2009年6月30日火曜日

爆弾

「私を次の自民党総裁候補として、衆院選を戦うお覚悟があるのか」


東国原・宮崎県知事の23日の発言、
強力な爆弾だったなと、
今更ながら思う。

言葉を額面通り受け取れば、

「何をバカな」

「シャレでやんわり辞退した」

ともとれるのだが、
週末に出たビートたけしの番組で、
彼の「本気」さがわかった。

地方分権を強化することが、
この国にとって是か非かはともかく、
現場の知事としては、
国にがんじがらめになっている状況が、
歯がゆいのだろう。

代議士として百戦錬磨の古賀誠氏を相手に、
正面切ってこれだけ言えるのは大したものだ。



しかし、
知事発言が爆弾たる所以は、
「飼い犬が手を噛んだ」的なものだからではなく、
もっと他の部分にあるだろう。

自民党にすれば、
知事の条件を蹴った挙げ句、
民主党から出馬される事態だけは、
何としても避けたい。

さりとて、
丸飲みすれば、
今度は党が内部崩壊しかねない。



「YES」「NO」
どちらを選択しても爆発する、
実にやっかいな代物だったことに、
気づいた時には遅かった。

あの橋本知事でさえ、
反応が一瞬遅れたほどだ。

自民党は何とか不発のまま「処理」したいわけで、
「落とし所」を考えているだろうが、
知事が頑として主張を譲らなければ、
平行線のまま。

それでも時がくれば爆発する。



「直訴する農民」的風貌の知事は、
実はひそかに強力爆弾を作っていて、
油断して近づいてきた古賀氏の口から、
グイッと腹の中に突っ込んだ格好だ。



「そのまんま」に出来ぬ、
「お覚悟」爆弾。

いや、
これは怖い。

●「キングス&クイーン」(アルノー・デプレシャン監督)をDVDで。ちょうどぼくぐらいの年齢で見るのがよいとは思うが、他人に勧めはしない●タミフルが効かないインフルエンザがデンマークで発生」と、asahi.comに。

2009年6月29日月曜日

祝福

ぼくたちが生きるこの時代は、
絶対的なものが何一つない、
再帰性の問題に直面している。

人間が生きる上で、
絶対に守らねばならぬ「倫理」は、
本当はどこにも存在しない。
「人を殺すのがなぜいけないか」
「なぜ自殺はいけないのか」
こんな問いにさえ、
万人を納得させられる理屈はつけられない。

地球の生い立ちや行く末、
その中での人類の存在のはかなさは、
科学によって次々明らかにされている。
ぼくたちが自由意志だと感じているものも、
あやふやであることがほぼ確実だ。

社会システムにしても、
民主主義や資本主義が絶対だとは、
もはや誰も信じてはいないだろう。



にもかかわらず、
この地球上では60億からの人間が現に生きている。
何か考えて行動していかないと、
多くは早晩死んでしまうだろう。
それは戦争や紛争の比ではない。

自由意志があろうがなかろうが、
ぼくたちはとにかく何か考えて、
この21世紀の初頭という時代に行動しないわけにはいかない。
無論、
何もしない「不作為」も立派な意志として、
結果に責任を負わなければならない。


科学がわずか400年足らずの間に飛躍的に進歩しているのに比べ、
何千年たっても人間性が変わらないのは、
この再帰性の問題を棚上げにして、
神(ゴッド)や、
お天道様や、
ご先祖様なんかに倫理観を押し付けてきたからではなかろうか?

もちろん、
昔の人も再帰性の問題には気づいていて、
だからこそ神やその他もろもろの概念を発明した、
とも言えるかもしれないが、
もはや再帰性の問題を避けて通ることはできない。
押し付けてきたツケは払わなければならない。



生に執着するほど死が怖くなる。
そんな言説を読んだ。

なるほどと思う。

生と死の間には差異はなく、
とりあえず生まれて、
今は生きているのだから、
生きている側にいる。
それぐらいに考えるのが妥当な気がする。

絶対的な価値観が失われて、
倫理から社会システムから、
何から何まで「ぼくたち」が決めて、
結果も引き受けねばならないなら、
その理想は、
「あぁ生きてるのもいいかも」って、
だれもがたまには、
自分で自分を祝福できる世ではなかろうか?

それぐらいが、
一番よい。

でもそれすら難しい。


●石川遼、自力で全英切符。

2009年6月28日日曜日

美女

「チャーリーズ・エンジェル」が日本で最初に放映されたのは、
小学生だったか中学生だったかと思い調べたら、
先日亡くなったファラ・フォーセット・メジャーズが出ていた第1シリーズは、
1977年10月16日~1978年3月19日と分かった。

「地上最強の美女たち!/チャーリーズ・エンジェル」

そうそう。
13歳から14歳。
中学2年から3年にかけてだ。
日曜日の夜10時半から、
ほとんど欠かさず見たと思う。

ぼくはあの美貌やブロンドのゴージャズな髪型にすっかり参ってしまい、
月刊ロードショーのピンナップを壁に貼っていた(ように思う)。
今回久し振りに当時の映像を見て意外にも、
「お色気美人」というよりは「健康美人」という方が相応しいことがわかった。















感じとしては、
シャロン・ストーンより、
アグネス・ラムに近い(かな?)。

でもあの年頃には、
これぐらいの色気でもぅ十分だったのだ。



彼女の「チャーリーズ・エンジェル」時代は、
わずか1クールで終わった。
その後数本映画にも出演したがパッとせず、
日本での人気は一発芸人並みに短かった。

だから、
彼女のことをリアルタイムで記憶している人は、
恐らく40歳以上だ。

ついでに「エンジェル」の裏番組(水戸黄門における大岡越前)は、
「地上最強の美女バイオニック・ジェミー」

いやぁ、
すっかり懐かしくなった。



ライアン・オニールとの関係を、
ある新聞は「究極の愛」なんて表現していたが、
その最期を含め、
紆余曲折の62年だったようだ。

それにしても、
清水由貴子の時もそうだったが、
「あの人は今」が死去の報道である場合、
それまですっかり忘れていた自分を、
少し責めたくなるのは何故だろう。



●調べてみると、主にTVドラマで活躍。エミー賞やゴールデングローブ賞にノミネートされたことがあるようだ●ライアン・オニールといえば、去年麻薬で逮捕されたテイタムはどうした?

