2010年4月30日金曜日

再燃

昨夜のドラマを2本録画してみた。

ほんの興味本位だった。


帰宅してまず見たのは、
フジテレビ系の「素直になれなくて」(脚本・北川悦吏子)。

来年の大河ドラマに主演する、
上野樹里が出ているという、
それだけの理由だった。

すでに第4話で、
粗筋も何も知らないのだったが、
いわゆる若者の恋話らしい。

面白そうだったけど、
時間もないので途中で次へ。


2本目は、
テレ朝の「同窓会~ラブ・アゲイン症候群」(脚本・井上由美子)。

こちらは第2話。

てっきり、
紫門ふみの漫画が原作かと思ったら、
それは「同・級・生」で、
これは全く別だった。


45歳の男女が、
30年ぶりの同窓会で再生して、
恋に落ちる物語だそうだ。

興味わかない訳ない。
というか、
あまりに「近い」話で驚いた。

だって、
15日に「もといち30周年」同窓会をやるんだもの。


ところで、
このドラマの主役は、
黒木瞳と高橋克典と三上博と斎藤由貴。

この4人ってそんなに年齢近かったっけ。

そこで問題です。

彼らを実年齢順に並べるとどうなるでしょう。


答えは、
若い方から、
斉藤(43)、
高橋(45)、
三上(47)、
黒木(49)でした。

その差は6歳。
役の年齢とぴたりなのは高橋克典一人でした(笑)。


にしても、
黒木瞳って本当に綺麗だよなぁ。

そして、
斉藤由貴と三上博は相変わらず演技がうまいねぇ。

高橋克典だけが、
ひとり「特命サラリーマン」して、
ドラマの全てから浮いていた。


にしても、
何でも「症候群」だな。

2010年4月29日木曜日

生府

健康こそが至上主義の、
政府ならぬ「生府」が統治する近未来。

伊藤計劃の「ハーモニー」(ハヤカワ書房)は、
先日紹介した処女作「虐殺器官」に続き書かれ、
そして彼の遺作となった作品だ。


前作が集団意識をテーマにしていたとするなら、
本作はまさに個人の意識そのものがテーマだ。

人間が完全な生物に「進化」するためには、
自意識などはむしろ邪魔で、
盲腸とか尾てい骨みたいに退化して、
なくなっちゃえばいいのに。

たぶんこれが著者の最大の問いだろう。



なるほどそうかもしれない。



でも自意識がなくちゃあ、
それはすでに人間とは呼べないよなぁ。

人間は自意識をもった存在で、
だからどうしようもなく愚かな時はあるけど、
それもまたよしっていうか、
許容したいって心が、
ぼくの中から抜けない。



ところで。

健康至上主義社会といえば、
未来ではなく、
過去にすでに実例がある。


ナチス・ドイツだ。

ユダヤ人大虐殺へとつながる道のスタートラインが、
「健康は国民の義務」とうたったナチスの厚生事業であることは、
周知の事実である。

喫煙や飲酒を忌み嫌い、
全ドイツ国民を健康にするという理想の果てが、
あの大虐殺であったことは、
今一度思い起こしておきたい。

健康であることは喜ばしいけれど、
「義務」だと言ってしまえば、
たちまち、
病人は国民の義務を果たしていないという論理へとつながったことは、
想像に難くない。

そういえば、
どこかの国に「健康増進法」なるものがあったっけ。



健康は権利であって、
義務ではない。

お間違えなく。


●ハーモニーは、迫力や完成度からいえば虐殺器官ほどではないと思ったが、ガンで亡くなった著者の遺書として読めば、かなり痛切。にしても享年34歳とは、本当に惜しい。

2010年4月28日水曜日

拝借











最寄りのJR甲子園口駅から西に行ったところに、
線路の南北を結ぶちっちゃなトンネルがある。

地元に育ったぼくには、
慣れ親しんだ風景なんだけど、
いつのまにかテレビなんかで取り上げられて、
「不思議スポット」になってしまった。

この写真は、
他人のブログから拝借したもので、
「自分で撮れよ」ってことなんだけど、
ちょうど今思いついたのであしからず。

で、
そのブログにはトンネルの中の様子もちゃんと紹介されていた。













どっちの写真も、
実際にかなり近い感じで撮られている。

ここ、
「庄川隧道」という名前がついているように、
元々は用水路だったとか。

高さ1.2メートルしかなく、
かなり窮屈なんだけど、
ここが通れないとなると、
随分迂回しなければ南北に行き来できず、
地元住民には何ともありがたい通路なのだ。



で本題は、
映画「トンネル」(ローランド・ズゾ・リヒター監督)。

ドイツが東西に分断されて、
壁が築かれ始めた直後、
西に逃れ損ねた人を救出するため、
多くのトンネルが西側から掘られたという、
歴史的事実を映画化したものだ。

何でこの映画を借りたのか、
思い出せないぐらい長い日にちをかけて、
少しずつ見たのだが、
「実話」というだけで、
身につまされるものがある。


西側にいる彼女に会いたくて、
決死の覚悟で壁を乗り越えようとする若者。

鉄条網を乗り越え、
何とか壁にたどり着くものの、
背後から撃たれてしまい、
息絶え絶えになる彼。

もう壁を超える力はない。

ちょうど壁の反対側で彼を待つ彼女。











映像はその二人を、
壁の上から撮影する。

たった50年前の悲劇だ。


●天満「じゃず家」セッションに久し振り。ぼくが目指していることに、間違いなく近づいていると思った。もちろん全然十分ではないけど。

2010年4月27日火曜日

共有










テレホンカードなるものが、
日本に登場したのは1982年12月。

あっと言う間に普及して、
一時は大人からこどもまで、
「テレカ」を持っていない日本人はいないぐらいだった。


携帯電話が登場するまでは。


今や公衆電話がどんどん撤去され、
テレカなど使ったことも見たこともないという子どももいるだろう。


今日の日経夕刊の「プロムナード」で、
歌人で細胞生物学者の永田和宏氏が、
次のような短歌を紹介していた。


逝き氏し夫のバッグのなかに残りいし二つ穴あくテレフォンカード


永田氏が選者を務める南日本新聞の歌壇で、
玉利順子さんという人のこの歌を取り上げ、
年間賞にも選んだという。

永田氏はこう書く。

 作者の音は長く入院生活をしていたという。夕方になると、日課のように病院の待合室から電話をしてきたのだそうだ。残された一枚のテレフォンカード。そしてその二つの穴。その穴からは、生前の夫とのさまざまの楽しかった会話が蘇ってきたはずだ。


