2010年3月31日水曜日

一笑

近頃のレンタルDVDは、
コピーガードがされていて、
コピーなんて絶対に出来ないと思っていた。


なのに、、、


いとも簡単に出来るのだということを、
最近になって知った。


これまで、
レンタルしたDVDが観終われないという理由で、
何度延滞料金を払っただろう。

好きな作品は、
DVDそのものを買ったこともある。

この方法さえ知っていれば、
コピーして返却して、
それから残りを観ればよいではないか。


こんなことを知ったのも、
先日1.5テラバイトの外付けHDを買ったからだ。

3時間ぐらいの映画だと、
10ギガほどの容量が必要で、
これまでだったら、
PC自体にそれほどの空き容量がなかった。

1.5テラバイトということは、
3時間の映画でも100本は楽に収まるわけだ。


もちろん、
それを再びDVDに焼いたり、
ましてやそれを売ったりすれば犯罪だけど、
「延滞料金を節約するため」ぐらいの理由なら、
許される範囲内ではなかろうか。


しかもこの手段が画期的なのは、
例えば10ギガのSDカードにコピーすれば、
PCさえあればどこでも見られるという点だ。

あんな切手ほどのメディアに映画一本分の動画が収まるとは、、、


雑誌なんかでそういう記事を読んだ覚えはあったけど、
実際に自分がそういうことをする(できる)驚きは、
ちょっとしたものだ。

そんな話を会社の後輩にしたら、

「今ごろ何を」

一笑に付された。

●深夜、BShiで秦基博のライブをやっているのを、少しだけ見た。歌がうまいなぁと聞き入った●昼間のラジオで、徳永英明の「レイニーブルー」のカバーがかかっていた。ちょっと聞いて、「エグザイル?」と思ったら、やっぱりATSUSHIだった。この人もうまいなぁと思った。

2010年3月30日火曜日

技術

昨日の「人体製造」ショックがまだ続いている。

切断した指が再生するなどということは、
本当に実用化されたらいいことだとは思う。


しかし臓器を豚に作らせるというのはどうだろう。
悪くなった臓器を、
その都度豚に作らせて取り換えて延命する。

その果てに待っているのはどういう事態だろう。

皮膚や骨や血液や臓器まで、
すべて交換しても、
最後、
脳だけは交換できないだろう。

技術的には可能でも、
それやっちゃったら、
もはやそれは本人ではあるまい。


つまりクローン人間と同じだ。

それとも、
記憶を移植する技術までできるのだろうか。

しかしそもそも、
意識=記憶ではあるまい。

記憶も含めた脳の変質こそが、
「私」なのだとすれば、
やはり脳の交換は、
「私」の消滅を意味するだろう。


それにしても、
クローン人間の現実味を考えた時、
「わたしを話さないで」(カズオ・イシグロ著)を思い出した。

クローン人間を「用意」しておけば、
いざというとき、
すべての臓器を簡単に「調達」できる。

しかしそのクローン人間にも、
「わたし」という意識がある訳で、
そっちの人権はどうなるのという議論が、
当然に起きてくる。

じゃあ、
クローン人間に意識を持たせなければいいということなら、
SF映画によく出てくるように、
培養カプセルの中で五感を遮断して生かしておけばいい、
そうすればクローン人間に「意識」は生まれまい。

そういう考えが必ず出てくる。


豚に臓器の話に戻すと、
この実験を進める科学者の言い分は一見もっともだった。

つまり、
今の世界では、
臓器が売買される商品になっているという現実だ。

このおぞましき事態を打開するには、
豚に作らせるのが合理的だというのである。


それにしても、
20歳の壮健なクローンに、
80歳の脳を移植する。

それってどういうこと?

さらに、
幹細胞から精子を作ることにも成功しているという。

ということは、
女性が自分の幹細胞から精子を作れるわけで、
男なしで女性が妊娠できるわけだ。


もう本当にわからない。

わからないうちに、
技術だけが先へ先へと進んでいく。

2010年3月29日月曜日

製造

Nスペ「人体“製造”の衝撃」には、
確かに衝撃を受けた。

切断した指に、
魔法の粉をかけると、
イモリのように欠けた指が生えてきて、
ものの数週間で元通り。

この映像は、
民放では何度か見たことがあったけど、
かなり眉唾ものだと思っていた。

しかし、
NHKがまともに取り上げたのだから、
本当だったのだ。


番組によると、
この魔法の粉は「細胞外マトリックス」といい、
豚の膀胱から作られているんだって。

米軍が興味を示し、
負傷した兵士に試したところ、
わずかずつではあるが、
失った指の部分が盛り上がり、
えぐられた筋肉が再生されるという、
驚くべき結果が出ている。


