2011年10月5日水曜日

患者

しばらく前に録画しておいたんだけど、
とっても重そうで見てなかった、
Nスペ「百万回の永訣」。

再発ガンに向き合うノンフィクション作家柳原和子さんの、
3年半にわたる記録だ。

やすらかに死にたい。


あわよくば生きたい。

この番組を象徴する言葉だ。

何度も折れそうになる心を隠さず、
それでも頑張って、
自分の病状と向き合い、
医師と意見をたたかわせ、
納得できる治療だけを受ける。

もう、
ただただ感服。

セカンドオピニオンはおろか、
一度ついた主治医に最期まで「言いなり」だった、
亡き親父とは大違いだ。

柳原さんがとにかくすごいと思うのは、
医師と患者は上下関係ではなく、
同じ病と戦う同志だとみていた点だ。

共に戦い、
共に泣き、
共に喜ぶ。

今ではどうなのかしらないが、
親父を見てきた印象では、
これはなかなかできることではない。

患者にとって医師は、
生殺与奪の全権を預けた「神」のごとき存在。

それが親父の患者道だった。

一方彼女は、
そうした治療のさなかも、
取材し、
執筆し、
珠玉のドキュメントの対象として生きた。

手を尽くして得た「生」を、
精いっぱい彼女なりに有意義に使いきった。

その過程で見えてきたのは、
医師もまた人間であるという、
ごく当たり前のことだ。

臓器が違えば、
同じガンでも、
専門外の医師にはたちどころに分からなくなる。

外科手術、
放射線治療、
薬物治療、、、

これもまた専門の壁があって、
同じ「医師」と名乗っていても素人同然。

患者の視点から医療の問題点を、
くっきりあぶりだした。

医師が己の限界を素直に認め、
権威ばらず、
患者の声に耳を傾ける。

それが、
あるべき医療だと訴える。

もっともぼくは、
親父の患者道が間違っていたとは言わない。

どういう患者であるか、
それを決める権利は患者にある。
親父のもひとつの患者道。
柳原さんのもひとつの患者道。

ぼくならどうだろう。

きっと医師にぺこぺこ頭下げて、
検査結果に一喜一憂して、
わけのわからない民間療法にすがり、
果ては寺や教会や神社や、
考え付くすべてのものに祈り、
何の根拠もない奇跡を信じ、
力尽きてしまうのだろう。

親父に近いというか、
それ以下だ。

柳原さんのことを、
ジャーナリストの特権みたいに言う意見もあるようだが、
とんでもない間違いだと思う。

この番組を、
生前の親父に見せたかったな。

●2008年3月永眠。合掌。

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