テレホンカードには、
確かに残度数を示すちいさな穴が開いていたよなぁ。

「二つ穴」に込めた作者の意図。

そしてそれを読み取る者。

それは、
テレカを日常として使った経験のある者にしか、
決して分からぬものだろう。


100年後にもこの歌は残るけど、
その感触は残るまい。

まったく別の暮らしをしていても、
ある時代を過ごした者同士が共有しうる感覚。

そういうものは確かにある。

記録媒体は進化し続けるけど、
こういうものは決して残せない。


話は飛ぶけど、
ヨッちゃんのギター講座のめざせ!ロック・ギタリストの第5回。

課題曲はキッスの「デトロイト・ロック・シティ」だった。

第3回がディープ・パープル「スモーク・オン・ザ・ウォーター」

第4回がドゥービー・ブラザーズ「ロング・トレイン・ランニン」

で次回がイーグルス「ホテル・カリフォルニア」

毎回泣かせる選曲だが、
いずれも30年以上前の曲。

若者にとっては、
ベートーベンと同じクラシックかもしれない。

番組の対象が、
ぼくら中年以上なんだな。

というか、
ヨッちゃんも言っていたけど、
今世紀に入ってから、
エレキのカッコいいリフやソロの曲って、
実はほとんどないんだね。


あのギターサウンドにグッとくる感触は、
今でも共有できると思うんだけど。

●ちなみに頭のテレカは初代のもので、岡本太郎デザインです。

2010年4月26日月曜日

授業

今春からNHK教育テレビで、
二つの音楽番組が始まった。

一つは坂本龍一(教授)による、
「音楽の学校」。

今はバッハ編4回が終わったところ。


なぜ彼が「音楽の父」と呼ばれるのか。

概略だったけど、
モーツァルトもベートーベンも、
この人に強烈な影響を受けてたなんてね。

「カノン」や「フーガ」や「対位法」の意味も、
初めて具体的にわかった(気がした)。

こんな授業を学生の時に受けてれば、
もう少し面白かったのにねぇなんて、
思ったりして。


そして、
もう一つは野村義男(よっちゃん)による、
「めざせ!ロック・ギタリスト」

初心者の「ますだおかだ」の「ますだ」に、
チャーの「SMOKY」が弾けるようにさせるという、
民放も真っ青の無理目企画。

ぼくも大好きな曲で、
昔歌は歌ったことはあるけど。

たった10回の授業で、
本当に弾けるようになるんだろうか。


でもヨッちゃんって、
いい人だなぁ。

教え方が丁寧で辛抱強くて。

ぼくも中学生の時に、
近所のヤマハでエレキを習ったことがあったけど、
あんな先生じゃぁなかったよ。

パワーコードなんて、
全然知らなかったよ。

マジで。


ジャンルは違えど、
音楽教育という意味で、
どちらの番組も、
教育者にも参考にして欲しいね。

楽しく実践的で、
かつアカデミックに。

無理ですか?


●「音楽の教室」に浅田彰が出ていたのには驚いた。

2010年4月25日日曜日

追悼

「球界のキムタク」こと、
巨人の木村拓也コーチが急死した今月7日、
甲子園行ったぼくは、
巨人ファンが着ているユニホームを観察した。

圧倒的に多かったのは、
背番号「6」。

21歳の若武者、
坂本勇人選手だ。

ほかに「2」の小笠原、
「24」のラミレスなんかもいた。


当然のことながら、
レギュラー選手のユニホームが大半だったのだけど、
中に一人だけ「8」を着けている人がいた。

「TANI」

谷佳知選手である。

「ヤワラちゃんの旦那」という言いかたもある。

普段控えだから、
人気ないんだなぁって、
その時は思った。


その谷がやってくれた。

彼の追悼試合と位置づけられた、
今日の巨人×広島戦で、
何と代打逆転満塁ホームランを放ったのだ。


谷と木村はいずれも、
他球団からの移籍組、
いわゆる「外様」選手である。

互いに37歳。

同学年でもあり、
お互い励まし合ってきたという。

巡り合わせとしかいいようのない一発に、
谷は抑えようのない涙を流した。


この試合、
木村コーチの10歳の長男が始球式を務めた。

まだ四十九日も迎えておらず、
悲しみの岸辺にいるに違いないのに、
満員の東京ドームのマウンドに立ち、
山なりとはいえ、
立派なストライクボールを阿部捕手に投げ込んだ。


この子に勝ちをプレゼントしなくてどうする。


1点ビハインドで迎えた8回の攻撃は、
巨人ナインの執念が詰まっていた。

「出来レース」と揶揄する声もあろう。

でもぼくは違うと思う。


野球の天才集団「巨人」。

ひとケタの背番号を着けている谷でさえ、
控えに甘んじねばならぬ巨人。

そんな天才たちが本当の本気になってもぎとった、
そんな勝ちだと思った。


同時に、
そんな層の厚い巨人の中、
ピッチャー以外の全部の守備をこなし、
左右両打席でヒットを打った、
背番号「0」のキムタクは、
天才的万能選手だったのだと、
再認識した。


現役時代からのキムタクの口癖は、
「絶対にあきらめるな」だったという。

2010年4月24日土曜日

暗号

野球といえば思い出したのが、
サイン。

特にプロ野球のサインの仕組みは複雑だ。

例えば、
バッターは三塁コーチを見て、
ベンチの指示を受け取るが、
そもそものサインはベンチの監督が出している。

なら監督が直接バッターに伝えればって、
普通考えません?

でも、
本当は、
監督からコーチへのサインの出し方と、
コーチからバッターへのサインの出し方は違うんだって。


えーっと例えれば、
監督はフランス語で三塁コーチに伝え、
コーチはそれを日本語に翻訳してバッターに伝えてるって感じ。

だから、
打者が監督のサインを見ても、
それが何を意味するのか分からないのだという。


ピッチャーとキャッチャーの間もしかり。

大抵はキャッチャーがサインを出すのだけど、
コースや球種は、
複雑な暗号化を経てピッチャーに伝えられる。

もし、
それがバッターにばれれば、
一流のプロならたとえ160キロの球でも、
簡単に打ってしまう。

そんなもんらしい。

だから、
サインの仕組みは球団の秘中の秘。

しかし、
何万人って観客の前で公然とやりとりされながら、
当事者にしか分からないサインって、
なんとも奥が深い。


ただ投げて、
ただ打つだけじゃぁ、
プロは務まらないのである。

●金曜日。元町巡りな一日だった。

2010年4月23日金曜日

胡坐

たとえばぼくを野球選手に例えると、
昨日から今日にかけて、
ピッチャーの次にライトを守って、
それで終わりかと思ったら、
急病人が出てキャッチャーをやった。

そんな感じ。

とりあえず同じ野球をやってはいたのだけど、
ポジションによって、
求められる能力や気構えが全然違うので、
対応するだけで精いっぱいの2日間だった。


とりあえずピッチャーは、
慣れ親しんだ場所なので、
機嫌良くやってられた、
というか、
それしか能がないのだが、
ポジションチェンジに即応出来ないのは、
きっと年齢のせいなのだろう。