いまだに信じられない思いだ。


というのも、
実際に効果はあるものの、
それがどういうメカニズムによるものか、
科学的な証明がされていないというからだ。

民間療法のように、
結果は出ているのだけど、
理由はわからん。

そういう状態らしい。


推測では、
この粉が、
体内の幹細胞を呼び寄せ、
再生力を発揮させているのでは、
ということだった。

幹細胞というのは、
細胞の中でもワンランク上位の存在で、
皮膚とか血液とか臓器とか、
特定の部位を作り上げる「司令塔」のような役割を担うらしい。


番組でもうひとつ驚いたのは、
この幹細胞を豚に移植して、
豚の体内で人間の臓器を作る実験が始まっているということだ。

臓器が悪くなったら、
豚に作らせてハイ交換。

そんな時代が本当に目の前に来ている(らしい)。


驚くべき速度で進歩する医療技術に、
ぼくらの倫理観は全く追いついていない。

そこに技術があって、
必要とする人がいれば、
歯止めはかけられない。


クローン人間を作ろうと試みる医師も、
実際にいるのだという。

人間“製造”か。

すごいことになってる。

●武庫之荘「Mクアトロ」セッション。ちょっといい感じだったかも(笑)

2010年3月28日日曜日

王様

「ドーハの悲劇」から4年。

「ジョホールバルの歓喜」で、
日本サッカー界は悲願のW杯切符を手に入れた。


しかし、
そのフランスW杯のメンバーから、
日本サッカー界の宝、
カズこと三浦和良は外された。

これはまさに「カズの悲劇」と、
ぼくは思っていたが、
本人の捉え方は随分違った。


先日のNHKプロフェッショナルに出演したカズは、
あの代表選考漏れの一件からこそが、
自分の本当のサッカー人生であり、
それまでは「余興」だと言いきった。


ちょっと意外だった。


フランスW杯を境に、
日本サッカー界は中田英寿、
小野伸二、
中村俊輔の時代と移り変わり、
全盛期を過ぎたカズは、
日韓、
ドイツと、
日本代表に選ばれることもなく、
現役ではあるものの、
もはや「過去の人」だと思っていたのだが、、、


番組を見て、
カズが負けん気ではなく、
本気で言っているのだということが、
ひしひしと伝わった。

サッカーが大好きで、
なのにそのサッカーから、
人生最大の挫折と屈辱を味あわされ、
それでも、
いや、
それだからこそ現役を続ける。

さっさと引退して、
世界を旅するヒデに比べれば、
本当に不器用なんだけど、
最高にカッコいい生き方だと思った。


「キング」の呼称は、
やっぱりカズに相応しい。

2010年3月27日土曜日

想起

「古畑任三郎」や「刑事コロンボ」の再放送を見ていて、
ラストの謎解きが思いだせないことがある。

しかもしばしば。

状況設定や犯人役の俳優はよく覚えているから、
以前に見たことがあるのは間違いないのに、
結末だけがスッポリと記憶から抜け落ちている。

見続けて半ばになってもまだ分からない。

結局最後まで見て、
初めての時と同じように驚くことさえある。

頭悪すぎ?

