2012年6月6日水曜日

記憶

任天堂の新型ゲーム機の発表会を、
たまたま生中継で見ている。

この今、
アメリカで行われている会場の中継を、
こうして世界中でリアルタイムで見る時代、
なんだかすごい。

でも「24」を見ているから余計に思うけど、
一日は24時間なんだよなぁ。

唐突だけど、
世の中が便利になればなるほど、
でも一日は24時間なんだという、
動かしがたい現実を痛感する。

いやまぁ、
んなこと言うほど毎日忙しくしているわけではなく、
むしろ仕事以外ではぐうたら人間なんだけど、
二時間の映画は二時間かけないと見れないし。

睡眠不足はぼくの最大の敵だし。

「集中と選択」なんて言葉が流行ったことあったけど、
今でも流行っているのかもしれないけれど、
これだけ選択肢が増えると、
本当に何事もどんどん割り切って切り捨てていかないと、
いわゆる「おつきあい」だけで人生終わってしまいそう。

となるとまず考えるのが、
記憶を外部にゆだねるということだ。

すでにぼくなんか、
何か分からないことがあるとすぐにまいぱっどで調べる。

でもそれが脳に蓄えられるかというと、
全くそうではなくて、
30分もしないうちに忘れてしまう。

短期メモリーどころか、
必要な一瞬だけ調べて覚えて、
用がなくなればあっさり忘れる。

そんなことが増えた。

親父ぐらいの世代の人間は昔、
受験勉強で英単語の辞書を、
一ページ覚えたら破いて食べた、
なんて聞いたことがある。

本当に食べたのかどうかは知らないけれど、
要するにそれぐらいの集中力で覚えたということだろう。

そうだ、
ぼくは物事を覚えなくなった。

覚えないということは、
忘れないということでもあるけれど、
それは詭弁というもので、
たぶん世間も物事をあまり覚えなくなったのではあるまいか?

阪神大震災より東日本大震災の方が最近なのは言うまでもないけど、
世間の記憶という意味では、
東日本の方が早くあせるのではあるまいか?

情報通信が発達し、
さまざまな記録媒体が普及して、
外部的には映像なんかがより鮮明に残されても、
人々の記憶には案外と浸透せぬまま、
短時間で忘れられてしまうのではないか?

杞憂ならよいのだけれど。




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