その点若い人は、
どこを守らせてもサクサク動く。

見ていて気持ちがいい。


ベテランというのは、
サクサク動けない代わりに、
「経験」という名の引き出しを開けるわけだが、
これは別名「マンネリ」ともいう。

そんな場所にいつまでも胡坐をかいていては、
活きのいい若手の中で、
いつのまにか、
単なるお荷物になっているのかもしれない。


そんなつもりはないのだけれど、、、


いかんいかん。

ベテランが弱気になる。

たぶんそれが一番いかん。

●んなこと言っているうちに、また金曜日。少し頭を休めよう。

2010年4月22日木曜日

毛皮

「馴染む」と言えば、
3年ほど前に買った革のシャツの良さが、
最近になって分かってきた。

試着の時、
滅茶苦茶きつくて、
本当に、
脱ぐのも大変なほどきつくて、

「これは伸びますから」

と言う店員の言葉だけを信じて買った。


それは本当だった。

窮屈だった革のシャツは、
まるでぼくの体型を覚えるように少しずつ伸び、
今では本当にいい感じで、
特にこの季節は重宝する。

革とかダウンは、
気温への適応力が高い。

暑い時は涼しく、
寒い時は暖かい。

だから、
一年のかなり長い期間着られて、
コストパフォーマンスは案外高い。


そういえば、
ピーコは寝る時、
毛布も掛け布団も毛皮だという。

年中それで通すそうだ。

いくら適応力が高いとはいえ、
本当に真夏でも毛皮の上下なのだろうか?

ぼくも掛け布団は年中ダウンだけど、、、


ピーコのその話が本当だとして、
さて毛皮の適応力が高いのか、
ピーコの適応力が高いのか、、、

どちらがすごいのか分からないけど、
すごい話ではある。


●ウォークマンは修理に出した。出来あがりはGWの後になるそうだ。別にがっかりもしなかった。それより、もう世間はそんな時期なのか。

2010年4月21日水曜日

適応

帰宅して玄関で靴を脱ごうと屈んだ時、
胸元のポケットから先日買ったばかりの、
ウォークマンが床に落ちた。

新しいウォークマンは、
有機ELディスプレイを備えていて、
表面はきれいなガラスで覆われている。











そのガラスが割れた。

見事に(泣)


「手に馴染まない」という言葉があるけど、
新しい物を使い始めた時、
腫れものに触るように扱っているにも関わらず、
落としたりぶつけたりして壊す。

そういう経験ありませんか?


逆に手に馴染んでくると、
少々乱雑に扱っても、
壊れない。

というか、
体がその物に適応して、
扱いを覚える。

その時、
物は体の一部になる。

確か茂木健一郎がそんなことを言っていた。


昔々、
ぼくが唯一買った新車、
スカイラインが納車された晩、
ぼくは嬉しくて夜中、
二階の窓を開けて眼下の愛車を見ようとした。

その時、
あろうことか、
窓の網戸がレールから外れ、
愛車のボンネットに角から落ちた。

慌てて確かめると、
しっかり傷がついてしまった。

あの時も泣いたなぁ。

納車の日の夜だもの。


ま、
これは手に馴染む馴染まないと関係なく、
単に運が悪いということなんだけど、、、

あの時のショックに比べれば、
今回のなんて別に、、、

といいながら実はかなりめげている。


明日ヨドバシに行ってみるけど、
イヤホンの時のように、
うまく交換してもらえるだろうか。

とほほ。。。

●実物の写真は、悲しすぎて掲載できない●にしても、これまで使っていたウォークマンは丈夫だったよなぁ。日常持つ物は、丈夫が一番だ。

2010年4月20日火曜日

悪態

オウム事件は現代社会における「倫理」とは何かという、大きな問題をわれわれに突きつけた。オウムにかかわることは、両サイドの視点から現代の状況を洗い直すことでもあった。絶対に正しい意見、行動はこれだと、社会的倫理を一面的にとらえるのが非常に困難な時代だ。
 罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。



昨年6月に読売新聞に3日に分けて掲載された、
村上春樹のインタビューを読み返した。

「1Q84」のBOOK1と2が刊行された直後のものだ。

エルサレム賞の受賞スピーチ「卵と壁」が話題になった後でもある。

当時は、
村上春樹が相当の覚悟で「1Q84」を書いているのだと思ったものだ。

ところが、
BOOK3を読んだ今となってみると、
そういう重いものがすべて、
ラブストーリーという刺身のツマにされてしまった感が、
どうしても拭えない。


BOOK3が出るならば、
これらの問題をさらに深く深く掘り下げ、
いまだかつてだれも見たことのない世界へと誘ってくれる。

そう期待したのはぼくだけではあるまい。

だから、
BOOK3を読んだ率直な感想は、
「へへへ、実はこういうことでした」と、
悪びれず言われたような、
怒る気にもならないような、
そんな気なのである。

それこそ、
持ち上げるだけ持ち上げといて、
はしごをはずされたような感覚だ。


小学生のときに一度手を握り合った男女が、
20年たって尚互いを思い続け、
苦難の果てに結ばれる。

そんなことを書くために、
この小説はあったのだろうか。


もちろん、
二人のラブストーリーは、
この物語の重要な要素ではある。

しかし、
決して最重要ではなかったとぼくは思っていた。

第一、
もしそうだとしたら、
殺人という行為が、
あまりに軽く扱われすぎだろう。

1Q84年だろうが1984年だろうが、
何人もこの世から抹殺した青豆が、
普通に幸せになっていいはずがない。

倫理が相対的なものだとしても、
殺人は絶対悪だという部分は、
ぼくには譲れない。


一説には、
「BOOK4」があるという。

確かに、
1から3までは、
1Q84年の4月から12月までなんだよなぁ。

1月から3月までがないというのも、
なんか不自然ではある。


ほとんど無意味な根拠だ。

でも、
これだけ悪態をついても、
出たら読むんだろうなぁ。

これも未練かなぁ。


●コアなファンの人が読んでいたら、本当にごめんなさい。

2010年4月19日月曜日

撤収

大風呂敷を広げるだけ広げて、
何とか畳もうと努力したら、
600ページになりましたと。


何がって?

もちろん「1Q84 BOOK3」のことです。

ですから、
これから読む人は、
この先は読まない方がいいと思う。





ということで。

繰り返しになるけど、
これだけの分量の文章を、
ほとんど息継ぎなしに読ませる筆力は、
内容とは関係なく単純に敬服します。

プロの仕事だ(笑)


しかしねぇ。


1と2が問題編とするなら、
3は解決編と位置づけられるかもしれないけど、
これで終わりです、
めでたしめでたしと言われてもねぇ。

たぶん、
こんなことなら、
3は知らないでいた方がよかったという人も多いのでは。


もちろん、
うんと深読みすれば、
それなりの意味は汲みだせるんだろうけど、
とりあえず一気読みした人間が、
物語としてとらえた感想は、
そういうことです。

オウム真理教(小説では「さきがけ」)やなんかの宗教、
善悪、
生死、
親子、
システムと個なんていう、
1と2で考えさせられたディープな部分は、
3ではさらっとかわして、
天吾と青豆のラブストーリーに回収して、
さっさと撤収してまった。