よくできた推理モノっていうのは、
そんなものかもしれないって納得しているのだけど、、、


さて。

ちょっとした事情から昨夜、
若いころの写真を探した。

本当に久し振りに「再会」した自分を見て、
胸にズキンとくるものがあった。

全体に緑色に変色したその写真には、
大学1年生のぼくがTシャツ一枚でこちらを見ている。

ぼくの視線の先には、
カメラを構えた親父がいた。

ちょうど今のぼくと同じぐらいの年齢の、
今は亡き親父。

場所は東京・下落合にある親父が勤めていた会社の寮だ。


その夜ぼくは親父に、
「オレは親父の手のひらの上で自由な孫悟空だ」
と言った。

次の日は、
開園して間もない東京ディズニーランドに二人で行った。


あれから四半世紀余りの時がたち、
写真のぼくの視線の先には中年のぼくがいる。

思わず鏡を見た。

その二人の自分の経年変化に、
しばし呆然とした。



呆然といえば、
映画「2012」を借りた。

あのスペクタクルをもう一度見たいと思ったのと、
母親にも見せてやろうと考えたのだ。

DVDを再生して30分ほどして、
ぼくは風呂に入った。

中抜けしても一度見てるし。

上がってくると、
母が「これ、あんたと見たヤツや」と言った。





ヤバすぎる。

見たことを途中まで忘れていた母も母だが、
一緒に見たことを忘れていたぼくもぼくだ。

母が思い出さなければ、
きっとぼくも気付かなかったろう。


「母子同時ボケ」


そんな事態が頭をよぎった。


●ペンギンさんに約束の本をお貸しした●セ・リーグ開幕。

2010年3月26日金曜日

破綻

3月13日付け朝日新聞朝刊の1面に、

「20XX年日本破綻」

っていう記事が掲載された。
読んだ人も多いと思う。

記事というか、
近未来小説風の内容で、
新聞にしてはかなり異色な感じがした。


確かに最近、
日本という国が破たんするかも、
という論調をたまに見かける。

ぼくがたまに見かけるぐらいだから、
日本沈没と同じくらい荒唐無稽なこのシナリオは、
専門家の真剣な議論の俎上にあるということだ。


それにしても、
企業が破たんするというのは、
イメージできるけど、
国が破たんするとはどういう状態だろう。

企業が潰れて社員が失業するのはわかるけど、
日本が潰れて日本人が日本人でなくなる、
そんな事態は想像できない。

IMFがわが家にやってきて、
資産を差し押さえるみたいな、
そういう状況も考えられない。


よく言われるのは、
日本は確かに膨大な国債を発行しているけど、
その大半は銀行など国内で保有しているので、
破たんはあり得ないという説。

増税や景気回復、
あるいは究極、
日銀がお金を刷れば、
国債償還は可能だというわけだ。


しかし、
今ほどグローバル化が進んだ時代に、
本当にそんな理屈が通るのだろうか。

たぶん、
日本破たんという事態は、
専門家だって想像できないんだと思う。

何故なら今のような事態は、
過去に例がないから。


国際社会の中で、
何かのきっかけで円が紙くず同然へと、
一気に向かうことがないとは、
誰にも言えないのだ。

いずれにせよ、
煙草の増税ぐらいで済む問題でないことぐらいは、
素人でもわかる。

●今日はペンギンさんに本を貸すことになっている。

2010年3月25日木曜日

父性

泊まり明けで帰宅途中、
最寄り駅を出ると雨が降っていた。

こんな時、
何故か目の前のTUTAYAに寄りたくなる。

「96時間」(ビエール・モレル監督)を借りたが、
これが見事に大当たりだった。


元諜報員の主人公が、
誘拐された娘を独力で救い出すーー。

ただこれだけのお話なのだけど、
アクション映画としての出来が素晴らしい。


肉弾戦、
ハイテク戦、
心理戦、
銃撃戦、
カーチェイス、、、

93分という短さの中に、
よくぞこれだけ破たんなく色んな要素を詰め込めみ、
なおかつ現代社会を背景にした、
骨太のドラマ仕立てになっていることに感動すら覚えた。

調べてみると、
製作と脚本はあのリュック・ベッソン。

レオンとかTAXIやトランスポーターなんかで培った、
アクション映画の勘所を集大成した感じだ。







とにかくリーアム・ニーソン演じる主人公が、
滅茶苦茶強い。

敵が何十人いても銃や柔術でどんどんやっつける。

そのあたり、
スティーブン・セガールに似ていると言われればそうなのだが、
なぜか観ている間、
「どうせ死なないんでしょ」という気にはならない。


冷静に考えれば突っ込み所満載なのかもしれないが、
この映画は、
木に例えれば枝葉を全部刈り込んで、
太い幹だけズドーンと見せているのだと割り切れば、
ストーリーには十分説得力がある。

その幹になっているものとは、
ズバリ「父性愛」だ。


別れた妻に引き取られ、
満足に会えない愛娘を誘拐犯から奪還すべく、
お父さん命を賭して頑張るという、
切なさが最後まで一貫している。

そのあたりが、
単なる殺人映画とは一線を画する要因のようだ。


今日は全然違う事を書くつもりだったけど、
あまりに感激したので、
これにて終了。

●ちなみに「96時間」という邦題はかなり適当。原題は「TAKEN」●女性受けはしないかもしれませんが、、、

2010年3月24日水曜日

質感

21日付けで、
ぼくと同年代の画家について書いた。

その彼のブログに、
例の「線と色と支持体」についての解説があった。


●「線と色と支持体」というタイトルの意味について。
ここで展示されている作品は、大別すれば線の仕事と色彩の仕事とに分けられると思います。そしてその二種類の仕事が、いくつかの異なる支持体(キャンバス、合板パネル、段ボール、色の異なる紙)の上になされています。それらは、互いに交換可能なものとしてあります。つまり、紙に色彩でなされた仕事がキャンバスに色彩の仕事へと変換され、キャンバスに色彩がキャンバスに線、合板パネルに色彩へと変換され、それがまた段ボールに線、紙に線へと変換されていきます。これらの作品はつまり、同一の機能をもつ機械が、一部の部品(素材)を入れ替えて組み立てられているような感じです。だからこれらの作品たちは、同一の主題や形態のバリエーションや展開としてあるのではなく、互いに異なる要素を入れ替えて構成された、同一の機能をもった複数の装置たちである、ということになります。
「線+キャンバス」「「色+キャンバス」「色+合板パネル」…。合板パネルはキャンバスの代替物ではないし、色彩を線によって置き換えることは出来ません。つまりそれらは、それぞれが異なる原理や体系をもった異なるものたちです。ただ、複数の線の絡み合いによって実現されるものと、複数の色彩の塊の関係によって実現されるものとが、同等の「構造的な複雑さの感触」を獲得することは可能だと考えます。キャンバスの上に描かれた線の絡み合いによって実現されるものと、合板パネルの上に描かれた色彩の塊の関係によって実現されるものとの間にも、同様のことが言えるでしょう。色と線とを入れ替え、キャンバスと合板パネルとを入れ替えながらも、そこで目指されている「構造的な複雑さの感触」はおそらく変わらないはずです。つまり、線の絡み合いが、それの「正確な等価物」である色彩の関係へと変換される、というような。
だから、展示されているのは、異なる要素によって、異なるかたちとして組み立てられた「等価物」たち、ということになります。
しかし、ここで、おおもとにあって作品たちの生成を可能にし、作品を内的に律しているはずの「構造的な複雑さの感触」(目指されているもの)の同一性を保証するものはどこにもありません。ぶっちゃけて言えば、それを描いている私が一応の納得を得られた、という以上の根拠はありません。ただ、私にとってその感触を導いてくれるものたちがあり、それが、葉の生い茂る植物のもつ視覚的な複雑さです。展示されている写真は、私がその複雑さの感触を確かめるための手がかりのようなもの、規範になるようなものの一つであって、それを見て描いているわけでははありません(描く時は写真は見ません)。「plants」のシリーズは、植物を描いているというよりも、植物の「教え」によって描いていると言えるでしょう。



