2009年6月24日水曜日

方便

読売新聞夕刊「高村薫の寸草便り」が、
なかなか上手いこと書いていると思った。
かなり長いが紹介する。



 私たちは、日々の生活のさまざまな場面で答えを求め、正否を求め、結論を求めて生きている。ときに煩雑な筋道に忍耐を切らし、「だからどうなの」とショートカットで結論を要求したりもする。先月始まった裁判員制度も、私たち一般人が白か黒かを決めることになるが、答えを出し、その答えが社会で確定的な意味をもつという意味では、裁判とは、必ずしも事実そのものではない次元で行われるひとつの構造化であり、公に語られる一つのフィクションだとも言える。

 しかし、そもそも事実とは何だろうか。事件を起こすに至った愛憎の機微だの、家族の感情模様だの、小説家ですら描ききれない人間のこころについて、限られた時間のなかで一定のかたちにする手続きは、それなくしては結論を出すことができない制度上の要求であるが、もし時間が無制限にあれば、さらに事実に近づけるのだろうか。

 たぶん、そうではあるまい。裁判であれ、日常生活であれ、政治であれ、文学であれ、私たちがそれぞれに言葉を繰り出して何かを言い表そうとするとき、それは言葉でその当のものを全体から切り取り、「これ」と名づけてかたちにする行為にほかならない。人によって見え方が違えば違う言葉が繰り出され、一つの物事が違う姿を現して、人の数だけの「これ」が生まれる。そのそれぞれを、私たちはみな事実と呼び、それぞれに抱きしめて生きている。

 さてそう考えるなら、(中略)たとえば、今国会で審議が進められてきた臓器移植法改正案は、またも脳死を人の死とするか否かという一点をめぐる難しい議論になったが、「移植をする場合に限って脳死を人の死とする」という現行法の考え方自体、一つの答えが全員の答えではないことの見本のようなものだろう。私たちは、人間一般の死についてさえ、必ずしも共通の言葉をもっておらず、また、もちえないのである。しかし、問いを立てた以上、答えは出さなければならない。

 なぜなら、問いは問題があるから立てられるのだし、一定の答えを出してときどきの問題を確定してゆかなければ、先へ進みようがないからである。臓器移植法が答えを出しようのないものにあえて答えを出すのも、刑事裁判が人間の行為に白黒つけるのも、ただ社会を前に進めるためであり、私たちはその答えを共同体の合意にして、ともかく歩んでゆくのである。

 私たちは、答えというフィクションを生きている。どんな答えも私たちがときどきを生きる方便であり、けっして絶対などではないからこそ「答える」ことに意味が生まれる、とも言える。そしてそうであるなら、ときに答えを出すのが難しいのは当たり前だし、そういう困難な問いこそ、答えをひねりだす価値があるというものだろう。

 ひとは一生の間にいくつ答えがたい問いを抱え、いくつ答えをだしてゆけるだろう。問わなければ、答えもない。




なるほどと思う。

これを踏まえ考えなければならないのは、
「どうして私たちは先へ進まねばならぬのか」という点だろう。

「方便」を使ってまで進まねばならぬ「先」に、
一体何があるというのか。

これもまた、
問いである。


●村上春樹インタビュー「中」を読み落としていたことに気づいた。てっきり「上」「下」の2回だと思っていたのだ。危ない危ない。

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