正月遊びに来てくれた姪に、
木製のパズルに挑戦してもらった。
前にこのブログでも紹介したことがあるのより、
もっと複雑なヤツだ。
当然のことながら、
姪は悪戦苦闘する。
ぼくはその様をニヤニヤ見ながら、
バラバラの状態から完成するまで撮影した、
写真を小出しにしながら、
少しずつ出来あがるのを見守った。
どんなに複雑であっても、
「パズル」と名が付いている限り、
「解」はある。
だから写真であっても、
手順を示してもらえれば、
何とか完成させることができる。
それは当たり前のことだ。
手順がわかれば、
出来たも同然、
苦労はしないのである。
手順書なしに取り組めば、
かの木製パズルは、
恐らく姪の手で完成させることは、
できなかっただろう。
ことほどさように、
手順というものは大事だ。
仕事でも、
私生活においてでも、
手順がわかっていれば、
これほど楽なことはない。
だが現実は、
手順がわからないことだらけだ。
もちろん手順書はない。
ひとつ手順を間違えただけで、
永遠に解けないかもしれないし、
そもそも解があるのかどうかさえ怪しい。
そういう複雑怪奇な世界を、
ぼくらは生きている。
だから手順書なしで自力で解いたパズルのことは、
その人にとっては貴重な財産で、
次の現実に対する大きな参考になる。
大人になるということは、
成長するということは、
そうやって、
ひとつひとつ、
自力でつかんだ手順を増やすことだともいえる。
しかしながら現実は、
いくら手順の引き出しを増やしても、
全く新たな難題を突き付けてくるのだ。
さて、
あなたの直面する現実は、
あなたがこれまで手にした手順で解けるだろうか?
ひょっとすると、
すでにあなたは、
手順を間違えてしまったのではないか?
いや、
そもそも、
その現実に「解」は存在するのだろうか?
よくよく考えてみることだ。
時間はある。
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