きっとぼくと同じような感想を抱く人が何人もいたのだろう。

でも最初は、
ぼくの疑問に答えてくれているのかと、
ちょっとドキリとした。

ね、
とっても誠実で魅力的な文章を書く人でしょ。

ぼくなりに解釈すると、
彼の絵は、
彼が植物から受ける「質感」を、
線や色に変換しているということなんだな。


外形とか印象とかとは違う、
「質感」。

すべてのものが持っていて、
すべての人にとって異なる質感。

だから絵で表現されている質感は、
当然彼固有のものなんだけど、
彼の絵を見ているときに感じられる質感は、
彼の感じたものと限りなく等価であって欲しい。


自分の感覚を他人と完全に共有するなどという、
途方もない目論見。

画家や小説家や詩人や、
あらゆる真の芸術家はそれに命を捧げる。

作品の質感は、
作者の質感なのだ。

●最低限、絵は直接見ないと駄目ということだ●鼻がグズグズ。確か去年も。この時期、風邪とも花粉症とも判別しがたい。

2010年3月23日火曜日

命綱

3月22日が放送記念日ということで、
NHKが特番をやっていた。

ぼくも何度か話題にしてきた、
ネット時代のマスメディアがテーマだった。

「建設的な議論を」と司会者はいうものの、
テレビや新聞の側は自らの存在価値を唱え、
ネット側は、
既存メディアへの死刑宣告がごとき主張に終始し、
最後まで議論はかみ合わなかった。

予想していたことではあるが。


思うに今のネット業界は、
テレビの黎明期のような感じではなかろうか。

可能性は無限に開かれ、
余計な縛りはなく、
アイデア一つで何でもやりたい放題。

はずれて当たり前、
当たれば大儲け、
みたいな。

怖いもの知らずという感じ。


死刑宣告といえば、
先日のNHK「ETV特集 死刑囚 永山則夫」を録画で。

紆余曲折の末、
彼は死刑になってしまうのだが、
28年間、
自分の罪や贖罪について考え続けられた彼は、
少なくとも彼の放った拳銃で突然命を終わらせられた4人の被害者より、
幸せだったように思う。


民放では、
高度1000メートル近い場所で、
命綱もつけずに綱渡りする男が紹介されていた。


命にも、
いろんな使い道があるもんだ。

●「コード・ブルー」が終わった。全体としてシーズン1の方がよかった。脚本も演出もだいたい同じなのに、どうしてこう印象が違うのか。たぶんミスチルの名曲「HANABI」の使い方だったと思う●「ハード・エイト」(ポール・トーマス・アンダーソン監督)をDVDで。日本未公開作品だが、これはお薦め。初老のギャンブラーを演じるフィリップ・ベイカー・ホールが渋すぎる。