2009年6月27日土曜日

約束

読売新聞朝刊で連載していた、
「約束 がんを生きて」が終わった。

21歳で若年性乳がんにかかった大原まゆさん(享年26歳)の、
最期まで前向きだった闘病生活を、
同じ病を抱えた記者が「がん友」と呼び合い、
支え合い、
励まし合った5年余の記録だ。

第一回はこんな形で始まった。


 電話の声はいつものように明るく、張りがあった。
 「がんの進行は思ったより速いけど、毎日を楽しもうという気持ちは変わらない。動けるうちは動きたい」
 3月下旬。若年性の乳がん患者、大原まゆさん(26)は私(30)との電話でそう口にした。がんは全身に転移していた。「残りの時間を意識する今、もっとリアルに生や死について語れると思う」
 これが最後の会話になった。5月9日、まゆさんは自宅のある札幌市内の病院で逝った。乳がんとの5年余の闘いの終わりだった。

 私は新聞記者になる直前、23歳で乳がんの宣告を受けた。再発への不安や治療の後遺症に苦しんだが、相談できる同世代の患者はいなかった。支えてくれたのが、まゆさんだった。
 彼女は右乳房を部分切除したが、「同じ病に苦しむ同世代の役に立ちたい」と体験をブログで公表。闘病記は出版、映画化された。
 おしゃれで食べ歩きや映画も大好きだった。「病気に心まで支配されたくない」「どれだけ生きるかではなく、どのように生きるかが大切」。そう語る〈がん友〉の揺るぎなく素直な生き方を、記事にしたいと2人で話し合った。
 訃報(ふほう)を聞き、勤務地の大阪から駆けつけた。遺影を見つめ、まゆさんがメールに記した言葉を思った。「がんになったからこそ得たものがある」
 乳がんのこと、命のことを伝えたいと願いながら、逝った友。私には、果たすべき約束が遺(のこ)された。(佐々木栄)



記事には緑茂る木々をバックに、
屈託なく笑う大原さんの写真が添えられていた。

記者と大原さんの思いが伝わってくる連載だった。



本気の言葉は、
確かに伝わるものだなぁと、
しみじみ思った。


●久々、元町でペンギンさんを発見。元気そうでなによりだ●マイケルが、ファラ・フォーセット・メジャーズが死んだ。かなりショックだ。

2009年6月26日金曜日

理念

世界中の人にカジュアルウエアを


たまたま見たNHK「知る楽」で、
ユニクロの柳井正社長が言っていた。

一見、
どこの企業でも掲げる、
壮大なスローガンのように聞こえるが、
その真意を知って驚いた。

彼が言う「世界中の人」とは、
発展途上国の子供から、
億万長者まで、
という意味だったからだ。
「壮大」どころの話じゃない。



果たしてそんなことが可能なのだろうか?

実現の条件を考えてみると、
圧倒的な高品質の商品を、
圧倒的な低価格で売る、
それ以外にないように思われる。

でなきゃ、
貧困地帯の子供と、
優雅なセレブが同じ品物を手にするとは思えない。



やっぱり荒唐無稽な話だ。

でもきっと、
それぐらい高い理念を大真面目に語るからこそ、
若い人が彼の下で働くのだろう。

このおっさんを、
少し見直した。


●荒唐無稽といえば、サッカーのコンフェデ杯でアメリカがスペインを破った。アメリカはサッカーでは「後進国」。片やスペインは国際Aマッチ15連勝の記録を作ったばかりの「無敵艦隊」。正真正銘の真剣勝負でこの結果は、番狂わせの極みだ。日本のW杯4強も夢じゃないと思えた。

2009年6月25日木曜日

両手

夜9時頃、
発車待ちの電車。

閉まる寸前のドアに、
両手がねじ込まれた。
手には、
真赤な小さめの紙バックが握られている。



ぼくはドアのそばに立ち、
イヤホンで音楽を聴きながら、
雑誌を読んでいた。

だから正確には、
「何か」が起きていることを察知して、
そちらを見たら、
紙バックを握った両手が、
電車の外からねじ込まれているのが見えた。



それからドアの外を見ると、
バックと同じような色のワンピースを着た、
ぼくぐらいの女性が、
髪を振り乱して前のめりになっていた。

ぼくの頭の中は、
それまで読んでいたマカオ情勢の記事のことや、
このまま電車が発車したら、
この女性はどうするのだろうか、
一緒に走るのか、
それとも引きずられるのだろうか、
などという思いが一緒くたになった。



そして、
そんな思いより先にぼくの手は、
扉を開けるのを手伝おうと、
女性の両手で作られたわずかな隙間に伸びていた。

ぼくの力ではどうしようもないと、
そんなことは知りながら、
でもひょっとしたら開けられて、
事故を防げるかもしれないなどと思いながら。



でも実際にはぼくの手が隙間に到達する前に、
車掌がドアを開けたので、
女性は引きずられることもなく電車に乗り込んだ。

コンマ何秒かの出来事だった。

ぼくは、
自分の手の素早さに少し感心しながら、
また雑誌を読みだした。

女性のことは見なかった。



それにしても、
通勤時ならいざしらず、
夜9時の各駅停車に、
あれほど必死に乗りたいなんて、
どんな事情があったのかと、
しばらくしてから考えた。



●自分でも呆れるぐらいよく寝た●「ロシアハウス」(ウィラード・キャロル監督)をDVDで。「グラン・トリノ」と、時代やストーリーは全く違うけど、「この身でできる最善策を実行する主人公」という意味では共通していた。ショーン・コネリーが素敵だった●羽生名人が防衛に成功。カド番からの連勝で逆転。竜王戦の時の渡辺といい、タイトルホルダーの執念というのは本当にスゴイ。

2009年6月24日水曜日

方便

読売新聞夕刊「高村薫の寸草便り」が、
なかなか上手いこと書いていると思った。
かなり長いが紹介する。



 私たちは、日々の生活のさまざまな場面で答えを求め、正否を求め、結論を求めて生きている。ときに煩雑な筋道に忍耐を切らし、「だからどうなの」とショートカットで結論を要求したりもする。先月始まった裁判員制度も、私たち一般人が白か黒かを決めることになるが、答えを出し、その答えが社会で確定的な意味をもつという意味では、裁判とは、必ずしも事実そのものではない次元で行われるひとつの構造化であり、公に語られる一つのフィクションだとも言える。

 しかし、そもそも事実とは何だろうか。事件を起こすに至った愛憎の機微だの、家族の感情模様だの、小説家ですら描ききれない人間のこころについて、限られた時間のなかで一定のかたちにする手続きは、それなくしては結論を出すことができない制度上の要求であるが、もし時間が無制限にあれば、さらに事実に近づけるのだろうか。

 たぶん、そうではあるまい。裁判であれ、日常生活であれ、政治であれ、文学であれ、私たちがそれぞれに言葉を繰り出して何かを言い表そうとするとき、それは言葉でその当のものを全体から切り取り、「これ」と名づけてかたちにする行為にほかならない。人によって見え方が違えば違う言葉が繰り出され、一つの物事が違う姿を現して、人の数だけの「これ」が生まれる。そのそれぞれを、私たちはみな事実と呼び、それぞれに抱きしめて生きている。

 さてそう考えるなら、(中略)たとえば、今国会で審議が進められてきた臓器移植法改正案は、またも脳死を人の死とするか否かという一点をめぐる難しい議論になったが、「移植をする場合に限って脳死を人の死とする」という現行法の考え方自体、一つの答えが全員の答えではないことの見本のようなものだろう。私たちは、人間一般の死についてさえ、必ずしも共通の言葉をもっておらず、また、もちえないのである。しかし、問いを立てた以上、答えは出さなければならない。

