親父の三回忌でわが家に久々の客人というか、
親戚一同が集った(といっても8人なのだが)。
その中の叔母の家に、
ぼくは21歳の時にお邪魔したことがあって、
その時ぼくが覚えたての煙草を吸っているのを見た、
叔母の当時小学生だった息子二人が、
「ぼくはあんなもの吸わない」と、
後日話していたというエピソードが、
歓談の合間に出てきた。
叔母曰くぼくは「良い反面教師」になったという。
こう書くと、
その叔母が意地悪い性格のようにとられるかもしれないが、
実際は非常に教養豊かで理性的でぼくは大好きだ。
この時の話しぶりもユーモワたっぷりだったことを、
叔母の名誉のためあらかじめ付け加えておく。
ところで、
叔母の息子二人は今では立派な成人になり、
ぼくから得た教訓を守って煙草は吸わないそうだ。
だれもがそのように、
子どものころの教訓を大人になっても守り続けられたら、
世の中は大そう平和だろう。
ぼくだって子どものころは、
大人の吸う煙草は不快に感じたものだ。
一体煙草の煙を吸って気持ちよいと感じる子どもなど、
この世にいるわけがない。
にもかかわらず、
子どもにとっての「正しさ」の多くは大人になって守られないことが多い。
どうしてそのような事態が起きるのかと考えてみたとき、
ぼくは言語能力の発達が影響しているのではないかと思う。
つまり思考が複雑になるということだ。
子どもの単純な言語力の中では、
生理的に受け付けないもの=嫌で完結していたものが、
複雑な言語体系を獲得する中で、
「今は不快だけど、続ければ快感に変わるかもしれない」みたいな、
体と頭のかい離が起きてしまうわけだ。
たまたま煙草の例ではあるが、
それは煙草に限らず、
人が大人に成長していく重要な過程であると思う。
つまり好奇心だ。
好奇心は人間の証だと思う。
目も耳もふさいで、
あるいは一方向にしか向けないで、
その他をシャットアウトすれば、
そりゃ誰だって道を踏み外さない。
でもそれじゃ人生面白くないじゃないか。
何もかもが順風満帆に過ぎて行って、
そのまま死んでしまう人生なんて、
どれほどその人が成功しようと、
ぼくには死ぬほど退屈に思える。
だってそれってつまり、
ずっと他人の意に沿う生き方をしてしまうってことじゃないか。
「ぼく的」にはあり得ない。
これだけ人生の失敗を積み重ねても、
なおかつあり得ないと断言する。
こんなことを言っているから、
いつまでも反面教師のままなんだナ。
●そういえば煙草は最低40円値上げになるらしいが、その程度じゃあねぇ。
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