2010年3月22日月曜日

意志

今日のNスペ「呼吸器をはずしてください」。

見た人いるかなぁ。

「尊厳死」について考えさせられる番組だった。


筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)。

略称の「ALS」の方が一般的かもしれない。

筋肉に力が入らなくなっていく病だ。

それが最終的にどういう事態を招くのか。


人工呼吸器など適切に対処すれば、
延命は可能だ。

患者さんの五感は機能し、
脳だってちゃんと活動している。

ただ、
意志表示が全くできなくなる。


こういう状態を「閉じ込め症候群」というのだそうだ。


番組では、
完全に「閉じ込め」状態になったら、
人工呼吸器をはずして欲しいと願う患者さんと、
ノンフィクション作家柳田邦男との対話が軸になっていた。

「命は本人だけのものじゃないのでは」と問う柳田氏の意見は、
至極まっとうなものだ。

「生きてそこにいてくれるだけでいい」と願う家族らの願いも切実だ。


でも、
そういうことを全て了解の上で、
尚「命は本人のものだ」と言う患者さんの意見は、
さらに尊重されるべきように思った。


●日曜の夜、それも連休の真ん中にこの番組は少々きついように。ぼくには関係ないけど●本当に久し振りに武庫之荘・Mクワトロに顔を出した。

2010年3月21日日曜日

逡巡

ぼくと同年代の、
とある画家がいる。

その人のブログが面白くて、
毎日更新されているので、
毎日読ませてもらっている。

絵のことはもちろん、
小説や映画や演劇や哲学などについて、
日々考えを巡らしている。

時に難解な場合もあるけど、
大抵の指摘は的確(に思われ)、
彼のお陰で知った映画や小説は、
かなりの数になる。

彼の著書も一冊だが持っている。


そんな彼の作品が吉祥寺に展示されているということで、
そのギャラリーのHPをのぞいた。













後ろにある窓枠の感じから判断して、
この作品は縦1メートルはありそうだ。

うーん、、、


彼は毎日毎日、
驚くほどの読書や、
演劇や舞踏の鑑賞をして、
考えられないほどの思索を巡らし、
画家の目で世界を見ながら、
人生をかけて、
ずーっとこういう絵を描いている(らしい)。

文章の明晰さとは対極にあるような作品(のように思われる)。


文章で書けることなら、
絵である必要はないわけで、
だからこの絵を理解しようとか、
解説しようとしてはいけない(んだろう)。

この作品はこの作品自身で、
何かを表現している(はずだ)。

わかる人には分かる(に違いない)。

ちなみにタイトルは、
「緑と色と支持体」という(んだけど、、、)



●決して揶揄しているわけではなく、本当に尊敬している人なので、この絵を感じとりたいのだけど、、、●今観ている映画も彼のブログで知ったのだ●ぼくがブログを毎日更新しているのだって、この人と無関係ではない。

2010年3月20日土曜日

印刷

夕方帰宅すると、
月刊「Forsight」が届いていた。

「創刊20周年記念号」と表紙に書かれているが、
これが最終号とは皮肉である。


雑誌としてはこれで終わりだけど、
どうやら夏からウェブ版がスタートするようだ。

まったく無くなってしまうよりはマシだけど、
やはり雑誌という形式が消えるのは残念だ。


雑誌もウェブも、
活字媒体という意味では同じかもしれないが、
印刷物か電子画面であるかということは、
実は非常に大きな違いがる。

それは、
印刷物は上書きが出来ないという点である。


一度流通してしまった印刷物は、
間違いがあっても消してしまうことができない。
訂正するには、
改めて印刷物を出すしかない。

もし重大な間違いがあれば、
出版者の信用は著しく低下するし、
場合によっては存亡にすらかかわってくる。

だから出版という行為は、
その形式自体が人を慎重にさせるし、
まともな出版者は出版までに、
何重にもわたってクロスチェックする。

読者の信頼は、
その上に成り立っている。


だからウェブ版で、
印刷物の時と同じような慎重さを保つことは、
不可能だ。

訂正したければいつでも上書きできる。

ページごと削除することだって可能だ。

いくら編集者が正直であろうと、
そういう訂正や取り消しが可能だというその時点で、
ウェブ版の信頼度は、
あらかじめ印刷媒体より低いのである。

そう考えた時、
印刷物がなくなる世とは、
いかに怖いかがわかる。

●現にこのブログだって、こそっと直した表現がいくつもある●初代S-1グランプリにNONSTYLE。面白かったけど、1億円は明らかにやりすぎ●一年ぶりに明治屋でマシュマロを買った。

2010年3月19日金曜日

差益

掘り出し物の古本を手に入れ、
ネットオークションなどで高く売り、
差益を得る行為を「せどり」というんだって。

今日初めて知った。

そういうことを楽しんでいる人は、
「せどらー」というそうだ。


「せどり」って何の略だろうと調べると、
れっきとした「競取り」という言葉だった。


売買の仲介をして手数料を取ること。また、その人。(goo辞書)


読売新聞夕刊(大阪版)に出ていた話だ。

小遣い稼ぎどころか、
「せどり」で1000万円貯めて起業した人もいるという!


素人でもこんなことが出来る背景には、
「ブックオフ」の存在が大きいようだ。

あそこは通常の古本屋とは価値判断が全く違う。

月刊の雑誌でも定価の1割ほどで買ってくれる一方、
何万円もするような本でも105円で売られたりする。

記事による「せどり」の実例では、
105円の「ネイルテクノロジー」が4084円に、
2000円の「建築設計資料集成 環境」が11084円になった例があるそうだ。

背表紙に印刷された国際標準図書番号を入力するだけで、
オークションの相場がわかる携帯サイトもあるらしい。


携帯片手に宝探しに行ってみたくなった。


●自分が知らない言葉は珍しいと思うぼくの価値基準はいかがなものか。実はみんな知ってたりして●さて本日は元町あたりをブラブラしよう。掘り出し物はあるかな?

