん、
昔の人も再帰性の問題には気づいていて、
だからこそ神やその他もろもろの概念を発明した、
とも言えるかもしれないが、
もはや再帰性の問題を避けて通ることはできない。
押し付けてきたツケは払わなければならない。



生に執着するほど死が怖くなる。
そんな言説を読んだ。

なるほどと思う。

生と死の間には差異はなく、
とりあえず生まれて、
今は生きているのだから、
生きている側にいる。
それぐらいに考えるのが妥当な気がする。

絶対的な価値観が失われて、
倫理から社会システムから、
何から何まで「ぼくたち」が決めて、
結果も引き受けねばならないなら、
その理想は、
「あぁ生きてるのもいいかも」って、
だれもがたまには、
自分で自分を祝福できる世ではなかろうか?

それぐらいが、
一番よい。

でもそれすら難しい。


●石川遼、自力で全英切符。

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