2009年6月22日月曜日

物語

人は自分の物差しで世界を考える。

その物差しの目盛りが1メートル単位なら、
物事は1メートル単位でしか分からないし、
1ミリ単位なら、
1ミリ単位で世界を考える。

若いとき、
世界や人生を単純にとらえがちなのは、
物差しがまだひどく荒いからだ。



人が生きることは、
生き続けることは、
一面、
自分の物差しの目盛りを、
どんどん細かくしていく作業だ。

もう一面、
その物差しを長くしていくことでもあるだろう。
どんなに大きなものでも、
一度で正確に測れるようになること。
生きることは、
そういうことでなくてはならない。



小林秀雄はその講演の中で、
「簡単に読むな」と強く説く。

「簡単に分かるというのは、諸君が簡単に分かろうとしているからだ」と。

例えば、
「1Q84」という小説。
村上春樹が7年かけて書き上げたものを、
数日で一気読みして分かるなんて、
土台無理だ。

少なくとも作者と同じ7年ぐらいかけて、
ようやく何か分かりかける、
そんなものかもしれない。



とはいえ、
そんなに長い間、
毎日毎日この小説のことだけ考えていられるほど、
こちらも暇ではない。



だから「物語」なのだと思う。



夢中になって読んだ物語は、
その細部は忘れていったとしても、
輪郭はいつまでも心に焼きつき、
繰り返し繰り返し思い出される。

そこが、
思想や哲学と違うところだ。



そして50歳になった時、
50歳なりの物差しで、
60歳になった時、
60歳なりの物差しで読み解く。

あるいは、
物語そのものが、
自分の物差しの一部になっている

魅力ある物語とは、
それほどに強靭なものであるはずだ。


青豆と天吾の物語は、
10年後、
ぼくの中でどう完結するのだろう。


●ひどく暑いので、とうとう保冷財を首に巻いて出勤。

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