2009年7月25日土曜日

魔女

秋田県の田舎町で、
男女の小学生2人が立て続けに遺体で見つかり、
女児の母親が逮捕された事件は、
ぼくが東京への出向から帰った直後に起きたということもあり、
とても強く印象に残っている。

だからだろう、
「橋の上の『殺意』 畠山鈴香はどう裁かれたか」(鎌田慧著、平凡社)を、
一気に読んだ。

著者は有名なルポライターで、
この事件を取り上げたのは、
特に綾香ちゃんの死が、
「殺人」として扱われていることに疑問があったからだ。


これは哀れな「魔女」の裁判にかかわる記録である。


著者はまえがきでこのように言う。
当然、
念頭にあるのは「魔女狩り」「魔女裁判」である。

母親の成育歴や裁判の過程を丁寧に取材。
淡々とした筆致ではあるが、
この種の作品が真に「中立」でありえるはずはなく、
少なくとも、
豪憲君の遺族から見れば噴飯ものと言えなくもない。

綾香ちゃんの死の真相がいかなるものであっても、
豪憲君が殺されたことに変わりはないからで、
「死刑に」という処罰感情はいささかも揺るがないだろう。



ではあるが、
「ルポライター」という言葉が死語になりそうな昨今、
こういう誠実なルポが書かれ、
ちゃんと大手出版社から出ることは重要だ。

何より裁判員制度が始まっている。
短い審理で、
場合によっては、
ぼくらが「死刑」を選択することもあるのだ。

警察の激しい取り調べ、
調書にサインさせるあの手この手。


 密室での取調べには、第三者はいない。取り調べる側は圧倒的な優勢下にある。警察官の調書作成のとき、鈴香は「殺す」との文言に、「殺すというようなこと、そういった言葉は使わないでほしい」と抵抗したという。
 それにたいして、刑事は、「もっと詳しい調書をつくるときに訂正するから」と聞き流し、そのまま訂正しなかった。いまだ自供に重きを置く日本の警察官、検察官にとっては、証拠能力の高い「供述調書」を取るのが主戦場だから、ちょっとした心の隙を巧みに衝いてくる。



本書で出てくるささやかな一例だが、
逮捕されてしまえば、
「容疑者」の呼称など有名無実、
ヘビに睨まれたカエル同然である。
彼らにとって、
自分たちに都合のよい調書を作ることは、
赤子の手をひねるより簡単だ。

心の闇はわからなくても、
心の隙はよく見えるのだろう。

何より、
彼らはそういうことのプロなのだ。



そういうことは、
知っておかねばならない。

裁判員もカエルじゃあ、
やっぱまずいっしょ。


●相当前のことだと思っていたが、2006年4月の事件だ。ちなみに、この裁判は無期懲役が確定ている●久し振りにペンギンさんと会話らしい会話。

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