秋田県の田舎町で、
男女の小学生2人が立て続けに遺体で見つかり、
女児の母親が逮捕された事件は、
ぼくが東京への出向から帰った直後に起きたということもあり、
とても強く印象に残っている。
だからだろう、
「橋の上の『殺意』 畠山鈴香はどう裁かれたか」(鎌田慧著、平凡社)を、
一気に読んだ。
著者は有名なルポライターで、
この事件を取り上げたのは、
特に綾香ちゃんの死が、
「殺人」として扱われていることに疑問があったからだ。
これは哀れな「魔女」の裁判にかかわる記録である。
著者はまえがきでこのように言う。
当然、
念頭にあるのは「魔女狩り」「魔女裁判」である。
母親の成育歴や裁判の過程を丁寧に取材。
淡々とした筆致ではあるが、
この種の作品が真に「中立」でありえるはずはなく、
少なくとも、
豪憲君の遺族から見れば噴飯ものと言えなくもない。
綾香ちゃんの死の真相がいかなるものであっても、
豪憲君が殺されたことに変わりはないからで、
「死刑に」という処罰感情はいささかも揺るがないだろう。
ではあるが、
「ルポライター」という言葉が死語になりそうな昨今、
こういう誠実なルポが書かれ、
ちゃんと大手出版社から出ることは重要だ。
何より裁判員制度が始まっている。
短い審理で、
場合によっては、
ぼくらが「死刑」を選択することもあるのだ。
警察の激しい取り調べ、
調書にサインさせるあの手この手。
密室での取調べには、第三者はいない。取り調べる側は圧倒的な優勢下にある。警察官の調書作成のとき、鈴香は「殺す」との文言に、「殺すというようなこと、そういった言葉は使わないでほしい」と抵抗したという。
それにたいして、刑事は、「もっと詳しい調書をつくるときに訂正するから」と聞き流し、そのまま訂正しなかった。いまだ自供に重きを置く日本の警察官、検察官にとっては、証拠能力の高い「供述調書」を取るのが主戦場だから、ちょっとした心の隙を巧みに衝いてくる。
本書で出てくるささやかな一例だが、
逮捕されてしまえば、
「容疑者」の呼称など有名無実、
ヘビに睨まれたカエル同然である。
彼らにとって、
自分たちに都合のよい調書を作ることは、
赤子の手をひねるより簡単だ。
心の闇はわからなくても、
心の隙はよく見えるのだろう。
何より、
彼らはそういうことのプロなのだ。
そういうことは、
知っておかねばならない。
裁判員もカエルじゃあ、
やっぱまずいっしょ。
●相当前のことだと思っていたが、2006年4月の事件だ。ちなみに、この裁判は無期懲役が確定ている●久し振りにペンギンさんと会話らしい会話。
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