「人間の欲望は他者の欲望である」というラカンの言葉が本当なら、
ぼくの欲望の多くは今は亡き父の欲望だ。
多くの子供は父母の欲望を自分の欲望として生きるし、
ぼくが特別なものではないだろう。
ただ、
そうであることに自覚的かそうでないかの違いはあると思うけど。
今日は予告通り、
久々天満「じゃず家」セッションに行った。
2曲ともバラードというのは、
本来好ましくないのは分かっていたけど、
どうしてもその2曲を歌いたかった。
結果、
決して出来はよくはなかったと思うけど、
自分としては望むべき方向に進歩していると実感できた。
セッションとはいえ、
聞いてくれる人がいるのだから、
冒険的な試みよりも、
安定的なものを披露するべきだったかもしれない。
でも、
人前で歌うということでしか得られないものは確かにあって、
だから、
セッションというのはぼくにとって、
練習と本番の中間のような位置づけとなっている。
父の3回忌が近く、
母の動きが慌ただしくなってきた。
間もなく納骨もする。
息子ならだれでも父親というのは、
目の上のたんこぶというか、
漬物石というか、
何を言われようが言われまいが意識せざるをえない存在であり、
つまり鬱陶しい。
にもかかわらず冒頭述べたように、
潜在的に父を喜ばせたいという思いがあるあたりが、
父と息子のありようの複雑さを招いているように思う。
仮に反抗的態度をとったとしても、
それは裏返しであり、
実は他人の欲望をとりわけ敏感に察知しているということかもしれない。
きっとぼくが今の仕事についても、
こうしてジャズに力を入れているのも、
母と一緒に暮らしているのも、
どこかで父の欲望とつながっているのだろう。
それを自覚したうえで、
父なき今、
ぼくがぼくの欲望を生きることは可能だろうか。
それはぼくとは何なのかという問いにもつながるように思える。
こんなことを書いているのは、
「ラカンの精神分析」(新宮一成著、講談社現代新書)を読み始めたからにほかならない。
欲望ということでは、
今日、
ひとつ閃いたことがある。
煙草でも何でも、
やめたいやめたいと思うと余計にそれが欲しくなるのは人情であるが、
その状態を乗り越えた先には、
何かを欲する情動=それを忌避するスイッチが入るという、
ある意味矛盾した状態に到達できるのではなかろうか。
秋だから少し哲学的に。
●読書の秋ということなのだけど、これはかなり歯ごたえのある本だ。ゆえに同時並行で「ダブルファンタジー」(村山由佳著、文芸春秋)も読み進める。女性作家の本は、男というものに対する女性の見方を知るうえでとても興味深い。
0 件のコメント:
コメントを投稿