若い人なら間違いなくウルトラマンを生んだ、
円谷英二を思い出すだろう。
ぼくにとってはもう一人、
円谷幸吉もまた、
忘れ難い名前だ。
東京五輪マラソンで銅メダルに輝いたヒーロー。
その円谷が自殺した時、
ぼくは4歳だった。
薄ぼんやりとだが、
「すごい可哀そうな出来事が起きた」という印象が残っている。
たぶん、
日本全体がそういう雰囲気だったのだと思う。
それは、
彼が残した遺書の影響が大きかった。
父上様 母上様 三日とろゝ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。(中略)父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒 お許し下さい。気が休まることなく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
日本中が哀切に包まれたに違いない。
五輪後の身体の不調や、
婚約話が破談になったからなど、
理由は様々語られる。
きっとどれもこれも全てが理由なんだと思う。
当時の五輪選手の重圧は、
「五輪を楽しむ」などという今とは、
次元が違った。
ましてや彼は、
東京五輪では陸上で日本唯一のメダルを獲得。
次のメキシコでは「金」と獲ると宣言していた。
周囲もそれを期待していた。
きっと彼はそういうすべてのものに押しつぶされたんだろう。
この遺書の通り、
繊細で、
端正な人だったんだと思う。
●先日の読売新聞でこの遺書を久し振りに読んで、思い出した●確か、このことを歌った歌があるはずと、調べてみたら、やっぱりあった。ギターのアルペジオが哀しい。YouTubeでどうぞ。
『一人の道』
作詞 今江真三郎
作曲 茶木みやこ
ある日走った その後で 僕は静かに 考えた
誰のために 走るのか 若い力を すり減らし
雨の降る日も 風の日も 一人の世界を 突っ走る
何のために 進むのか 痛い足を がまんして
大きな夢は ただ一つ 五つの色の 五つの輪
日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ
父さん 許して下さいな 母さん 許して下さいね
あなたにもらった ものなのに そんな生命を 僕の手で
見てほしかった もう一度 表彰台の 晴れ姿
だけど 身体は動かない とっても もう 走れない
これ以上は 走れない
1972年(昭和47年)
0 件のコメント:
コメントを投稿