2010年12月8日水曜日

覚書

ある事物が「古びる」というのは、
どういうことなのかって考えさせられる。
何かが「古びて」見えるのは、
あくまでそれを見ている人が、
その存在する時代とか場所においてそう思うことであって、
いずれ別の時代に別の場所の人が見れば、
全然「古びて」ないかもしれない。

いわゆる「古びない」ということは、
普遍的という言われ方をするけれど、
それは人類における共通項ということだろうか?
何度聞いても飽きないとか、
見るたびに新しい発見があるとか、
それってたぶん、
受け取る方が変化しているということの裏返しなのじゃないかとも思う。

もちろん、
何度も見られるためには、
その作品が一定程度の質を持っている必要はあるけれど、
見るたびに発見するものがあるほど、
奥深いものなんて作れるのかなぁ。

やはりそれは見る側が変化している結果なのか。

いや、
あるいは、
作品そのものに人を変化させる何かを宿しているということかもしれない。

それは、
作品の主題とか技法とか、
そういうものを超越した何かで、
それこそが作品の「質」なのだな。

………………………………………………………………………………

でも真の創造って、
やっぱり刹那的なんだろうな。

踊る大捜査線じゃないけど、
「創造は現場で起きている!」

でも、
その刹那に触れた人は、
新たな創造を信じられるし、
そういう人たちのリレーによって、
創造は生み出され続けていくってことなんだろう。
だから、
創造は一回限りの「現場」にしかないのだな。

演劇しかり、
音楽しかり、
文学しかり。

だから映画やレコードや写真など、
再生産可能な作品は、
真の創造それ自体は宿らないのだろうか?

一方、
絵画や彫刻はどうだろう。
画家が絵筆を走らせるその瞬間こそが、
絵画の現場だという言い方もできるだろうが、
作品そのものが現場だと考えれば、
絵画こそ作品と現場が一体であるという、
稀有な芸術だとも言えるのではないか。

●尊敬する人のブログへの感想なので、意味不明だと思うけど、覚書までに●海老蔵、謝罪姿もはさすがに絵になる。千両役者。

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