2011年3月30日水曜日

死線

今この地球上に生きている人類の数より、
すでに死んでしまった人類の方がはるかに多く、
よってぼくらは、
まだ死を経験していない少数派なのだ。

と、
以前に書いた。

一方、
毎年1万人近い人が交通事故で死に、
3万人超の人が自殺している。

死は実に身近にあるのだけれど、
ぼくたちは通常、
自分たちが少数派だとか、
次の瞬間には死んでいるかもしれないなどと、
意識はしない。

でも、
たった数時間の間に万単位の人間が、
死んでしまったという現実は、
いやがおうにも、
ぼくらに「生き残った感」を与えた。

ぼくらはまだ、
死線のこちら側にいる。

人はそういう「生き残った感」を得た時、
自分の命を考え直し、
それが大きければ大きいほど、
再生への力は強いものになると思う。

第二次大戦で、
原爆を2発落とされ、
国が焼土と化した時も、
日本人は最大級の「生き残った感」を感じ、
だからこそ、
驚異の戦後復興がなしえたのだ。

今の時代だからきっと、
津波が町を押し流す悲惨な映像は、
「被災者の心の傷に配慮する」などの美名の下、
人々の目の前からどんどん隠されていくだろう。

でも、
それじゃいかんのです。

「復興」と口にする前に、
ぼくらはもっと、
あの悲惨な光景を目に焼き付けなければならんのです。

その焼き付き度が大きければ大きいほど、
「生き残った感」は増し、
ひいては「再生力」となるのだと思う。

もっとも、
「再生力」といってもそれは、
「前と同じように」という事ではない。

今回の地震は、
日本人の暮らしを大きく変えるだろう。

変えなくちゃいかんのです。

少なくとも、
原発を再び作るような国にしては、
絶対にならないのである。

福島原発事故は、
見えにくいけど、
広島と長崎の原爆に匹敵するような非劇だ。

2度と原爆を落とされることがあってはならないのと、
まったく同じ程度に、
再び原発を建てることがあってはならないのである。

それをもし許すようであれば、
ぼくたちは、
今回の地震で亡くなった人に、
顔向けできないだろう。

黙とうも大事だ。

募金も貴重だ。

ボランティアも尊い。

だが、
なによりも、
ノーモア原発である。

●痛い目にあっても気づかなければ、ぼく的には日本国民は「大馬鹿」ということになる●ザックJ対J選抜。うーん?日本人はともかく、外国で見てた人はどう思ったでしょうねぇ?

0 件のコメント:

コメントを投稿

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...