2010年3月18日木曜日

余韻

何気に寄った駅前の本屋で、
「永遠のとなり」(白石一文著、文春文庫)を買って読んだ。


部下の自殺をきっかけにうつ病に罹り、会社を辞め妻子とも別れ、何もかもを捨てて故郷・博多に戻った青野精一郎。肺がんを発病し、死の恐怖から逃れようとするかのように、結婚と離婚をくりかえす津田敦。48歳となった、小学校以来の親友ふたり。やるせない人生を共に助け合いながら歩んでいく感動の再生物語。


裏表紙の紹介文。

あまりにリアルな内容で、
怖い気もしたけど、
ひどく共感できた。


物語の中盤、
青野が自らの人生を振り返る場面がある。


 私は、私という人間のことが本当に嫌いだったのである。
 そう気づいた瞬間、何だそうだったのか、とすべてが了解できる気がした。
 四十七年間もの長きにわたって嫌いな人間と一緒に生きてくれば、誰だって心に陰鬱な陰りを生じさせてしまうのはむしろ、当然ではないか。
 (中略)
 たしかに、私という人間は、いつもいま現在の自分から逃げているところがあった。生き延びること、前進するということはそれまでの自分を捨て去り、常に新しい自分に為り変わっていくことだと信じていた。そうした考え方は一見前向きのようにも見えるが、実はその反対だ。為り変わるとは、結局、それ以前の自分を全否定することに他ならない。過去の自分は現在の自分よりも駄目でつまらないものだと規定して生きてきたのだ。(P141~142)

 

なるほどなぁと思う。
 
というぼく自身、
自分の人生を振り返って、
「生き散らかしてきた」と、
最近よく思う。

前進するということは必ずしも成熟を意味しない。

むしろ、
何事も熟成させることなく、
とっかえひっかえ場当たり的に、
目新しいものに飛びついてきただけなのかもしれない。

ぼくは鬱病にもガンにもなってはいないけど、
40歳を超え、
人生の折り返し点を迎えた男性は、
大なり小なりそんな感じを持つのではなかろうか。


物語は最後、
再生への余韻を残して終わる。

ぼくの人生も雑音だらけだった。

せめて最後の余韻はきれいに。

今更ながらの願いかな。

●気合いを入れず買ったものが案外よかったりする、典型的な例●関西地方では現在「古畑任三郎(第3シーズン)」を再放送中。録画を見たら、岡八郎が出ていて驚いた。関東の人は知らないだろうけど。

2010年3月17日水曜日

遅効

冷蔵庫を開けると、
コントレックスの大きなペットボトルが入っていた。

ぼくは最近買ってない。

ということは母だ。

事情聴取すると、
容器はぼくが以前飲んだ空きペットボトルだけど、
中身は「名水」だという。

親父の墓は伊丹にあるのだが、
そのそばに名水があることを最近知って、
墓参りのついでに寄ったのだという。

「不尽の井」という井戸水で、
持ち帰り用の蛇口まで備え付けてあるそうだ。

平日だというのに行列ができていて30分並んだとか。

何の効能があるのかないのか知らないけど、
その水で淹れたコーヒーを飲んだ。

いつもより少しマイルドな気がした。



アトピーの薬を最近変えたところ、
少しずつ、
ほんの少しずつではあるが、
でも着実に効果があると実感する。

持病なんだから、
もう気長に付き合う気ではいるが、
少しでも手ごたえがあると、
やはり嬉しい。

明日が来るのが楽しみというか。



天満・じゃず家のセッションに久し振りに行った。

練習の効能は、、、

どうなんでしょう。

余りに速度が遅過ぎて、
進んでるのか止まっているのかさえ、
よく分からないんですけど、、、

向きは合っているはずなんですけど、、、


●じゃず家の後、某所で素敵な歌声を聞いた●「グーグーだって猫である」(犬童一心監督)の残りを観る。吉祥寺の井の頭公園の桜が懐かしかった●某大学のHPが、いつの間にかリニューアルされていて、寂しかった。

2010年3月16日火曜日

改善

「知恵を絞る」と言うは容易いが、
普通の人間が普通の思考をしていたのでは、
十人並みの結論しかでない。

「ワンランク上の問題解決の技術《実践編》」
(横田尚哉著、ディスカヴァー・トゥエンティワン)
という本は、
改善したい事物を「機能」という観点から徹底的に分解し、
その費用対効果を見直すという、
「VE(ヴァリュー・エンジニアリング)」という手法を紹介した本だ。


先日の「情熱大陸」で著者が取り上げられていて、
建設コンサルタントだる著者が全国の自治体で、
この10年間に総額1兆円の公共事業の見直しに携わり、
合計2000億円の削減に成功したという実績に興味を持ち、
Amazonで即買いして即読んだ。