ぼくとしてはたぶん、
天吾が小説中で書いている小説というのが、
この「1Q84」ということだと読者に思わせたいと、
村上春樹は思っていると思っているのだけれど、、、

もう「4」は期待できないし、
やっぱりお後は読者の想像に委ねますと、
そういうことでした。


改めてこの本について触れるかもしれないし、
触れないかもしれない。

そういう読後感。

とにかく疲れた。

でもその疲労感は悪くない。

ということで、
こちらも撤収して寝ます(zzz)

2010年4月18日日曜日

代償

「1Q84」を猛烈な勢いで読んでいる。

内容の良し悪しとは別に、
村上春樹の文章はとにかく読みやすい。

ほぼ今日だけで430ページまで進むのだから。


それにしても、
この小説には「代償」という単語が頻出する。

何かを得るためには、
何かを失わなければならない。

その通りだ。
そうやって誰もが生きている。




18歳のある日曜日、
ぼくは大酒飲みになりたくなった。

酒豪と呼ばれたくなった。

きっかりその日を境にして。

調べれば正確な日付もわかるだろう。


だから大学に入学し、
東京で一人暮らしを始めた19歳から、
本格的に確信的に、
あらゆる酒を、
好きな時に好きなだけ飲んできた。

学生から社会人へ。

ホワイトが角瓶になり、
地酒、
焼酎、
シングルモルト、、、

1年365日、
飲まなかった日はなかったし、
それも毎日とことん、
納得いくまで、
つまり心と体が麻痺しきるまで飲んだ。

決して誇張ではない。

そのことで得たものもあるし、
失ったものもある。

当然のことだ。


そんな生活を20年以上続けた挙げ句、
3年前のある日を境に、
ぼくは酒を飲まなくなった。

一滴も。

誇張じゃなく。


それによって得たものもあるし、
失ったものもある。

当然のことだ。














これなんかは、
得たものの代表でしょうかねぇ(笑)


●明日は「1Q84」の感想になるでしょうねぇ、やっぱり。

2010年4月17日土曜日

未然

子どもの虐待殺人が多い。

腹を踏みつけて殺した奴は、
ゾウにでも踏んづけさせてやればいい。

床にたたきつけて殺した奴は、
20階ぐらいのビルの屋上から、
道路にたたき落としてやればいい。

した通りのことを、
そっくりお返しして差し上げるのだ。


それにしても、
未然に防ぐことはできなかったのか。

だれもが思う疑問だ。

99件未然に防いでも、
1件見過ごすと大騒ぎになる。

そういう側面はあるだろう。

でも見過ごしたその1件で、
子どもが一人殺される。

ただただやりきれない。


ところで、
虐待を受けて育った子は、
自分の子を虐待してしまうケースが少なくないという。

一見不思議なこの連鎖にも、
一応理由があるらしい。

子育てとはそういうものだと、
刷り込まれてしまっているのだという。

英語を話す親に育てられれば、
子どもは普通英語を話すようになる。

ほかのやり方を知らないだけなのだ。


だからといって、
情状の余地はない。
なぜなら、
それは決して遺伝ではないからだ。

子どもを虐待する遺伝子などありはしないし、
大酒飲みになる遺伝子もない。

どんな環境に育っても、
大人になって矯正することはできる。


逆のケースもあるけれど、、、


さて。

今日、
元町の海文堂に立ち寄ると、
「1Q84 BOOK3」が平積みされていた。

もし今日アマゾンから届いていなければ、
ちょっと悔しい思いをするところだった。

さっき帰宅したら、
ちゃんと届いていた。


しかも2冊、、、


確認したところ、
ぼくはアマゾンで2月に予約し、
さらに4月に再度予約していた。

もちろん、
4月の時には予約の確認をした。

でもアマゾンの画面は基本的に30日以内の注文に対する、
未発送を表示する仕組みなので、
2月の予約分は表示されなくて、
ぼくはてっきり自分の思い込みだと勘違いしたのだ。

思い込んだと思い込んだ。

シャレにもならない。


ぼくもぼくだがアマゾンもアマゾンだ。

同じ予約が2度されれば、
配送前に一言確認してくれてもいいのに、、、

でも、
返品はできるようなので、
1冊は未開封のまま送り返すことにする。


ぼくのウッカリ癖もまた、
遺伝ではない。

ぼくだけの突然変異だ。

●写真の方は、ウッカリ忘れることなく、無事返却できた●長くなった。さぁ、読むぞ!

2010年4月16日金曜日

節理

映画というのは、
映画館で1度だけ観る人が大多数だから、
1度でストーリーのあらかたが分かるべきだ。

というのはぼくの持論だけど、
その点、
小説はその制約はぐっと少ない。

分からなくなれば、
何度でも読み返せばよいからだ。


読み返してもなお分からなくても、
「読者の想像にゆだねる」という、
最強の言い逃れができる。

とはいえ、
「1Q84」には放置されたままの謎が多すぎたから、
3巻目が出されるのは必然だった。













「1Q84 BOOK3」が発売された。

午前零時から売り出した書店もあるというから、
もうすでにこの時間、
あらかた読んでしまった猛者もいることだろう。


青豆は本当に死んじゃったのだろうか。

天吾とふかえりはどうなるのか。

あのなんとかという編集者はその後どうなったのか。

ふかえりをかくまっていた爺さんはどうなったのか。


解明される謎もあれば、
されないままのものもあり、
また新たに付け加わる謎もあるだろう。

ぼくとしては「BOOK1、2」で、
オウム真理教への肩入れ度合いが強かった、
そのへんをどう処理するのかに興味がある。


つまり、
この世に「必要悪」はあるのか、
ということだろうか。

「必然悪」と言い換えてもいい。


地球が丸いように、
桜が春に咲くように、
空が青いように、
人の世に悪はどうしようもなく生まれるのだろうか。

それに抗う術はなく、
それこそが人が人であるということなのだろうか。

オウムの信者は、
その節理に従ったまでなのだろうか。


ぼくの手元に本が届くには、
まだ数日かかるだろう。

それまでに、
「1、2」を一度読み返そうかな。


かくして、
「ピストルズ」読了がさらに遠のく、、、


●巨人坂本、逆転満塁ホームラン。久々に大声を上げた●もう金曜日だ。写真を返さないと。ちょっと名残惜しいが(笑)

