今年もなにわ淀川花火大会のチケットを買ったものの、
ぼくは仕事になってしまい、
母と姉夫婦らに「代役」として行ってもらった。
ぼくが行けなくても、
代わりに見てくれれば、
それだけで意味がある。
去年の8月9日付けで、
ぼくはこう書いた。
ぼくにとって花火は今や、
自分自身の成り立ちを写しだす走馬灯だ。
多くの失ったものを、
これでもかこれでもかと、
見せつけてくれる。
美しいけど、
はかなく残酷な芸術。
でもぼくにはそれが必要だ。
たぶんこれからもずっと。
思い起こすんですよ。
この花火大会に行くと。
視界を覆い尽くす火花と、
腹の底を打つような爆発音は、
ぼくにとっての「けじめ」。
花火大会の日は、
ぼくにとっての「終戦記念日」だ。
昨年だったか、
もう70歳を超えた母に聞いたことがある。
こんな音を聞くと空襲を思い出して怖くないん?
そんなんもう忘れたワ。
母が能天気なのか、
人間とは本来的にそういうものなのか、、、
そのあたり、
よくわからないんだよなぁ。
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