 なぜなら、問いは問題があるから立てられるのだし、一定の答えを出してときどきの問題を確定してゆかなければ、先へ進みようがないからである。臓器移植法が答えを出しようのないものにあえて答えを出すのも、刑事裁判が人間の行為に白黒つけるのも、ただ社会を前に進めるためであり、私たちはその答えを共同体の合意にして、ともかく歩んでゆくのである。

 私たちは、答えというフィクションを生きている。どんな答えも私たちがときどきを生きる方便であり、けっして絶対などではないからこそ「答える」ことに意味が生まれる、とも言える。そしてそうであるなら、ときに答えを出すのが難しいのは当たり前だし、そういう困難な問いこそ、答えをひねりだす価値があるというものだろう。

 ひとは一生の間にいくつ答えがたい問いを抱え、いくつ答えをだしてゆけるだろう。問わなければ、答えもない。




なるほどと思う。

これを踏まえ考えなければならないのは、
「どうして私たちは先へ進まねばならぬのか」という点だろう。

「方便」を使ってまで進まねばならぬ「先」に、
一体何があるというのか。

これもまた、
問いである。


●村上春樹インタビュー「中」を読み落としていたことに気づいた。てっきり「上」「下」の2回だと思っていたのだ。危ない危ない。

2009年6月23日火曜日

聖職

学生のころ、
聖職者にだけはなっちゃいけないと思っていた。

そんなことはしてはいけない人間だと、
強く思っていた。

 京都教育大学(京都市伏見区)の学生6人が集団準強姦(ごうかん)容疑で逮捕された事件で、京都地検は22日、6人を処分保留で釈放した。西浦久子次席検事は「被害女性との間で示談が成立し、女性が告訴を取り下げたため」と説明した。近く6人を不起訴処分(起訴猶予)とする見通し。
 同地検によると、6人側の弁護人が19日に示談を持ちかけ、22日に女性側が同意、同日付で告訴を取り消したという。集団準強姦罪は被害者の告訴が必要な親告罪ではないが、地検は、示談によって被害者が法廷で証言することが困難になったと判断したとみられる。
 西浦次席検事は「事実関係を捜査したことが示談につながった」と話した。(asahi.com)


西浦次席検事の言う「事実関係」がどういうものか、
憶測は避けなければならないが、
4年以上の刑が定められている罪で逮捕された容疑者が、
「お咎めなし」にされたのである。
「被害者」より「容疑者」にとって相当有利な内容であったことは、
間違いないだろう。



しかし、
教師の卵7人が居酒屋で乱交していたことも事実だ。

7人は今回のような事がなければ、
当たり前のように教壇に立っていたかもしれず、
それを考えると暗澹たる気持ちもする。

一方で、
このような事があった7人だからこそ、
是非教職についてもらいたいとも思う。

この三週間で、
7人の法律や権力や人権に対する考え方は、
根こそぎ覆ったはずだ。

その経験は千金に値する。



今回ぼくが思い知らされたのは、
言論封殺の怖さである。

2ちゃんねるやミクシーにおいて、
容疑者擁護の発言に対して行われた、
常軌を逸したバッシング。

そして、
学生にネットへの書き込みの自粛を求め、
あるいは書き込んだ者を「指導」した大学。

「まっとうなこと」が日に日に言えなくなっていく雰囲気。

この間の戦争の時も、
きっとこのようにして異論が封殺されていったのだと、
空恐ろしいような21日間だった。



何も戦争にまでさかのぼらなくたって、
同じようなことは現在進行形で起きている。

宮台真司は「日本の難点」でこう書く。

 最近「環境問題のウソ」を暴く本や言説がブームです。僕は爆笑します。「温暖化の主原因が二酸化炭素であるかどうか」はさして重要ではないからです。なぜなら、環境問題は政治問題だからです。そうである以上、「環境問題のウソ」を暴く本が今頃出てくるのでは、15年遅すぎるのです。
(中略)
 そうした政治的なゲームでは、「何が真実か」ということより「何が真実だという話になったか」がはるかに重要です。社会学者のマックス・ウェーバーが喝破する結果責任の言葉通り、「何が真実だという話になったか」に有効な影響を与えられなかった以上、今頃何を言っても「負け犬の遠吠え」です。


おっしゃる通り。
ゲームのルールは今更変えられない。

先日も書いたが、
ぼくらは生きる時代を選べない。
そしてこの21世紀初頭の日本は、
「空気を読める人」が、
「空気を読まない人」よりはるかに生きやすい。



でもぼくは、
負け犬で上等。
遠吠えで結構。

ゲームはやめたのだ。


●昨日の情熱大陸に出ていた映画美術監督・種田陽平は流行にわざと背を向けているとか●「ぐるりのこと」(橋口亮輔監督)をDVDで。リリー・フランキーがとってもいい味を出していた。ただちょっと長かった。

2009年6月22日月曜日

物語

人は自分の物差しで世界を考える。

その物差しの目盛りが1メートル単位なら、
物事は1メートル単位でしか分からないし、
1ミリ単位なら、
1ミリ単位で世界を考える。

若いとき、
世界や人生を単純にとらえがちなのは、
物差しがまだひどく荒いからだ。



人が生きることは、
生き続けることは、
一面、
自分の物差しの目盛りを、
どんどん細かくしていく作業だ。

もう一面、
その物差しを長くしていくことでもあるだろう。
どんなに大きなものでも、
一度で正確に測れるようになること。
生きることは、
そういうことでなくてはならない。