2010年4月15日木曜日

捨石

たまたま入った本屋で、
パッと目についた本が、
意外に面白いことが多い。

あれこれ考えないということは、
つまり「背伸び」していないということだろう。

昨日難波のBook1で買った、
「村上春樹の秘密」(柘植光彦著、アスキー新書)もそのひとつ。

村上春樹のこれまでの歩みが、
コンパクトにまとめられていて、
しかも、
作品を横断的に分析する、
その切り口が新鮮だった。


「1Q84」のBOOK3が16日午前0時に発売されるという。

きっと行列ができて、
社会現象になって、
新聞ダネになるだろう。


で、
「村上春樹の秘密」についてだけど、
同書で紹介されている、
「お伽噺の31の機能」というのは、
ぼくは全く知らなかった。

ロシアのウラジミール・プロップという学者が提唱した説で、
昔話には特定のパターンがあるというもの。

ウィキから引用すると、

「留守もしくは閉じ込め」
「禁止」
「違反」
「捜索」
「密告」
「謀略」
「黙認」
「加害または欠如」
「調停」
「主人公の同意」
「主人公の出発」
「魔法の授与者に試される主人公(贈与者の第一機能)」
「主人公の反応」
「魔法の手段の提供・獲得」
「主人公の移動」
「主人公と敵対者の闘争もしくは難題」
「狙われる主人公」
「敵対者に対する勝利」
「発端の不幸または欠如の解消」
「主人公の帰還」
「追跡される主人公」
「主人公の救出」
「主人公が身分を隠して家に戻る」
「偽主人公の主張」
「主人公に難題が出される」
「難題の実行」
「主人公が再確認される」
「偽主人公または敵対者の仮面がはがれる」
「主人公の新たな変身」
「敵対者の処罰」
「結婚(もしくは即位のみ)」

多くの昔話(少なくとも魔法がらみの)は、
こういう展開をたどる、
ということらしい。

ちょっと調べてみると、
スター・ウォーズから、
ドラクエ、
宮崎駿作品、
そして村上春樹作品にも、
このパターンが読み取れるという。

およそ人間が考える物語の展開、
それも面白いものとなると、
大なり小なり似てくるもんだとも思えるけど。

そう、
重要なのは、
人間の行動(思考)パターンは、
結構限られているのだということ。

みんな千差万別の環境にあって、
運不運に左右もされながら、
唯一無二の人生を送っているように思いながら、
その実、
ほとんどのものは、
お決まりのパターンに落ち着くっていうことはよくある。

オレとあんたは違うんだって、
そう思っていても、
とどのつまり同じですよと、
そう嫌というほど思い知らされた今となっては、
とってもよく分かる。

昨日書いた「虐殺器官」も、
人間の思考パターンを悪用するヤツが出てきたなぁ。


かなり独創的と思われた作品でも、
そういう作品が生まれるパターンは、
以前の事例を踏襲しているだけってこともあるかも。

そういう意味では、
人間が人間である限り、
真の独創などめったにないのかもしれない。

それを息苦しく考えるか、
どうせ型通りにしか生きられないなら、
思う存分好き勝手にやってやろうと考えるかは、
その人次第だろう。


そういえば、
今日のNHK「歴史秘話ヒストリア」で、
吉田松陰を取り上げていた。

前にも書いたけど、
この人、
学校の歴史で習った印象と違い過ぎ。

笑えるほど無茶苦茶な行動を繰り返し、
弟子が止めるのも聞かず、
ついには死罪になってしまう。

型破りというか、
時代の捨石になるのを厭わない人。


たとえ捨石にでも、
なれれば素晴らしい。

●著者の柘植氏は、もう70歳を過ぎているのに、随分若々しい文章を書くので驚いた●寄り道読書ばかりで「ピストルズ」が進まない。ちなみに「1Q84」、今回はアマゾンでちゃんと予約してある。あぁ。

  

2010年4月14日水曜日

虐殺

タイの現状は「騒乱」というのだそうだ。

「内戦」や「内乱」とどう違うのかよく知らないけど、
そんなタイミングで読んだのも、
何かの縁だろう。


「虐殺器官」(伊藤計劃著、ハヤカワ文庫JA)

近未来SF小説で、
「ゼロ年代最高」との呼び声もある。


その世界観に引き込まれるように、
グイグイ読み切った。

内戦には、
内戦に至る文法のようなものがあって、
その文法を用いれば、
どんな平和な国でも内戦状態にできるという発想に驚く。


突飛かなとも思うけど、
カンボジアやルワンダなんかを思うと、
あながちそうとも言い切れない。

誰だって平和を願い、
そういう国にしたいと思っているのに、
どうしてこうなるの?
という疑問は、
まるで坂本龍馬みたいだ。


でも実際、
人は時に、
何かに魅入られたかのように、
徹底的に殺し合う。

それは、
理屈ではなく、
あたかも人間の本性でもあるかのようだ。


人間はきっと、
性善説と性悪説に二分はできないんだと思う。

良心の行きつく果てが、
とんでもない悪夢だったなんてことも起きうる。


日本だって、
ドイツだって、
アメリカだって、、、

別にアフリカでなくても、
一定の条件が整えば人間は、
平然と狂気に化する。

暗い気分にはなるけど、
人間はそういう生き物だということを、
この本は認識させてくれる。

●著者の伊藤氏は、ぼくより10歳も若いのに昨年ガンで他界された。大変な才能なのに。亡くなってから知るなんて●難波「フラミンゴ・アルージャ」で「Flow33」のライブを。詳細は後日。

