「響きあう脳と身体」で、
古武術家の甲野善紀氏は、
武術というものを言葉で教えることのナンセンスさを、
繰り返し繰り返し述べる。
たとえば昔の武術書に、
「雲にしるしのごとく」
あるいは、
「剣去りて舷を刻むに似たり」
という言葉があるそうだ。
前者は、
流れゆ雲に印をつけることで、
後者は、
動く船から剣を落とした時、
「ここで落とした」と、
船べりを刻んで印をつけることなんだとか。
要するに、
武術を言葉で説明するのは、
それと同じほど馬鹿げているということらしい。
なるほどな譬えだ。
とはいえ、
そういう武術書があるぐらいだから、
人は昔からやはり、
何かを知りたいから、
手っ取り早く言葉で説明して欲しいわけである。
だから、
昔の武術家も嫌々ながら、
そういう「入門書」みたいなものを書いたのだろうが、
そのうちに、
言葉で説明できないものは「非科学的」みたい冷遇される、
本末転倒のような状況が起きてくる。
その流れの端に現代がある。
武術に限らず、
言葉で説明できることなど、
森羅万象のほんの一粒の砂程度である。
そういう言葉の限界をわきまえないと、
逆に危険でさえある。
ところで最近気付いたのだが、
ぼくは対談本が好きだ。
できるだけ編集なしの、
「えー」とか、
「だから、あのぉ」とか、
そういうところまできっちり拾った、
取材テープの書き起こしみたいなのがいい。
話者の息遣いまで伝わるような。
それとは反対に、
ぼくは翻訳本が苦手だ。
作者の息遣い(筆遣い)が感じられないからだと思う。
といっても、
原語で読めないんだから、
ぼくの責任なのだけど、、、
●高校時代の同級生のピアニストが、来春からイタリアに渡るそうだ。かなり驚き、とてもさみしく、ひどくうらやましい。
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