小林秀雄はその講演の中で、
「簡単に読むな」と強く説く。

「簡単に分かるというのは、諸君が簡単に分かろうとしているからだ」と。

例えば、
「1Q84」という小説。
村上春樹が7年かけて書き上げたものを、
数日で一気読みして分かるなんて、
土台無理だ。

少なくとも作者と同じ7年ぐらいかけて、
ようやく何か分かりかける、
そんなものかもしれない。



とはいえ、
そんなに長い間、
毎日毎日この小説のことだけ考えていられるほど、
こちらも暇ではない。



だから「物語」なのだと思う。



夢中になって読んだ物語は、
その細部は忘れていったとしても、
輪郭はいつまでも心に焼きつき、
繰り返し繰り返し思い出される。

そこが、
思想や哲学と違うところだ。



そして50歳になった時、
50歳なりの物差しで、
60歳になった時、
60歳なりの物差しで読み解く。

あるいは、
物語そのものが、
自分の物差しの一部になっている

魅力ある物語とは、
それほどに強靭なものであるはずだ。


青豆と天吾の物語は、
10年後、
ぼくの中でどう完結するのだろう。


●ひどく暑いので、とうとう保冷財を首に巻いて出勤。

2009年6月21日日曜日

左右

モハメド・アリとジョー・フレイジャー。

ボクシングヘビー級で、
1970年代に3度拳を交えた二人のドキュメントをBSで見た。

特にフィリピンで行われ3度目の対戦は、
史上最高の試合と言われているそうだ。



14回まで戦い抜いた二人は、
ともに限界を超えていた。

決定的なドラマは、
15ラウンドまでの、
わずか1分の間に起きた。

王者アリがセコンドに、
「グローブを外してくれ」と言ったというのだ。
つまり、
自ら負けを認めていたということだ。

一方、
フレイジャーはやる気満々。
そのままゴングが鳴れば、
アリは椅子から立つことなく、
フレイジャーが勝つはずだった。

ところが、
フレイジャーのセコンドがゴング寸前、
勝手に試合を止めてしまった。



フレイジャーにしてみれば、
泣くに泣けない敗戦である。

しかしセコンドにも、
かつてリングで選手を死なせてしまった過去があった。
そしてその時、
フレイジャーの目は、
ほとんど見えていなかった。

フレイジャーを「死なせたくない」。
そう思ったとしても無理はない。



その後、
アリはアメリカの「伝説」になったが、
その後パーキンソン病に侵された。

フレイジャーは今、
フィラデルフィアのしけたジムで寝泊まりする生活。
ミリオンダラー・ベイビーで、
モーガン・フリーマンのやった役そのままだ。



どちらが幸せかは分からないけど、
あの時のたった1分の間の出来事が、
二人の人生を大きく左右したことは間違いない。


●中学生の時、この試合は見た記憶がある。実際は、もっと複雑な要素が絡み合っていて、見ごたえがあった●元町→三宮→住吉、土曜日のフルコース。唯一、またもペンギンさんに会えなかったことだけが心残り。

2009年6月20日土曜日

洗脳

オウム真理教に限らず、
新興宗教やカルト教団の話になると、
きまって「洗脳」という言葉が出てくる。
「世間の常識」とはかけ離れた論理でも、
いったん「洗脳」されてしまえば、
その人にとってはそれが「真」となる。

オウムの場合、
それは殺人の肯定にまで及んでしまった。

「洗脳」は確かに怖い。
しかしながら、
ぼくたちだって「世間の常識」に洗脳されている、
という言い方だってできる。
突き詰めれば、
この世の中に「洗脳」されていない人間などいない。
ぼくの99%は「受け売り」だ。



ぼくたちはまた、
生まれる時代を選べない。

どんなに嘆いてみても、
麻生太郎が日本の総理大臣であり、
「北」の将軍様が核の脅威をちらつかせ、
イランの風采の上がらない大統領が、
なぜか再選されてしまう、
そんな世界で一生をすごさなければならない。



民主主義や資本主義とて絶対的なシステムではない。
「今のところ」の留保がついた、
暫定策に過ぎない。

ぼくたちが心すべき事は、
自分が何かに「洗脳」されているということを、
常に自覚することであり、
どんなドグマや哲学や倫理観も、
絶対的なものではないということに謙虚であるべきだ。

もちろん、
こうして書いている自説についても。



この時代にありつつ、
時代の洗脳から必死で逃れ、
叡智を絞って「道」を探すこと。

それしかないのだと思う。


●去年以上の空梅雨ではないか。日光をさんさんと浴びるアジサイも綺麗だが、ちょっとお疲れ気味に見える●目がかゆいので眼科に行ったら「結膜炎です」と言われ、目薬2本もらった。

2009年6月19日金曜日

自殺

30歳になった時、
自分が「人生」という丘の頂上に立った気がした。

足元から遥かに続く景色が、
はっきりとは言わないまでも、
ある程度見えて、
「あぁぼくの一生はこんなもんか」と、
焦った記憶がある。



生きていたって、どうせなにも変わらない。エスパーじゃなくても、だいたいこれからどの程度のことが、世の中や自分の身に起こるのかもわかっている。「将来、将来!」なんていくら力説してみてもムダだ。あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20歳代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ。




唐突だがこれは、
「完全自殺マニュアル」(鶴見済著、太田出版)の前書きの一部で、
「ロスジェネはこう生きてきた」からの孫引きだ。
その筋(どの筋か知らんが)では、
「20世紀のバイブル」とさえ言われているらしい。

色々物議を醸したから、
この本の存在は知っていたけど、
これまでなぜか、
立ち読みすらしたことがなかった。



30歳になった時のぼくの心境と、
大差ないなと思う。
言い方を替えれば、
誰だって大人なら、
この程度の絶望感は「織り込み済み」だ。

「バイブル」とは笑わせるぜ。



生きてみて分かったことがある。

あの時、
丘の上から見えた景色は、
実は蜃気楼だった。

「現実」には、
若いころには想像さえできなかった、
魑魅魍魎がウヨウヨいる。

望まなくたって波乱万丈が待っている。
自殺なんかしなくても、
いつ殺されるかわからない世界だ。

ヨットに乗らなくても、
雪山に登らなくても、
サラリーマンやってたって、
人生は結構冒険はできる。



そしてだんだん思えてくるのだ。

生は過去。
死は未来。

ぼくは、
生と死の間の、
現在にしかいない。


●リストカット少女だった雨宮処凛だって、今の自分は、想像だにしていなかったはずだ。生きてこそである●村上春樹のインタビュー「下」が今朝の読売新聞に載っていた。完全に肩透かしをくった。

2009年6月18日木曜日

共感

アトピーに悩まされ、
いじめとヤンキーが跋扈する中学に通い、
高校生になると全身黒ずくめでバンドを追っかけ、
家では親ともめてリストカットを繰り返す。

何とか美大を目指すが、
2浪して諦める。

フリーターとなって人形作家を志すも挫折。
新右翼の構成員だったり、
パンクバンドのボーカルだったり。。。



雨宮処凛(あまみや・かりん)は、
ざっとこんな経歴を持つ、
34歳の女性である。

今は「プレカリアート(不安定と労働者を組み合わせた造語)」、
つまり就職難民やニート、
ワーキング・プアらの代弁者として、
様々な言論活動を行っている。



彼女の書いた「ロスジェネはこう生きてきた」は、
そんな彼女の遍歴を、
世情の移り変わりとともにつづった本だ。

ロスジェネ(ロスト・ジェネレーション)とは、
「高校・大学・短大・専門学校を出た頃に就職氷河期に遭遇した世代」(ウィキペディア)、
という意味で、
朝日新聞が名づけたらしい。

要は、
親が団塊の世代の子供で、

いい大学=いい就職=いい結婚=いい人生

という価値観一色の中を生きてきて、
いざ自分たちが就職する段になって、
バブルははじけ平成大不況。
時代は未曾有の就職難に突入してしまった。



生きる価値観の梯子をはずされたというか、
戦後一番の貧乏くじを引いたというか。

「そりゃないだろう」という怒りや、
切迫する貧困がもたらす焦燥や絶望感は、
バブリー世代のぼくには、
残念ながらリアルではない。

でも、
彼女のこんな一文には、
とても深く共感するのである。



ただひとつ、ロスジェネでよかったね、ということを同世代の人と話すこともある。それは「状況が厳しいからこそ、考えざるを得なかった」ということだ。もしそれなりに景気がよくて、とくに本気で社会や政治のことを考えなくても生きられてしまったら、私は決して現在物を書く仕事についていないだろう。そしてそれは、他の人にも言えるのだ。時代が崩壊する、その崖っぷちにいたからこそ、私たちは本気で考え、時には行動せざるを得なかったし、今もそうしている。「考えなくても生きられる」ことは、実はものすごく恐ろしいことだからだ。




