「ありふれた奇跡」が物足りなかったのは、
「おじいちゃん」的価値観、
言い換えると「昭和的」価値観が、
「平成的」価値観にあっさり白旗を上げたからだ。
昭和的価値観というのは、
主に昭和30年代以降の、
簡単に言えば「右肩上がり」指向と考えてもらえばいい。
平成までの約30年間、
日本人は誰もが何かしらの目標を掲げ邁進した。
そうしない人、
あるいは出来ない人は「人生の落伍者」として扱われた。
受験競争、
出世レース。。。
経済大国への道の果てがバブル崩壊だった。
平成になって20年の間、
大人は「右肩上がり」の夢が醒めず、
子どもは「右肩下がり」の日本しか見てこなかった。
いずれにせよ競争することは、
「むなしさ」しか生まなかった。
若者が競争ではないものに生き甲斐を見出そうとするのは、
当然かもしれない。
平成生まれの子どもが成人になる今、
二つの価値観は日本で共存している。
だから軋轢が生まれるのだが、
世代間の価値観の対立は、
どの時代でもどの国でもあることだ。
「ありふれた奇跡」ではその軋轢が、
軋轢というほどのこともなく、
平成的価値観の方にたやすく飲み込まれてしまった。
そこが面白くない。
おじいちゃん弱すぎなのである。
戦災孤児の骨身に染みた苦労はそんなもんなのか。
「草食系」の孫の思いつきにあっさり席を譲るのか。
昭和に生まれ育ち、
平成とともに社会人を送ってきたぼくは、
まさにその間で葛藤してきたというのに。。。
●ここまで書いて一階に降り、煙草を吸って考えた。どの世代もそれぞれの悩みや苦しみを抱えて生きている。心の窓を数センチ開いただけで、もう少し心の風通しよくしただけで人は変われるのではないか。月並みではあるがそういうことも確かに思う。でもやはり綺麗ごと過ぎないか。
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