2011年1月30日日曜日

知将

ザックJのアジア杯優勝を振り返り、
「持ってる」のは本田でもなく、
長友でもなく、
川嶋でもなく、
ザッケローニ監督その人だと確信した。

今大会、
選手交代は3人までが認められた。

3人というと一見少ないようだが、
キーパーを除けばほぼ3割に当たる。

それだけの選手を入れ替えるということが、
どれだけ大きいことかというのを、
ザック監督は示してくれた。

これまでの日本は、
主に中盤にいる一部のスター選手を中心とする、
ほぼ固定された先発と、
控えとの扱いの差が大きく、
怪我をしたとか、
パッとしないとか、
そういう時の「代役」でしかなかったように思う。

つまり、
100あった先発の力が70に落ちたから、
交代して80に少し回復する、
みたいな。

そういう意味で、
サッカーの監督っていうのは、
結局試合が始まったら、
出来ることはあんまりないんだなというのが、
ぼくのこれまでの認識だった。

しかし今大会を通じてザック監督が見せたのは、
交代選手が単なる代役投入ではなく、
「戦術変更」という、
極めて重要な監督の「意志表明」でもあるということだ。

誰かが出場停止や怪我でリタイアしても、
だったらこの選手を使ってこういう戦い方にする、
みたいな懐の深さがあった。

試合が始まってからも、
戦力回復的な意味での選手交代は極力せず、
相手チームの出方を見て、
あるいは、
相手チームの交代選手による戦術変更に対応して、
臨機応変に選手を交代したように思う。

単なる「駒」ではなく、
個性を持ったプレーヤーとして扱われた、
「控え選手」が燃えないはずはない。

決勝戦の延長で、
投入直後に決勝ゴールを決めた李が、
まさにその象徴だった。









ピッチとベンチが一体となって相手を攻略する、
新しい日本代表の在りようを示してくれた。

松井を欠き、
香川を欠き、
それでも優勝。

ザック監督、
本物の知将である。

●写真はasahi.comより。

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