●会社の同期が亡くなった。心室細動だったそうだ。享年47歳。無念。

2009年6月17日水曜日

状況

今朝の読売新聞に、
村上春樹の独占インタビューが載っていたのには、
かなり驚いた。

新作「1Q84」について、
1ページのほぼ半分が割かれ、
執筆の動機などを具体的に語っている。

こんな形でこの人が自作に言及したのを、
少なくともぼくは知らない。
「上」となっているから、
少なくともまだ「下」があるわけだ。



一読して、
やはり気にかかるのは、
彼のオウム真理教に対するシンパシーだ。

例えば、
地下鉄サリン事件で8人を殺害した、
林泰男死刑囚についてこう言う。



彼はふとした成り行きでオウムに入って、洗脳を受けて殺人を犯した。(中略)ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた――そんな月の裏側に一人取り残されたような恐怖を自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。それがこの物語の出発点になった。



「月の裏側に一人取り残されたような恐怖」とは、
いかにも彼らしい比喩だが、
その言葉がふさわしいのは、
林死刑囚ではなく、
17年間も冤罪で苦しめられた、
足利事件の元死刑囚の方だろう。



百歩譲って、
「オウム的」な思想を生みだした、
戦後日本について考えるのならばわかる。
それならば、
今読んでいる「ロスジェネはこう生きてきた」にも、
間接的に書かれている。

要するに、
「終わりなき日常」に飽き足らぬ若者が、
「デカイ一発」話に乗っただけだ。



しかしそのことと、
小説の中で「リーダー」(麻原彰晃をモデルにしたカルト教団の教祖)が、
特別な力を持った人間として描くこととは違う。

村上春樹は、
どれだけの裏付けがあってあのように描いたのか?
一体麻原の何を知っているのか?

麻原を「チンケな詐欺師」とはぼくも思わないが、
そこらの市民が勝手に妄想することと、
世界的作家が小説で描くこととは、
意味合いが別次元だ。



さらに千歩譲って、
麻原に何がしかの能力があるのだとしても、
そんなことは、
ぼくたちの社会にとって何の意味もないことだ。

他人の心が読めたり、
念力で物を持ち上げられたとして、
それが一体どうしたというのだ。

「だから」彼を信じ、
「だから」多くの人を「ポア」した人間の罪が、
「だから」免責されるとでもいうのだろうか?



本当に考えなければならない「状況」は、
全く理不尽に殺された被害者、
及びその家族の側ではないのか。



オウム事件は現代社会における「倫理」とはなにかと言う、大きな問題をわれわれに突きつけた。



そうだろうか?



エルサレム賞授賞式で語った、
「壁と卵」の話。


あの卵は、
実はオウムの卵だったのだろうか。



●それを言ったら、ヒトラーにだってユダヤ人抹殺の「理由」はあった●こういうインタビューが載るなら朝日新聞だろうと思っていたけど。それも意外●作家の役割についての発言などは理解できるのだが、どうしてもオウムの件は看過できない。何にそんなに魅せられたのか。

2009年6月16日火曜日

景色

「1Q84」の冒頭、
主人公の「青豆」が、
首都高速から「降りる」場面がある。

その時、
青豆はタクシーに乗っていて、
ひどい渋滞に巻き込まれている。

約束の時間に間に合わせるため、
彼女はタクシーを放棄し、
首都高速を「降りる」のである。

その時、
タクシー運転手が彼女にこう言い渡す。




見かけにだまされないように。現実というのは常にひとつきりです。



西宮北口のドトールで、
シンフォニエッタを聞きながら「ロスジェネはこう生きてきた」を読んでいたら、
ふと、
この場面が頭に浮かんだ。

「高速道路を降りる」という行為が、
自分や「ロスジェネ」の著者とかぶったのだ。



世の中の99%の人は高速道路を走る。
途中、
分岐点があったとしても、
その先もまた高速道路であることに変わりはない。

でも、
そこから去らないと、
見えない景色もある。


望もうが、
望むまいが。


でも、
その景色のことは、
高速道路の上にいる人には、
伝わらない。



かといって、
再び高速道路に乗ることはできない。



その気もない。


●1Q84でこの一言がどういう意味を持つのかとは別に、そういうことを思った●ターミネーター4を見た。どうしてだかよく分からないけど●何度かライブを見に行ったことのある、たなかりかさんが、メジャーデビューするそうだ。たまたま知って嬉しくなり、ネットでCDを予約した。

2009年6月15日月曜日

雨傘

突然の土砂降りに、
駅で足止めされるサザエさん。

そこへカツオが傘を持ってやってくる。

喜ぶサザエ。

だが、
その傘は偽物で、
サザエ怒る→カツオ逃げる。

そこへ、
ワカメが本物の傘を持って迎えにきた。

サザエ感激→ついケーキを買う。



そのケーキを食べながら、
「お兄ちゃんの言った通りになったね」とワカメ。

すべてが、
サザエの心理を知り抜いたカツオのシナリオだった。

恐るべきカツオ。



傘と言えば、
外国人の目から見た日本を紹介する、
BS「cool japan」で、
出演した外国人が、
少しの雨でも傘を差す日本人は奇妙だ、
みたいに言っていた。

確かに外国人って、
余り傘をささない。
多少濡れたっていいじゃないかと。

大体、
ビニール傘って外国にあるのだろうか?
ぼくは、
あの透明の傘は、
安っぽいけど安全面に優れていて(特に自転車に乗っている時)、
何よりファッションを選ばないから、
というより、
あれならセンスを問われる以前に留まれるから、
とてもいいと思う。



かと思えば、
今日のNHK「ルソンの壺」では、
一本3万円の傘が飛ぶように売れているという話。

そりゃいい商品なんだろうけど、
失くしたら、
しばらく立ち直れないだろうナ

●サザエさんを久し振りに見た。フネ役の声優さんが急病とかで、代役さんだった●今年も空梅雨だといいのだけれど。

2009年6月14日日曜日

再帰

子どものころに、
母の三面鏡で遊んでいた時のことだ。

鏡をちょうど正三角形のように閉じて、
隙間から頭を入れるのが好きだった。

その景色は、
自分の顔がズラーっと延々並んで、
まるで万華鏡の中にいるような、
不思議な感覚で、
ぼくはしばらくその遊びに夢中になった。



「単純な脳、複雑な『私』」によると、
僕はその瞬間、
無限∞を垣間見たことになる。

果てしなく、
底のない世界。

それは魅惑的ではあったが、
体の芯からぞくっとくるような、
恐怖とも結びついている。



ある物の中に同じ物がある、
そういう「入れ子構造」を、
「リカージョン」(再帰)というそうだ。

この本によると、
再帰的意識を持つのは人間だけで、
それは、
言語によって初めて可能になった。

だが、
それは同時に、
人間が無限と矛盾を抱え込むことだった。


自分を意識する。
(自分を意識する自分)を意識する自分。
(自分を意識する自分を意識する自分)を意識する自分。
(自分を意識する自分を意識する自分を意識する自分)を意識する自分。。。