2010年4月13日火曜日

勝利

マスターズはフィル・ミケルソンの3度目Vという、
誠に劇的な幕切れ。

18番ホールをバーディーでフィニッシュし、
奥さんや娘さんと抱き合うシーンには、
思わずジーンときた。

6時に起きて見たかいがあったというものだ。


もしタイガーが優勝していたら、、、

それも劇的ではあっただろうが、
奥さんとの抱擁シーンは、
まず見られなかっただろう。


ミケルソンの優勝には、
もうひとつ別の意味がある。

彼はプロゴルファーには珍しい、
左利き(レフティー)なのだ。


左利きの人には、
右利きの人では気付かぬ苦労があると聞く。

身近なところで、
急須、
電車の自動改札、
片刃の包丁、
書道、、、

もちろん、
左利きであることが有利であることもあるとは思うけど、
注意して欲しいのは、
この社会の「基本仕様」が右利き向けという点だ。


ぼくが社会人になったころ、
「女性の社会参画」なんていうことが声高に言われるようになって、
その時ぼくは、
何が一番の障害なのかと考えて、

「社会は男性用に作られているからだ」

と思い至った。


当時の女性が社会で男性に伍するためには、
ある意味「男性化」するしかなかった。

それは、
左利きを右利きに矯正するようなものだ。

そのころから20年ほどが経過して、
少しは改善されたのだろうか、、、


閑話休題。

という意味において、
右利き用に作られたコースで左利きのミケルソンが優勝、
それも3度も、
ということはかなり凄いことなのだ。

ところで、
彼の奥さんと、
奥さんのお母さんがガンなのだという。


帽子にピンクリボンの刺繍をして、
世界中に勇気を与えたミケルソン。













家族愛の勝利。


●ということで。眠い、、、

2010年4月12日月曜日

許容

不倫スキャンダルから復帰したタイガー・ウッズ。

5ヶ月ぶりの実戦、
それもいきなりのメジャー大会で、
3日目まで3位につけている。


そこんとこは、
「さすがタイガー」だと思うのけど、
諸手を挙げての歓迎ムードには、
いささか違和感を感じる。

特にマスコミ。

あれだけ叩いておいて、
復帰するや手のひらを返したような対応は、
いくらなんでも節操がない。


大体、
キリスト教の国でありながら、
アメリカという国は、
性的不祥事に寛容だというのが、
ぼくの長年の印象だ。

クリントンや古くはケネディ。

大統領の不倫でさえ、
この国の人たちは大目に見る。

少なくとも、
それを理由に大統領として不適任だという意見は、
大勢にはならない。

不倫をしようが、
大統領として有能であれば問題ないと考えるのだろうか。


大統領といえば、
オバマがいまだに禁煙できていないことに対する、
この国の人たちの態度も不可解だ。

彼は確か禁煙を「公約」していたはずだし、
それは彼の意志ひとつで、
簡単に実行できるものだ。

にもかかわらず彼はぐずぐず吸い続けている。

彼は「なかなかやめられなくて(頭ポリポリ)」
みたいな釈明をして、
それを多くのアメリカ国民が許容してしまっている。


ダイエットできないような自己管理能力に欠ける人間は、
管理職にさえなれないとされるかの国で、
これは一体どういうことなのだろう。

煙草ひとつやめられない人間が、
「世界の警察」のトップとして、
多くの兵士を死地に派遣し、
あまたの民間人を殺害させている。


こんなダブルスタンダードは、
笑い話にもならない。

●タイガーの4日目はまもなくスタートする。トップと4打差。十分優勝を狙える。

2010年4月11日日曜日

複製

デジタルとアナログ。

対極にあるようなこの二つが、
突き詰めれば同じだということを、
茂木健一郎の対談集「芸術脳」(新潮文庫)で気付かされた。

原子レベルまでいけば、
どんなものだってデジタルだ。


ぼくは無神論者だし、
魂の存在も信じない。

人は死とともに、
自我も消滅する。

長い間そう思ってきたし、
今も基本的にはそうだと信じている。

自我は脳に宿るのだと。


でもごく最近、
ある可能性について考えるようになった。


「人体製造」でも触れたように、
臓器の複製やクローン人間の技術は、
早晩確立される。

とはいえ、
クローン人間は、
自分と寸分違わぬ遺伝情報は持っているとはいえ、
絶対に自分とは違う。

なぜなら、
脳が経年変化をしていないからだ。

何のソフトも入っていない新品のPCのようなものだ。


しかしながら、
もし、
たった今のぼくの脳と同じ状態を、
原子レベルにおいてまで、
そっくりコピーすることができるとしたら、
その脳の感じる自我は「ぼく」だろうか?

このPCのデータを、
丸ごとコピーすることができるのと同じように。


人体とPCが違うことは承知してます。

技術的に今出来るかということではなく、
思考実験として。


思うに当然それは「ぼく」ではない。


ということは、
「ぼく」という自我は、
脳の中にだけあるのではないということなのではないか、、、


最近考えているのは、
そんなことなのです。

くだらないかもしれないけれど、
ぼくにとってはかなり重大。


たまたまこの文章を読んだ人でもいいから、
答えがわかる人がいたら、

tahashiro@gmail.com

までお教えください。


●久し振りに住吉でチョコレートパフェを食べました。やはり暖かくなると、美味しさが増すような。

2010年4月10日土曜日

崇高

看護学校の「戴帽式」に臨席したことがある。

看護師を目指す学生が、
ろうそくを手に持って、
一人ひとりナースキャップを授かる。







崇高なこの場で朗読されるのが、
ナイチンゲール誓詞だ。


われはここに集いたる人々の前に厳かに神に誓わんーーー

わが生涯を清く過ごし、わが任務を忠実に尽くさんことを。

われはすべて毒あるもの、害あるものを絶ち、
悪しき薬を用いることなく、また知りつつこれをすすめざるべし。

われはわが力の限りわが任務の標準を高くせんことを努むべし。

わが任務にあたりて、取り扱える人々の私事のすべて、
わが知り得たる一家の内事のすべて、われは人に洩らさざるべし。

われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。



なんて素敵な文章でしょ。


ところで、
Bshiの新番組「地球ドキュメントミッション」を、
もうご覧になりましたか?

第01回の主人公は、
世界最貧国バングラディッシュで、
ストリートチルドレンを救うべく、
NGOで働く29歳の青年でした。

第00回は、
バイオ燃料の実用化に取り組む、
日本のベンチャー企業。


金でも名声でもなく、
ただ己の使命感に突き動かされ、
環境や人権や食糧など、
地球上のさまざまな問題に挑む若者たち。

大きな結果はまだ出ていないけど、
その夢の実現に向け、
果敢に努力する姿に、
感動を覚える。

こんな素晴らしい日本人がいることを、
誇りに思うし、
そんな彼らを取り上げる番組を作る、
NHKに敬意を表する。


今、
手元にある一枚の写真にも、
そうした崇高な理想を抱いた、
一人の女性が映っている。

写真が撮られてから今までに、
彼女の理想の種は、
芽を出し、
花を咲かせ、
幹は太く、
背は高く伸びてきた。


これからもその成長が順調でありますように。

心から願います。


何のお役にも立てませんが、、、


●掲載写真はネット上からの借用です。

2010年4月9日金曜日

神様

尼崎・アルカイックホールへ行くのに、
昨日はJR甲子園口からタクシーを使い、
帰りは尼崎駅から阪神電車で甲子園球場を経由して、
バスで甲子園口に戻った。

今日は、
甲子園口から大阪へ一度出て、
そこから阪神電車に乗り換えて折り返して行った。


ギターの神様が尼崎にいた。











会場は、
会社帰りと思しきスーツ姿の中年男性が多く、
女性はちらほら。

若い女性に至っては、
ほぼ皆無。

開演前はシーンとして、
まるでクラシックコンサートか、
ミサのようだ。

後ろの男性が、
アンプやマイクのセッティングや、
エフェクターについて小声でうんちく話をしている。

演奏が始まっても、
普通のロックコンサートのように、
立ち上がる人はゼロ。

みんな、
神様が奏でるギターの調べに聞き入り、
多くの人が双眼鏡を手に、
神様の手元を凝視していた。


ぼくも双眼鏡を手放さなかったけど、
見ていたのは神様ではなく、
カーリーヘアの女性ベーシスト。

あのBSで見た、
タル・ウィルケンフィルドだ。

しかし、
テレビで見たあの愛らしい少女は、
2年ほどの間に随分マッチョになったなぁ?