200ページ余りがほんの2日足らずで読めたのだから、
書いてある内容は非常に簡明だった。

でも実践するとなると、、、

相当に難しい。


例えば、
本の後半に出てくる照明スタンドの機能分解。

第一段階として著者は、

①光を出す
②光を集める
③部品を固定する
④移動を容易にする
⑤雰囲気を和らげる
⑥転倒を防ぐ
⑦リサイクルを可能にする


と7項目をサラリと示して見せる。

ぼくなら①しか思いつかないな。

もう一度書くけど、
これで第一段階だ。

ここからさらに各項目をさらに分解して、
徹底的に機能をバラバラにしてしまう。


それでも、
料理で言えばまだ仕込み段階であって、
その分解した機能から原案の費用対効果を割り出し、
その数値を上げていくという作業に入るのだ。

いやはや。

この本には、
確かに知恵の絞り方が書いてあるけど、
実際に絞るのは個人の努力なんだな。

でもそれが出来ないから、
全国の自治体が著者のような人に頼るのだ。

著者はきっと、
「決してあなた自身では出来ませんよ」と本音では思っているだろう。

1700円の本を2日で読んだ費用対効果は、
まぁそういうことが分かったということだ。


とはいえ、
この本をヒントに、
ぼくをワンランク上に「改善」するため、
自分自身を機能に分解してみようか。

2010年3月15日月曜日

媒体

先日週刊誌を読んでいたら、
新聞のことが「斜陽産業」と書かれてあった。

先日のNHKスペシャルでは、
アメリカの新聞社がバタバタと消えていく様子が、
悲しげに放送されていた。

引き金はリーマンショックなのであるが、
最大の原因はインターネットの普及、
そしてそれにともなう高校収入の大幅な落ち込みである。


本当に新聞がなくなる日が来るのだろうか?


多くの人が「イエス」と答えるだろう。

果たしてそうだろうか。


ラジオが普及して、
人々が無料で情報に接することができるようになった時、
「新聞の時代は終わりだ」と思った人は沢山いただろう。

テレビが普及したときは、
「これで新聞もラジオも映画も不必要だ」と、
多くの人が思ったに違いない。

でも、
新聞もラジオもテレビも映画も、
依然として生き残っている。

電話が生まれれば手紙や電報が。
メールが生まれれば郵便が。

新たな情報伝達媒体が生まれるたびに、
古い媒体は消滅すると予想されてきたが、
必ずしもそうではなかった。

それはなぜだろう。


写真が発明された時、
画家という職業はなくなると、
誰しもが思ったに違いない。

でも、
画家は依然として存在している。

写真は、
画家の仕事を奪ったのではなく、
画家の「見たままに描く」という義務から解放したのだ。

その結果、
画家は自由になった。


ネットは新聞やテレビやラジオから、
どんな義務を解放してくれるのだろう。


●山崎ナオコーラ「この世は二人組ではできあがらない」(新潮社)。面白かった●音感テスト、2度目の満点。
どんな自由をくれるのだろう。

2010年3月14日日曜日

素麺

ぼくは料理ができない。

大学生の時から10年間の独身時代も、
その後の都合10年ほどの結婚時代も、
自炊とは無縁で通した。

独身時代は外食か、
せいぜい惣菜を買ってきて、
済ませ、
結婚時代は奥さん頼り。

もうそれだけで、
イマドキの基準でいけば、
博物館行きの結婚不適格者かもしれないけど。


そんなぼくではあるが、
唯一得意料理だと思っているのが、
「素麺」だ。

鍋いっぱいに煮立った湯の中に、
素麺の束を円を描くように入れ、
「びっくり水」も忘れず、
茹で具合を確かめて火から降ろし、
冷水で一気に冷やしながら、
表面の油分を流し落とす。


一番肝心なのは茹で加減なのだが、
その秘訣は「勘」である。

それ以外にない。

ぼくはその時ばかりは素麺の気持ちになれる。

食べる時にもこだわる。

氷は冷蔵庫の氷はNG。
是非ともコンビニ氷といきたいものだ。

でも、
つゆは市販ので十分だ。


こんなこと書いているのは、
今朝テレビで素麺についての特集を見たからだ。

素麺の原型は何と奈良時代からあったそうで、
そのことは「麦縄」と言ったという。

素麺があんなに細いのは、
乾燥させて保存食にするためだったという。

機械化された今でさえ結構大変な工程を、
当時の人たちが手仕事でやっていたことに驚かされる。

そんあに手間暇かけて作った素麺でも、
食べる時はほんの数分。

でも、
あの食感は好きだなぁ。


最近は素麺さえ自分で作ることはなく、
完全に母に頼りっきりだ。

お陰で栄養状態は申し分ないけど、
料理は結局出来ぬままアラフィフになりそうだ。

いつか「男の一人料理教室」なんかに、
通う羽目になるのだろうか?

いやきっと、
とことん自炊とは無縁で通すだろう。

●でも外食で素麺は食べない。素麺はぼくにとっては、家で食べるものだ●そりゃ本を片手に料理を作ったことはありますよ。美味しかったですよ。でも面倒なんだよ。とにかく。

2010年3月13日土曜日

感触

「トクマルシューゴ」という音楽家が、
NHKトップランナーに出ていた。

楽器のほかに、
ありとあらゆる音の出るものを利用して、
一人で多重録音する独特の創作が、
世界的に注目されているらしく、
バンクーバー五輪の公式応援ソング(?)も提供したという。

何よりも、
この番組の音楽がこの人の作品だった!