いくら追いかけても、
絶対に追いつけない。



その不思議な感触は、
三面鏡に頭を突っ込んだあの時と、
とてもよく似ている。

●プロレスラー三沢光晴が、バックドロップで死んだ。壮絶すぎる46歳の最期。

2009年6月13日土曜日

憧憬

少し暑かったけど、
何か5月を思わせるような陽気に誘われ、
通勤の途中、
久々LOFTに寄り道した。



で、
買ったのがインドのお香。
「プレシャスチャンダン」、
つまり白檀(びゃくだん)。
線香花火を30センチぐらいに大きくしたって感じで、
インド製20本入りで263円。

ついでに、
お香立ても買ったが、
こちらもインド製で399円。

実は両方とも、
ぼくが憧れるミュージシャンが使っていて、
それからずっと欲しかったのだが、
余りの安さに拍子抜けした。



「憧れ」は「尊敬」以上に、
人間にとって確かな駆動力だ。
性別を問わず、
人生、
憧れる人の数は多いほどいい。

先日読んだ「日本の難点」で、
著者の宮台真司は、
「いじめ」をなくすには、
「ダメなものはダメ」と、
いかにして「感染」させるかだと言っている。



「心底スゴイと思える人に出会い、思わず『この人のようになりたい』と感じる『感染』によって、初めて理屈ではなく気持ちが動くのです」


「周囲に『感染』を繰り広げる本当にスゴイ奴は、なぜか必ず他利的です」



ここを読んで真っ先に思ったのが、
中学生の時の先輩だ。
年齢は1つか2つしか違わないのに、
とんでもなく素敵な「大人」に見えたっけ。

同じようなしゃべり方をしたかったし、
同じような文字を書きたかった。
好きな音楽や、
愛読書を理解したかった。

でもできなかった。
文字は人柄を表すと、
あの時本当に思った。



同じ物を買ったって、
「憧れの人」には実は全く近づけてはいない。
わかっちゃいるけど何とやら。

相変わらず、
形から入るもんで。。。


●それにしても良い香りだ●元町で「ロスジェネはこう生きてきた」(雨宮処凛著、平凡社新書)を買う。そういえば最近、ペンギンさんを見かけないなぁ。暑いしなぁ(笑)●鳩山総務相クビ。何やってんだか。この人。

2009年6月12日金曜日

神業

ようやく「グラン・トリノ」にたどり着いた。



泣いた。



感極まったというのではなく、
ラスト近く、
気づいたら涙が流れていた。

焦った。

エンドロールが終わるまで、
席を立てなかった。
かつてない経験だ。



ありふれた物語だ。
切りつめて言えば、
「遠くの身うちより近くの他人」ということだ。

朝鮮戦争に従軍した元米軍兵士と、
隣に越してきたアジア人との触れ合い。


「俺は迷っていた、人生の締めくくり方を。少年は知らなかった、人生の始め方を」


宣伝文句から、
結末はある程度予感できた。



にもかかわらず、
クリント・イーストウッド監督の手にかかると、
これほどの名作になってしまう。

淡々としているのにスピーディー。
平凡だけど退屈ではなく、
ラフなのに雑じゃない。
悲惨かつユーモラス。

予想通りの展開だけど、
事は常にぼくの半歩前を進む。

だから、
感情以前に、
心が勝手に泣いた。



このぼくがねぇ。
自分に感心した。


●映画館で見れてよかった。それにしても、俳優のほとんどがほとんど無名。にしてこの作品。●ジェイミー・カラムが歌う主題歌がまた素晴らしい。これはイーストウッドの息子の作品という。でもYouTubeで見るとネタばれする恐れあり●大失態。「静観」で「立命館大」と書くところを「立教大」と誤った。また処分ではなく指導だった。完全な事実誤認。一部表現を直しました。

2009年6月11日木曜日

静観

京教大生集団準強制わいせつ事件で、
被害者の女性をネットで中傷したとして、
立命館大の学生らが指導されたという。

強姦被害者が世間の風評にさらされることを、
「セカンドレイプ」というそうだ。

事情はともかく、
個人の特定につながる情報を流したり、
憶測で他人を中傷したりしてはいけない。
当然、
言論の自由以前の問題だ。



ネット上でこの事件は、
いわゆる「祭り」という状態になっていて、
それは早大生らによる「スーフリ事件」を上回る勢いらしい。

処分された学生らの書き込みは、
MIXI上でなされたもので、
確かに相当ヒドイ内容だった。

ブログといえど、
世間に公表されているということは、
忘れてはならないと、
自戒する。



しかし一方、
信じるに足る相当な理由がある場合は、
公表しても中傷には当たらない。
だから、
事件について主張することに脅えてはならない。

それ相応の根拠があれば、
相当の表現で自説を述べればいい。

どのような立場の、
どのような言説であれ、
自粛してしまうことがあっては、
絶対にならない。

静観せよという意見もあるだろう。
だけど、
それは、
現状の肯定に他ならない。



逮捕された6人の学生は、
依然容疑を否認しているという。

2009年6月10日水曜日

星空

夜空に人間が見ることのできる星の数は、
視力のいい人でも9000個が限界だそうだ。

だから、
普通のプラネタリウムが投影できる星の数は、
9000個ぐらいなのだそうだ。

それ以上は、
投影しても見えない=無意味というわけだ。



ところが、
2200万個もの星を投影できるプラネタリウムを開発した人が、
昨日、
たまたまTVをつけていたら出ていた。



なぜそんなものを作ったのか。



その人は、
オーストラリアで見た満天の星空の感動が、
どうして既存のプラネタリウムで味わえないのかを考えた。

そして気づいたのは、
人間に見えないから「ない」わけじゃなく、
実際には、
9000よりはるかに多くの星が瞬いているという事実。



「見えた」と意識できないだけで、
人間は実際には9000個よりもっと沢山の星を知覚しているのではないか。



そう思って作ってみたら、
果たして、
従来のプラネタリウムとはけた違いの、
圧倒的に臨場感ある星空が再現できたのだという。
TV映像でも、
その違いは一目瞭然だった。



CDよりレコードの方が音がいいのと通じる話。



そして、
世界を論理的にしか見ないということは、
9000個のプラネタリウムで、
満足してしまうということだと思った☆


●興味のある人は「メガスター」で検索を●天満「じゃず家」セッション。ちょっと久し振りだったけど、リラックスして歌えている自分には満足した。

2009年6月9日火曜日

流石

朝7時半までかかって「1Q84」を読み終えた。
1、2巻合わせて約1000ページ。
これだけの分量を、
一気に読ませる圧倒的な物語力は、
「さすが村上春樹」だと素直に思う。

脳科学や生命科学、
宗教や音楽、
意識や時間、
善悪や罪と罰、
相関関係と因果関係、
そして、
通奏低音として流れる「愛」

ノーベル賞でもとろうかという世界的作家が、
7年もの歳月をかけて世に問うたのだ。
現代人が抱えるあらゆる問題点が盛り込まれた、
記念碑的作品であることは間違いない。



