2011年1月5日水曜日

裁断

紙の本を電子化できないかと、
ipadを持った人ならだれでも考える。

何百ページもある単行本だって、
電子化してしまえば重量はゼロ。

本で散らかった部屋も、
すっきりして母も満足するはずだ。

しかしそのためには、
スキャナーで読みこめるように、
本を解体しなければならない。

しかも、
カッターと定規で切るようなやり方では、
断面が不揃いになって、
スキャナーでちゃんと読めない。

やっぱ「裁断機」が必要だよなと、
アマゾンを見てみると、
同じことを考えている人が、
わんさといることを知った。

3万円ほどで、
かなり本格的な裁断機が売っているのだ。

と思っていたら、
何と本の電子データ化を無料で代行してくれる、
信じられないようなサービスがあることを知った。

本を郵送して、
電子化されたデータを受け取る。

ただし本は返却されない。

うーん。
それもちょっとなぁ。

この悩ましさの根源のひとつには、
本を解体するという行為に対する、
「罪悪感」にも似た気持ちがある。

装丁も含めた「本」という品物を毀損して、
単なる「データ」にしてしまうことへの抵抗感。

本を電子化するということは、
映画を映画館ではなく家のテレビで見るとか、
音楽をライブではなくCDで聞くとか、
そういうのに似た、
質的変化があると思うのだ。

読書というのは単なるデータのインプットではなく、
ひとつの「体験」であるはずなのだ。

とはいえ、
電子データにせよ紙の本にせよ、
「読まなくなる」ことが一番の問題であることは言うまでもない。

以前にも似たようなことを書いたけど、
きっとこれからは、
本屋に並ぶ本と、
それより安価な電子版が同時に発売される、
そんな時代が来るのだろう。

特に、
装丁にあんまりこだわりのない、
文庫本や新書本では、
その流れが速いのではないだろうか。

いずれにせよ、
この悩ましさは、
簡単には裁断できない。

●数学者の藤原正彦が読売新聞の夕刊で『そもそもパソコンで「雪国」の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」という文章が書けるとは思えないのだ。』と書いている。そういうことなんだよなぁ。

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