人は自分の物差しで世界を考える。
その物差しの目盛りが1メートル単位なら、
物事は1メートル単位でしか分からないし、
1ミリ単位なら、
1ミリ単位で世界を考える。
若いとき、
世界や人生を単純にとらえがちなのは、
物差しがまだひどく荒いからだ。
人が生きることは、
生き続けることは、
一面、
自分の物差しの目盛りを、
どんどん細かくしていく作業だ。
もう一面、
その物差しを長くしていくことでもあるだろう。
どんなに大きなものでも、
一度で正確に測れるようになること。
生きることは、
そういうことでなくてはならない。
小林秀雄はその講演の中で、
「簡単に読むな」と強く説く。
「簡単に分かるというのは、諸君が簡単に分かろうとしているからだ」と。
例えば、
「1Q84」という小説。
村上春樹が7年かけて書き上げたものを、
数日で一気読みして分かるなんて、
土台無理だ。
少なくとも作者と同じ7年ぐらいかけて、
ようやく何か分かりかける、
そんなものかもしれない。
とはいえ、
そんなに長い間、
毎日毎日この小説のことだけ考えていられるほど、
こちらも暇ではない。
だから「物語」なのだと思う。
夢中になって読んだ物語は、
その細部は忘れていったとしても、
輪郭はいつまでも心に焼きつき、
繰り返し繰り返し思い出される。
そこが、
思想や哲学と違うところだ。
そして50歳になった時、
50歳なりの物差しで、
60歳になった時、
60歳なりの物差しで読み解く。
あるいは、
物語そのものが、
自分の物差しの一部になっている
魅力ある物語とは、
それほどに強靭なものであるはずだ。
青豆と天吾の物語は、
10年後、
ぼくの中でどう完結するのだろう。
●ひどく暑いので、とうとう保冷財を首に巻いて出勤。
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