2010年11月14日日曜日

対談

「響きあう脳と身体」で、
古武術家の甲野善紀氏は、
武術というものを言葉で教えることのナンセンスさを、
繰り返し繰り返し述べる。

たとえば昔の武術書に、

「雲にしるしのごとく」
あるいは、
「剣去りて舷を刻むに似たり」
という言葉があるそうだ。

前者は、
流れゆ雲に印をつけることで、
後者は、
動く船から剣を落とした時、
「ここで落とした」と、
船べりを刻んで印をつけることなんだとか。

要するに、
武術を言葉で説明するのは、
それと同じほど馬鹿げているということらしい。

なるほどな譬えだ。

とはいえ、
そういう武術書があるぐらいだから、
人は昔からやはり、
何かを知りたいから、
手っ取り早く言葉で説明して欲しいわけである。

だから、
昔の武術家も嫌々ながら、
そういう「入門書」みたいなものを書いたのだろうが、
そのうちに、
言葉で説明できないものは「非科学的」みたい冷遇される、
本末転倒のような状況が起きてくる。

その流れの端に現代がある。

武術に限らず、
言葉で説明できることなど、
森羅万象のほんの一粒の砂程度である。

そういう言葉の限界をわきまえないと、
逆に危険でさえある。

ところで最近気付いたのだが、
ぼくは対談本が好きだ。

できるだけ編集なしの、
「えー」とか、
「だから、あのぉ」とか、
そういうところまできっちり拾った、
取材テープの書き起こしみたいなのがいい。

話者の息遣いまで伝わるような。

それとは反対に、
ぼくは翻訳本が苦手だ。

作者の息遣い(筆遣い)が感じられないからだと思う。

といっても、
原語で読めないんだから、
ぼくの責任なのだけど、、、

●高校時代の同級生のピアニストが、来春からイタリアに渡るそうだ。かなり驚き、とてもさみしく、ひどくうらやましい。

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