しかも、
途中歌まで歌って。

それでもぼくは、
彼女の一挙手一投足を、
ほとんどずっと双眼鏡で見ていた。


ライブが進むにつれ、
席が揺れ始め、
歓声が上がるようになってきた。

みな、
こらえきれなくなったのだ。

そしてあの名曲が始まって、
ぼくもこらえきれなくなってしまった。


トイレに駆け込んだ。


ぼくはだれもいないトイレで用を足しながら、
神様の弾く「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を聞いた、、、


閉演後、
阪神尼崎駅からバスでJR尼崎駅に行き、
JRで甲子園口に帰った。

家で調べたら、
あのマッチョな女性ベーシストは、
タルではなく、
実力派のロンダ・スミスだと知った、、、


この二日間、
ジェフ・ベックのライブに行くために、
様々な交通手段を使った。

日付を間違える大失態があり、
そのお陰で甲子園球場に行き、
肝心のライブでは、
人違いのベーシストをずっと見続け、
肝心の曲はトイレで聞いた。


それらは失敗や勘違いであるけれど、
だからこその収穫でもある。

何かを失っても、
必ず得るものはある。


生きている限り、
明日を迎える限り、
ぼくの身に何かが起き、
ぼくの身の何かが変わる。

それは良いとも悪いとも言えるもんじゃない。

いろんな行き方があったように、
いろんな生き方がある。

良し悪しはすべて結果論だ。

要は過程を楽しめるかどうかだ。


神様ありがとう。


●65歳の神様。カッコよすぎ(笑)。あと、勘違いのロンダ・スミスを含め、バックも凄かった●にしても、ジェフ・ベックって、ぼくが中学生のころから「世界3大ギタリスト」として憧れの的で、それから30年たって、しかも尼崎で会えたなんて、いまだに信じがたい。

2010年4月8日木曜日

白星

宿直勤務を終え、
疲れていたけど元気だった。

なんせ今日はジェフ・ベックが見れる。


尼崎・アルカイックホールについて愕然とした。

ライブは木曜、
つまり明日(正確には今日)だった、、、

確かに呆けている。

でもほんの少しの言いわけをすれば、
「水」と「木」って、
活字のタイプによっては、
とっても似てるんだよ、、、



で、
ぼくは阪神尼崎駅までとぼとぼ歩いた。

あてどなく。

でも急にある考えが閃いた。



30分後、
ぼくは甲子園球場レフトスタンドにいた。

阪神×巨人伝統の一戦。

プロ野球を球場で見るなんて、
何年ぶりだろう。

カクテル光線に照らされるグラウンドを眺めながら、
ぼくは不思議な気持ちになった。

ひょっとしたら、
今日ここにいるのは、
彼の導きだったのかもしれない、、、



巨人の木村拓也コーチが亡くなった。

「ユーティリティープレイヤー」

そう呼べばカッコいいけど、
要するに「便利屋」ではあった。

でも、
彼が巨人に在籍した4年で、
このチームが低迷期から黄金期へと、
脱皮したことは間違いない。

読売新聞の夕刊には、

G再生支えた名脇役

とある。

今月2日、
試合前のノックの最中に倒れ、
そのまま一度も意識が戻ることなく、
彼は37歳で逝ってしまった。


試合は既に3回を終え、
巨人有利で進んでいた。

ライブ用に持っていた双眼鏡もあって、
楽しく観戦、
といきたかったが、
寒すぎた。











7回裏、
阪神の攻撃前のジェット風船の乱舞を見届け、
早々に家路についた。


帰宅してラジオをつけると、
まだ試合が続いていたが、
結局、
巨人が3-0で逃げ切った。

球界の「キムタク」への、
手向けの白星だ。

●にしても、甲子園球場からツタがなくなっていたのは驚きであり、淋しくもあった●ジェフベックは明日、必ず見るぞ!にしても自分が情けない、、、

2010年4月7日水曜日

集積

月曜日に難波Hatchで、
ジェイミー・カラムのライブがあり、
ぼくはチケットを買っていたけど仕事で行けず、
知人にプレゼントしたら、
今日、
「素晴らしかった」とメールが届いた。

喜んでもらえて何よりなんだけど、
やっぱり少し悔しい。


何より彼が歌ったはずの「ブラン・トリノ」を聞きたかった。


同名映画の主題歌だ。


だから今日は、
ウォークマンで、
それを繰り返し繰り返し聞いている。


ネットで親切な人が、
歌詞を訳してくれていた。


穏やかに言うならば、
お前の今までの人生は、
単にお前が分かることか、お前がしてきたこと、だけ。
そうでなければ、永遠に強くいられるだろう。
お前は自身の身体にふさわしい男なのか。
どうなんだろうな。

今、穏やかで優しいそよ風が、吹く。
俺の愛車グラン・トリノの中にそっと吹き抜ける。
昔の歌をもう1つ、口笛にのせ歌う。

エンジンはブルルルと唸り、
苦い夢がよみがえる。
俺の心は愛車グラン・トリノのことだけで、
一晩中、寂しいリズムで鼓動する。

全ての星を、もう一度並べ替えてやろうか、
俺の頭上で、警告のサインを発し進む星たちを。
そんなことせずに、1人で酒を飲むことにするか。
俺はもう十分わかってるんだ、
戦いでできた傷と、擦りきれるほど使ったベッドのことは。

この街並と道は、昔のまま。
俺が知ってるものたちで、輝いている。
そして、木立を突き抜けて、
きらきらと輝いているよ。

お前の人生は、お前が残してきたちっぽけなことを集めただけのもの。

勇敢さをもち、ここに留まっていられたらいいのだが。
俺には必要なんだ、
震える俺の肌を抱き寄せてくれる人が。
きらきらと輝いているよ。

お前の人生は、お前が残してきたちっぽけなことを集めただけのもの。



映画のラストシーンで、
若者が運転するグラン・トリノが、
木立が並ぶ海沿いの道を走っていく、
そのバックでこの曲が流れる。

あぁ、
名曲だと改めて思った。


●でも、あす(正確には今日)はジェフ・ベックに行くもんね(笑)

2010年4月6日火曜日

陳列

大学生の時、
求人情報誌のバイトをしていて、

「マネキン紹介所」

という業種があった。


デパ地下なんかで実演販売する人を、
業界用語で「マネキン」ということを、
その時初めて知った。


今日はそのマネキンではなく、
正真正銘のマネキン人形の話。


通勤で梅田のHEPの脇を歩くのだが、
ESTのショーウィンドウのマネキンを見て、
最近の女の子の流行を知るのは楽しい。

で、
最近一番感激したのがこのマネキン。














何かの冗談かと思ったが、
ここひと月ぐらいずっとこのマネキンが、
色んな装いをしている。

こんなのもある。













これが「ブサカワ」っていうやつですか?

