2012年3月21日水曜日

標的

深夜テレビをつけると、
BSでビンラディン殺害のドキュメントをやっていた。

911以後約9年間にわたって追いかけたテロリストの親玉の隠れ家を、
米軍の精鋭部隊が急襲した作戦の詳細だ。

約1時間ほどの作戦は、
兵士に取り付けられたカメラで、
ホワイトハウスのオバマらにリアルタイムで届けられ、
まるで映画のよう。

そう、
何もかも映画みたいだった。

その後、
東京大空襲のNHKスペシャルも録画で見る。

70年ほど前に行われた無差別爆撃は、
半年間で100回にのぼったという。

ビンラディンはピンポイント、
東京大空襲は無差別。

70年の時を経て、
随分戦争も変わったと思いつつ、
まてよ、
と考え直した

ビンラディンの最後は確かにピンポイントだったかもしれないけど、
そこに行き着くまでにやっぱり市民の命が数えきれないほど奪われたはず。

そう考えると、
いつの時代も戦争は、
市民を標的にする。

巻き添えではなくて標的なのだ。

広げて考えれば原発も同じ。

東京や大阪ではなく、
田舎ばかりに原発を建設するのは、
万が一の時を考えての事だ。

つまり、
未必の故意として、
あるいは消極的に、
市民が標的にされていると言える。

戦時下であれ平和な世であれ、
いつも無力な市民は、
権力の標的にされているのである。

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