ぼくがやらねばならないのは、
いってみれば「ひと月でショパンを弾く」みたいなこと。
つまり絶対不可能。
できる人がいれば間違いなく「天才」だ。
でも、
ぼくはそれを教えなければならない。
そこで思い出すのが、
前にヨッちゃんがやってたNHKのロックギター講座。
ギターど素人の芸人さんに、
3か月でスモーキーを弾かせようっていうあれ。
ショパンそのものなら10年かかっても不思議じゃないけど、
アレンジを変えに変えて、
それでもとりあえず「ショパンらしきもの」を弾かせることなら、
促成栽培でも無理ではない。
言い方を変えれば邪道も邪道。
でもそんな邪道を押しつけたのは会社だ。
堂々と大邪道を教える。
「これは大邪道だぞ」とくどいほど言いながら。
邪道を教えられる「生徒」も可哀そうだけど、
まぁ少しはこの仕事に興味を持ってくれるなら、
それはそれで意味はあるかもしれない。
ぼくらの時は(といってもたかが10年ほど前だが)、
そんな邪道は決して教えてくれず、
かといって基礎から手ほどきしてくれるわけでもなかった。
「放任主義」といえが聞こえはいいが、
言いかえればただのほったらかし。
「芸は盗め」と言わんばかり、
何にも教えられず、
出来栄えについてだけやたら怒られまくって、
その度に委縮してまた怒られ、、、
褒められることなど年に1度ぐらい。
そんなことを延々と繰り返して、
ついて来れないヤツはどんどん切り捨てられた。
それに比べれば、
邪道であっても教えてくれる今の人は、
幸せかもしれん。
にしても他人にものを教えていると、
「優しさ」と「甘さ」あるいは、
「親切」と「過保護」の違いが、
自分でもよくわからなくなってくる。
と同時に、
教えるとはすなわち、
教わることだとわかる。
要するに「教える」などという行為は本来はなく、
ただ経験年数の違う二人が、
「ともに学ぶ」という行為があるだけなのだと気付く。
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