にもかかわらず、
大きく2つの点で腑に落ちない部分がある。



ひとつは、
物語の中心的存在として描かれるカルト教団が、
オウム真理教をベースにしていることが明白であるにもかかわらず、
「リーダー」と称される登場人物、
つまり麻原彰晃をモデルにした人物の描き方。

重い時計を念力(だか何だかしらないが)で持ち上げてみせ、
初対面の人物の過去をスラスラ当ててしまう。
そういう特別な力を持った人物として書かれている。

なぜこの点が書評あるいは報道で問題にされないのか、
不思議なくらい「好意的」なのだ。

村上春樹には過去に、
サリン事件の被害者から聞き取りした著作があるが、
あの被害者たちはこの作品をどう捉えるのだろう。



そしてもうひとつは、
圧倒的な物語力にもかかわらず、
かつての作品が持っていたような「魔法」の力がない、
あるいは弱く感じられる点だ。

作風が変わった、
あるいは、
ぼくの文学的味覚が変わったということなのかもしれないが、
物語の牽引力は強いのだけど、
彼独特の文章の「風味」が薄い。

彼以外には考えつかないのにも関わらず、
絶妙にこちらに伝わる彼独特の比喩、
それ自体が非常に魅力的だった言い回しが、
この作品では逆にマイナス要素にさえ覚える。
まるで編集者に言われて渋々つけ加えたように(そんなことはあるはずもないが)。



提示されている世界観や物語の構成は、
十二分に「ハルキ的」なものだけど、
以前の作品とは明らかに一線を画している。

それをどう受け止めるかは、
こちら次第ということか。



「説明しなくてはわからないということは、説明されてもわからないということだ」



作品の後半部分で繰り返されるフレーズだ。

そういうことだ、
と思う。

●これはどう考えても3巻以降に続く。ワイドショーで知った母に「あれ、もう読んだんか」と聞かれた。何なら貸そうか?●ヤナーチェック「シンフォニエッタ」。全く知らない曲だけど、とりあえずAmazonでCDを注文してしまった。あれだけ書かれたら、そりゃ聞きたくなるよ。

2009年6月8日月曜日

入力

「ひらめき」と「直感」は異なる。



「ひらめき」は後から論理的説明がつく、
少なくとも、
意味のようなものが付与できるのに対して、
「直感」は、
それができない。



でも意外なほど、
「直感」は正しいことが多い。

それは「直感」とは、
意識以前に、
脳を含めた体そのものが発したシグナルだからだ。
意識はその理由は分からないまま、
「なんとなく」なままそうしてしまう。

「ひらめき」が後付け理論と言うならば、
「直感」は先付け本能とでもいうべきか。



以上は「単純な脳、複雑な『私』」(池谷祐二著、朝日出版社)の、
非常に面白いエピソードの一つに過ぎないが、
ここから得られる教訓は、
「下手な考え休むに似たり」か?

入力を誤ると、
出力も誤るとも言える。
良くも悪くも人間は、
経験の閾を超えられない。



この本と「1Q84」、
そして先日紹介した「日本の難点」は、
いずれもぼくが気にかけている著者の最新刊だ。

今、
猛烈な勢いで「1Q84」と「単純な…」を、
平行して読んでいる。

2冊が互いに響き合うように感じられる。

直感だけど。


●女の直感は鋭いのは、実は生物的に備わった観察眼の賜物なのだとか●たまたまこの3冊が今日の朝日新聞の書評欄に取り上げられていて「おっ」と思った●このブログも丸1年を迎え、タイトルを変更しました。ピーターのヒット曲です。でも、ピッタリでしょ(笑)。これからも、よろしくお願いします。

2009年6月7日日曜日

奉仕

通勤途中の阪急東通り商店街。
一軒の居酒屋前に突然こんな物が。















ちなみに、
手前の黒板には、

6月の御奉仕‼「知床ポークのせいろ蒸し」
通常1980円→980円(税込)

と書かれ、
そのうえには鹿(?)の絵が描かれ、
吹き出しの字は「うまい」と読める。

「ぶた」「しか」「うま」

ここまでズレているのは、
わざとだとしか思えないのだが、
それにしても、
この剥製。。。


思わずのけ反った。


確かにインパクトはあるが、
集客効果につながるとは、
とても思えないのだが。

●岡田J目出度く南アW杯出場決定。さえない試合だったけど。終わりよければすべてよし。あっ、これからが本番か●京教大生の集団準強姦事件。一人容疑を認めていたが、否認に転じた。これで逮捕された6人全員が否認していることになる。これはかなり異例だ●元町参り。本当に一週間は早い。

2009年6月6日土曜日

自白

足利事件が起きたのは1990年、
つまり平成2年だ。
平成の日本でまだ、
こんな冤罪が起きていたことに驚く。

当時はすでに、
昭和の時代に起きた数々の冤罪の反省から、
自白偏重の捜査が問題視されていた。

だからこそ、
警察はDNA鑑定という、
指紋に次ぐ新たな個人特定手段を導入したのだ。

当時の鑑定精度は200人に1人程度。
精度がその程度であることは、
当時からわかりきっていた。

指紋より遥かに劣るものの、
その他の物証や状況証拠などと合わせて、
多くの事件で証拠採用されたはずだ。

にもかかわらず、
冤罪が起きたのは、
警察が依然「自白偏重」だからだ。

それはとりもなおさず、
裁判官が自白調書を重視するということである。



やってもいない犯行を、
「やりました」と認める心理は、
ぼくにはリアルには想像できないけど、
恐らく、
来る日も来る日も繰り返される尋問によって、
圧倒的な無力感に襲われるからだろう。



「絶対服従」しか道はない。
そう思いこまされれば、
犯してもいない殺人でも認めてしまうのだ。

ぼくも。
あなたも。



だから、
裁判員の時代になって、
ぼくらが気をつけるべきは、
自白調書に重きを置かないということだ。

ましてや、
裁判になって被告が自供を翻した場合などは、
調書の存在そのものを頭から削除すべきだ。

その上で、
「疑わしきは被告人の利益に」
この鉄則を頭に叩き込んでおくことだ。

そうでないと、
いつ、
ぼくらが冤罪に加担するか分からない。

2009年6月5日金曜日

無力

久し振りに近所のドトールへ行き、
「1Q84」を読んでいたら、


「慢性的な無力感はひとを蝕み損ないます」


というセリフに当たった。

「蝕む」っていう表現が、
とても「言えてる」と思った。

例えば、
「孤独」のもたらす苦痛は、
何か力学的な感じがして、
耐えることができそうだが、
「無力感」の害悪は、
バイ菌のごとく心を侵食し、
いつの間にか骨抜きにされるイメージがある。



「耐える」から「慣れる」へ。



確かにこの世の中、
耐えてばかりでは生き辛すぎる。
何事にも慣れることは、
長生きの秘訣かもしれない。

そして幸いにも人間は、
大抵のことには慣れることができる。



しかし、
実は無力感に心が蝕まれているのに、
慣れたと思い込んでいるだけかもしれない。
それぐらいなら、
「オレは耐えている」と感じられる方が、
マシだろう。

「耐える」は意志だが、
「慣れる」は一種の麻痺だ。

「仕方ない」と口で言いつつも、
諦めることに慣れたくはない。

●色々考えていたら、結局ドトールには3時間もいた●間もなくこのブログも1年になる。タイトル変更を検討中。

2009年6月4日木曜日

看過

シルエットクイズです!

