2009年12月7日月曜日

反面

親父の三回忌でわが家に久々の客人というか、
親戚一同が集った(といっても8人なのだが)。

その中の叔母の家に、
ぼくは21歳の時にお邪魔したことがあって、
その時ぼくが覚えたての煙草を吸っているのを見た、
叔母の当時小学生だった息子二人が、
「ぼくはあんなもの吸わない」と、
後日話していたというエピソードが、
歓談の合間に出てきた。

叔母曰くぼくは「良い反面教師」になったという。


こう書くと、
その叔母が意地悪い性格のようにとられるかもしれないが、
実際は非常に教養豊かで理性的でぼくは大好きだ。

この時の話しぶりもユーモワたっぷりだったことを、
叔母の名誉のためあらかじめ付け加えておく。


ところで、
叔母の息子二人は今では立派な成人になり、
ぼくから得た教訓を守って煙草は吸わないそうだ。

だれもがそのように、
子どものころの教訓を大人になっても守り続けられたら、
世の中は大そう平和だろう。

ぼくだって子どものころは、
大人の吸う煙草は不快に感じたものだ。
一体煙草の煙を吸って気持ちよいと感じる子どもなど、
この世にいるわけがない。


にもかかわらず、
子どもにとっての「正しさ」の多くは大人になって守られないことが多い。

どうしてそのような事態が起きるのかと考えてみたとき、
ぼくは言語能力の発達が影響しているのではないかと思う。

つまり思考が複雑になるということだ。

子どもの単純な言語力の中では、
生理的に受け付けないもの=嫌で完結していたものが、
複雑な言語体系を獲得する中で、
「今は不快だけど、続ければ快感に変わるかもしれない」みたいな、
体と頭のかい離が起きてしまうわけだ。


たまたま煙草の例ではあるが、
それは煙草に限らず、
人が大人に成長していく重要な過程であると思う。

つまり好奇心だ。


好奇心は人間の証だと思う。

目も耳もふさいで、
あるいは一方向にしか向けないで、
その他をシャットアウトすれば、
そりゃ誰だって道を踏み外さない。

でもそれじゃ人生面白くないじゃないか。


何もかもが順風満帆に過ぎて行って、
そのまま死んでしまう人生なんて、
どれほどその人が成功しようと、
ぼくには死ぬほど退屈に思える。

だってそれってつまり、
ずっと他人の意に沿う生き方をしてしまうってことじゃないか。


「ぼく的」にはあり得ない。

これだけ人生の失敗を積み重ねても、
なおかつあり得ないと断言する。


こんなことを言っているから、
いつまでも反面教師のままなんだナ。

●そういえば煙草は最低40円値上げになるらしいが、その程度じゃあねぇ。

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