2010年10月11日月曜日

雷電

吉田松陰と高杉晋作を描いた「世に棲む日々」は、
ただいま3巻目の途中。
それより先に龍馬伝で晋作が死んだ。

本を読む限り、
晋作は松陰の弟子であるのだが、
性格は松陰が謹厳実直なのに対し、
晋作は少々無頼なところがあるようで、
かなり対象的である。

しかしながら二人に共通しているのは、
「狂」であろうとしたことであったようだ。
「狂」とはぼくの解釈では、
信念のためには命も投げ出すというということ。

「命懸け」とは今でもよく言うが、
時代は命を大切に大切にと、
命を惜しみ、
長らえさせる方向に加速している。

よく思うのだが、
世に自分の命を惜しまぬ者ほど、
恐ろしいものはない。
自爆テロなどその最たる例だ。

人間、
自分の命さえ惜しまなければ、
とてつもなく大胆な事ができるのだ。
(テロを賛美しているのではもちろんない)

確かに「命あっての物種」ではあるが、
命を惜しむ気持ちが、
人生の最大の足かせにもなりうる。

そもそも、
「命」というもののイメージが、
幕末のころと今とでは違うように感じる。

幕末のころの命、
特に志士らにとっての命とは、
花火のようなもの。

いつ、
どこで打ち上げ散らすのが効果的(印象的)かと、
ヤツらはそればかり考えている。

そんな連中が日本中に何百人もいたとすれば、
そりゃさぞかし列島は熱かっただろう。

それに対して現代の命は蝋燭のごとし。
小さな炎でもいいから、
できるだけ揺れず、
できるだけ長く、
灯し続けるのが美徳とされる。

安寧ではあるが、
決して熱くはない。

動けば雷電の如く発すれば風雨の如し


伊藤博文は晋作の死後、
彼をこう評した。


●久々北新地「JAZZ ON TOP」のセッションに。珍しく参加者が少なく、4曲歌った。成果も課題もあった。行ってよかった。

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