●と■
どちらも同じ物です。

さて何でしょう?

答えは、
例えば丸い宝石箱。

見方が変われば同じものでも、
全然別に見えるんですねぇ。。。



もういい。



先日来、
ぼくは京教大生の集団強姦事件の話をしている。

集団強姦罪は、
懲役4年以上の重い性犯罪だ。
判例を調べると、
大半が実刑になっている。

酒に酔った未成年の女の子を、
成人男性6人がよってたかって強姦した。

そういう図式がピタリ当てはまるのなら、
ここまでの疑問は抱かなかっただろう。

しかし今回の事件には、
引っかかる点が多すぎる。

少なくとも僕の耳に入り、
あるいはネット上の情報を知れば知るほど、
釈然としない思いが湧き上がってくる。



こんなブログとはいえ、
人権には配慮せねばならぬだろうから、
具体的な事は書けないけど、
この事件のことは気にかけておいて欲しい。

もしネットで調べてみる気になれば、
そして、
罵詈雑言の中に紛れ込んだ、
かすかなささやきに虚心坦懐、
耳を傾けるならば、
ぼくの言っている意味はわかってもらえるだろう。

学長が「公然猥褻」だと言っている訳も。



これは冤罪事件では決してない。
しかし、
明らかに間違った裁かれ方がされようとしている。

肉の棚に魚を置くような、
不眠症の人に永遠の眠り=死を与えるような、
強烈な違和感だ。



見知らぬ他人のことではあるが、
どうしても見過ごせない。


●裁判員制度なんて、本当にやだなと思う●夜勤明けで想像以上に疲れて帰宅したのが夕方。もう年だなぁと思っていたが、やはりこの時間になると元気になる。

2009年6月3日水曜日

一線

宇宙から見た地球に、
国境線はなかったと言ったのは誰だったか?

地球に限らず、
森羅万象、
本来線引きされているものなどない。
人間が便宜上線を引くだけだ。

あちらとこちら。
ONとOFF。
勝者と敗者。
昨日と今日。
有罪と無罪。



だけど実際のところ、
ぼくらの周りには、
線引きできないものの方が圧倒的に多い。

幸せか不幸せか。
暑いか寒いか。
高いか安いか。
空腹か満腹か。
好きか嫌いか。
YESかNOか。

すべて人の心のありようである。



真相は誰にもわからない。
100人いれば100の真相がある。
それは、
人の心に線引きが出来ないからにほかならない。

にもかかわらず、
人は人の行為でもって、
心に線を引かねばならぬ場面があり、
それを、
「判断」や
「けじめ」や
「審判」と呼ぶ。
その時、
大なり小なり心は引き裂かれる。

それが自分の心ならいざ知らず、
他人の心を、
他人の行為でもって引き裂く痛みは、
一体だれが感じるのか。

引き裂いた心を、
一体だれが癒せるのか。



●「1Q84」の1巻を中古で、2を紀伊国屋で買った。なんてこらえ性のない男かと思う。

2009年6月2日火曜日

真相

「事実」と「真相」は違う。

それどころか、
正確に伝えようとすればするほど、
言葉は「真相」から遠ざかる。

例えば、

 京都府警は1日、酒に酔った女子大生(当時19歳)に集団で暴行したとして、京都教育大(京都市伏見区)4年の●史容疑者(25)(同)ら男子学生6人を集団準強姦(ごうかん)容疑で逮捕した。

 発表によると、6人は2月25日午後9~10時頃、京都市中京区内の居酒屋で開かれた合同コンパで、酒を飲み、正常な判断ができない状態に陥った女子大生を、同店内の空いていた個室に連れ込み、集団で乱暴した疑い。調べに対し、●容疑者を除く5人は「合意のうえだった」などと否認している。(1日付、読売新聞夕刊)


この記事から想像される状況は、
どのようなものだろうか。



教育大学
学生
未成年
飲酒
集団
強姦



読者の想像に委ねたその時点で、
この記事は「真相」から離れている。

事実を厳選する誠実さが、
かえって読者をステレオタイプな想像に落とし込む。
報道のジレンマだろう。



本来、
「大学」という社会が解決すべきことだったのに、
出来なかったということか。

「逮捕」という、
警察が放った公権力の、
その凄まじさを感じる。
ネット上は「誹謗中傷」と「罵詈讒謗」の雨あられと化した。

前途ある学生7人を飲み込んだ渦。
それが彼らに残した傷の大きさを思う。

もちろん、
ぼくが真相を知っている訳じゃぁない。

でも、
繰り返すが、
この記事は「事実」ではあっても、
「真相」ではない。

それは断言できる。

●嫌な6月始めになった。

2009年6月1日月曜日

恩人

恩人は沢山いるけど、
「命の恩人」となると、
父母を除けば二人しかいない。

一人は、
子どものころにかかった難病を、
7年かけて直してくれた先生。

そしてもう一人は、
昨日会えた彼女だ。

彼女も、
この歌が「いい」と言ってくれた。
とても嬉しかったので、
著作権侵害して紹介しちゃおー(笑)



HANABI(Mr.Children)

どれくらいの値打ちがあるだろう?
僕が今生きているこの世界に
すべてが無意味だって思える
ちょっと疲れてんのかなぁ

手に入れたものと引き換えにして
切り捨てたいくつもの輝き
いちいち憂いていれるほど
平和な世の中じゃないし

一体どんな理想を描いたらいい?
どんな希望を抱き進んだらいい ?
答えようもないその問いかけは
日常に葬られてく

君がいたらなんて言うかなぁ
「暗い」と茶化して笑うのかなぁ
その柔らかな笑顔に触れて
僕の憂鬱が吹き飛んだらいいのに

決して捕まえることの出来ない
花火のような光だとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
僕はこの手を伸ばしたい
誰も皆 悲しみを抱いてる
だけど素敵な明日を願っている
臆病風に吹かれて 波風が立った世界を
どれだけ愛することができるだろう?

考えすぎで言葉に詰まる
自分の不器用さが嫌い
でも妙に器用に立ち振舞う自分は
それ以上に嫌い

笑っていても
泣いて過ごしても平等に時は流れる
未来が僕らを呼んでいる
その声は今 君にも聞こえていますか?

さよならが迎えに来ることを
最初から分かっていたとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
何度でも君に逢いたい
めぐり合えたことでこんなに
世界が美しく見えるなんて
想像さえもしていない 単純だって笑うかい?
君に心からありがとうを言うよ

滞らないように 揺れて流れて
透き通ってく水のような
心であれたら

逢いたくなった時の分まで
寂しくなった時の分まで
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
君を強く焼き付けたい
誰も皆 問題を抱えている
だけど素敵な明日を願っている
臆病風に吹かれて 波風がたった世界を
どれだけ愛することができるだろう?
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回


●ぼくの日常に欠かせぬ定番。それにしても、こうして写してみると、随分長い歌詞だ。

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...