少し似ている人、
知ってるんですけど、、、


誰とは言えませんが、、、

  

2010年4月5日月曜日

穴場

完璧な花見日和。

休日で、
青空で、
暖か。

今日はそう呼んでいい。

何年生きるのか知らないけど、
これほどの年はそうはあるまい。

母が「穴場」だと教えてくれた場所に、
ぼくが行く気になったほどだもの。


そこはJR甲子園口の南口から、
武庫川に向かって歩いて3分ほど。

堤防沿いにあった。

まだ若いソメイヨシノが、
土の小道の両側に、
行儀よく並んで咲いている。

ちょっとした桜のトンネル。











関西では夙川がかなり有名だけど、
あそこはこの時期、
人で大渋滞。

屋台やらなんやらで、
風情も何もあったもんじゃない。

それに比べここは、
七輪で焼き肉している家族連れなんかも、
いるにはいたが、
夙川に比べれば全然のどか。

というより、
屋台が並ぶスペースもないほどの小道で、
なかなかいい感じだった。

確かに今ならまだ、
「穴場」と言えるかもしれない。


堤防のコンクリの上に寝そべって、
しばらく桜を眺めた。

それにしてもソメイヨシノの花弁は、
限りなく白に近い。


ここが「穴場」と呼べるのも、
あと何年ぐらいかなぁ

●つい気持ちよくなって梅田まで出て、紀伊国屋で「ピストルズ」(阿部和重)を買ってしまった。600ページを超える大作。読めるのか。

2010年4月4日日曜日

日記

読売新聞の「人生案内」は面白い。

他人の悩みに対して「面白い」とは
不謹慎かもしれないけど、
たまに、
「人って色んなことで悩むんだなぁ」と、
しばし考えることがある。


先日はこんなのがあった。

亡き夫が不倫していたことを、
今になって知った妻。

別の日にはこんなのが。

自分が不倫をしていたことを、
亡き妻が実は知っていたことを知った夫。


真逆の内容なのだけど、
ともに、
怒りや謝罪の気持ちを伝える相手が、
もうこの世にはいないという点では共通している。


「クローズド・ノート」(行定勲監督)。

ぼくはずっとこの映画は、
ホラーだと思っていた。

単に題名がそれっぽいからだけど。


TUTAYAで邦画のレンタルランク1位になっていて、
しかも、
主演が沢尻エリカ。

思わず借りてしまった。


置き忘れられた日記を、
赤の他人が読むことから始まる、
純粋なラブストーリーだった。

伏線が一杯張られていて、
成功している部分も、
失敗している部分もあるけど、
なかなかよく出来た「夢物語」だった。

美しい映像のロケ地は、
ほとんどが京都だという。

それにも増して、
「伊吹先生」役の竹内結子が美しい。


そして沢尻エリカ。

色んな雑音を聞く前に見たかった。


●問題。「確り」と書いて何と読むでしょう。ぼくは知らなかった●昨日からなかなか忙しく、家にたどり着いて夕飯食べて、風呂入って、そして土曜日だと思いだした。チョコレートパフェを食べ損ねた。

2010年4月3日土曜日

触感













「い・ろ・は・す」が天然水のことだと知ったのは、
割に最近のことだ。

これが流行っていると知ってから、
もっぱらこれを飲んでいる。


最初、
ペコペコの容器が頼りなく感じたのだけど、
蓋を開ける前のぷにょぷにょした感触は、
何かに似ている。

そうだ。

夜店の金魚すくいでもらった金魚を持ち帰る、
あの袋の感じ。

あるいは、
夏の甲子園で買った、
勝ち割り氷の手触り。

そして飲み終わったあと、
くしゃくしゃと容器を丸めるのは、
爽快でさえある。


たぶん数年前なら、
「安っぽい」と、
見向きもされなかっただろう。

名前にしても、
提案しただけで「ふざけるな」と、
一蹴されたに違いない。

でもエコの時代になって、
こういう商品が現実化し、
消費者に「新しい」と受け入れられていく、
その感覚の推移が面白い。


水といえば、
ぼくにはもう1つ忘れられないブランドがある。









JTの「大地が磨いたきれいな水」。

あんまり売っていないけど、
ぼくの行き着けの場所の自販機で売っていて、
行くと必ず買う。

それはもう、
儀式のようなものだ。

この水を手に取るとよみがえる、
あらゆる感覚を忘れたくないから、、、


●「い・ろ・は・す」は近所の自販機では130円、会社の自販機は120円、会社近くのドラッグストアでは88円。「大地が磨いた…」は、行き着けの自販機で100円。水といっても色んな値段があるものだ●今日も「大地が磨いた…」を買った。

2010年4月2日金曜日

理由











「マン・オン・ワイヤー」(ジェームズ・マーシュ監督)をDVDで。

1974年当時、
世界一高かった(そして今はなき)、
ニューヨークの世界貿易センタービル。

そのツインタワーの間にワイヤーを張り、
綱渡りをした男のドキュメントだ。


ドキュメントとはいえ、
当時の動画はほとんどなく、
写真と関係者の証言で構成されている。

しかしながら、
無許可で行われたこの快挙(暴挙?)の、
発案から実行までが、
再現映像も交え結構スリリングだ。


確かに綱渡りの「危険度」という点では、
先日紹介した、
棒も何も持たずに谷間を行く彼に、
当然かなわない。










しかし、
このフィリップ・プティという大道芸人の生き様は、
なかなか刺激的。

綱渡りを成功させた後、
「何故」と問うマスコミに、
彼はこう言う。


まさに米国的だ。

短絡的質問だよ。

壮大で謎めいた出来ごとに理由を問う実利性。

理由がないから素晴らしいのに。


そして、
映画の最後に人生観を語る。


僕にとっては単純なことだ。

人生はエッジを歩いてこそ価値がある。

反骨精神を持たねば、社会の規則に慣らされることを拒み、繰り返しを拒む。

日々すべての発想を、真の挑戦と受け止める。

そうすれば人生は綱渡りになる。



説得力満点。


人生に理由はいらない。

やるか、
やらないか。

人は、
たったこの二種類に分けられるのだ。

●WTCビルが映る度に、9.11を思い出した。

2010年4月1日木曜日

回路

いやはや、
PCと格闘しだすと、
あっという間に時間がたって、
気が付けば朝。


以前一度やった操作でも、
すっかり忘れていることもあって、
本当にその忘れっぷりは、
古畑任三郎の結末を忘れてしまっているのと、
少し似ている感じがする。


ぼくの思考回路は、
数十年かけて構築されたもので、
どんな未知のインプットがあっても、
何とか従来の回路で処理する。

しかし、
そうではない未知の回路を要求するもの、
例えばPCの操作であり、
あるいは優れた推理小説であり、
さらに言えば芸術、
それも真の芸術作品については、
本当に繰り返し繰り返し、
頭の中に新たな回路が築かれるまで、
辛抱強く思考錯誤するしかない。


これって結構重要なんじゃないかな。


世界は本当はぼくに対して、
全てを見せてくれているのに、
ぼくの頭が勝手にプロテクトしてしまって、
見えるはずのもの、
感じられるはずのものを、
見事にスルーしているのかもしれない。


繰り返すこと。


ただ、
それは従来の方法では駄目なわけで、
新たな感覚を獲得する難しさはそこにある。

それは、
教えてもらうものではなく、
自らつかみ取るものだ。

だれも歩いたことのない道を、
選ぶ人には自信なんて絶対にないだろう。

あるのは直感と、
それを貫く信念だけだ。

未踏の道を行く者の凄さは、
そこにある。


だから、
1度でも歩かれた道と、
未踏の道では、
歩く難しさは、
何億倍も違うのだ。

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...