紙の本を電子化できないかと、
ipadを持った人ならだれでも考える。
何百ページもある単行本だって、
電子化してしまえば重量はゼロ。
本で散らかった部屋も、
すっきりして母も満足するはずだ。
しかしそのためには、
スキャナーで読みこめるように、
本を解体しなければならない。
しかも、
カッターと定規で切るようなやり方では、
断面が不揃いになって、
スキャナーでちゃんと読めない。
やっぱ「裁断機」が必要だよなと、
アマゾンを見てみると、
同じことを考えている人が、
わんさといることを知った。
3万円ほどで、
かなり本格的な裁断機が売っているのだ。
と思っていたら、
何と本の電子データ化を無料で代行してくれる、
信じられないようなサービスがあることを知った。
本を郵送して、
電子化されたデータを受け取る。
ただし本は返却されない。
うーん。
それもちょっとなぁ。
この悩ましさの根源のひとつには、
本を解体するという行為に対する、
「罪悪感」にも似た気持ちがある。
装丁も含めた「本」という品物を毀損して、
単なる「データ」にしてしまうことへの抵抗感。
本を電子化するということは、
映画を映画館ではなく家のテレビで見るとか、
音楽をライブではなくCDで聞くとか、
そういうのに似た、
質的変化があると思うのだ。
読書というのは単なるデータのインプットではなく、
ひとつの「体験」であるはずなのだ。
とはいえ、
電子データにせよ紙の本にせよ、
「読まなくなる」ことが一番の問題であることは言うまでもない。
以前にも似たようなことを書いたけど、
きっとこれからは、
本屋に並ぶ本と、
それより安価な電子版が同時に発売される、
そんな時代が来るのだろう。
特に、
装丁にあんまりこだわりのない、
文庫本や新書本では、
その流れが速いのではないだろうか。
いずれにせよ、
この悩ましさは、
簡単には裁断できない。
●数学者の藤原正彦が読売新聞の夕刊で『そもそもパソコンで「雪国」の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」という文章が書けるとは思えないのだ。』と書いている。そういうことなんだよなぁ。
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