にもかかわらず、
ぼくの視界に全くなかった人だったので、
ワクワクしながら見た。


楽器でない音の出る素材を探すのに、
ホームセンターと思しき場所に行き、
片っぱしから叩いて音を確かめる。

いい加減に選んでいるようだったが、
多分彼には絶対音感があって、
ちゃんと音程を把握しているのではと思った。

でもないと、
キュウリを笛にするオジサンの方が、
よほどすごい。


彼の音楽は、
「違和感」を大事にしているという割に、
とても優しげで可愛らしい。

バンドにベースを入れないのは、
縛られたくないからだという意味のことも言っていた。

ループマシーンを利用した演奏は、
どこかスティーブ・ライヒの作品も連想させる。

そして、
かなり多弁だが決して雄弁ではない。

例えばYAZAWAが「100%天然果汁」だとすれば、
「果汁5%」並みに意味の濃度が薄く、
恐らくそれは意図的であろう。

経歴その他も意図的に隠しているとしか思えない。


wikiってみても、
公式HPを見ても、
手ごたえのある情報はとても少ない。

軽くて速くて薄い。

確かにイマドキの人だった。


●ギターの腕は確かだった●ペンギンさんは「ブルドックと並列かよ」と少々ご不満の様子だった。

2010年3月12日金曜日

蝸牛

2月19日付けの本ブログで、
音感をチェックできるサイトの話を書いた。

あれから毎日トライして、
ようやく昨日、
100点満点をとれた。











キーCのドレミファソラシドがランダムに鳴って、
それを当てる、
たったそれだけ。

なのに思いのほか難しい。

本当はもっと早くに満点がとれると、
高をくくっていたのに、
結局3週間かかった。

毎日毎日、
必ず何回か間違える悔しさったら。

それもうっかりとかじゃなく、
本気でミとファを取り違えるのだから、
かなり凹んだ。

これじゃぁ音痴じゃんか、、、

だから、
嬉しいというより、
少々自分に失望もしている。


しかもこれはビギナー版。

この先には、
半音も加わった12音階があって、
音程があって、
コードがあって、、、

登山でいえば、
一合目の入り口に立ったぐらいだ。


とはいえ、
写真まで載せているように、
ある種の達成感はある。

これもまた、
蝸牛の軌跡だ。


●「不毛地帯」最終回。視聴率は低空飛行のままだったが、ぼくは面白かった。特に原田芳雄はこんなに上手い俳優だったのかと、感心してしまった。

2010年3月11日木曜日

桜歌

日本列島は信じられない寒さなのだが、
高知では桜が開花したとか。

今FM802で流れてるのがちょうど「開花宣言」という曲なのだが、
この時期、
やたら「桜」がらみの歌が流れる。

年々その傾向が強まっているように思えるのだが、、、

さっそくwikiってみたら、
あるわあるわ。

驚いた。


1976年『桜前線』(小柳ルミ子)
1981年『チェリーブラッサム』(松田聖子)
1994年『夜桜お七』(坂本冬美)
1997年『人生桜』(中村美律子)
1998年『桜』(川本真琴)
2000年『桜坂』(福山雅治)
2000年『桜の時』(aiko)
2000年『桜の雨、いつか』(松たか子)
2002年『SAKURAドロップス』(宇多田ヒカル)
2002年『SAKURA』(175R)
2003年『さくら(独唱)』(森山直太朗)
2003年『桜』(河口恭吾)
2005年『桜色舞うころ』(中島美嘉)
2005年『さくら』(ケツメイシ)
2005年『サクラ咲ケ』(嵐)
2005年『桜』(コブクロ)
2006年『ソメイヨシノ』(ENDLICHERI☆ENDLICHERI)
2006年『SAKURA』(いきものがかり)
2006年『SAKURA re CAPSULE』(少年カミカゼ)
2006年『桜の花びらたち』(AKB48)
2006年『桜キッス』(河辺千恵子)
2006年『sakura』(NIRGILIS)
2007年『サクラ色』(アンジェラ・アキ)
2007年『桜道』(倉橋ヨエコ)
2007年『SAKURA』(清木場俊介)
2008年『花は桜 君は美し』(いきものがかり)
2008年『サクラビト』(Every Little Thing)
2008年『SAKURA〜花霞〜』(中島美嘉)
2008年『sakura』(Saori@destiny)
2008年『桜の花、舞い上がる道を』(エレファントカシマシ)
2008年『櫻』(大蛇)
2008年『葉桜の頃』(SUILEN睡蓮)
2008年『桜ノ雨』(absorb)
2009年『SAKURA -ハルヲウタワネバダ-』(矢島美容室)
2009年『10年桜』(AKB48)
2009年『桜』(FUNKY MONKEY BABYS)
2009年『Sakura』(レミオロメン)
2009年『夢桜』(ジュスカ・グランペール)
2010年『さくらガール』(NEWS (ジャニーズ)

一見してわかるのは、
2000年代に入って急増していることである。

元来、
ズバリ「愛」とか「桜」のタイトルって、
なかなかつけるのに勇気がいると思う。

だって、
二度と使えないでしょ、
普通。

その時は「決定版」と思ってリリースして、
後でもっといいのが出来て、
「桜Ⅱ」とか「桜Part2」じゃあねぇ。

だから微妙に「sakura」とか「サクラ」とか「○桜」なんか、
ちょっと変化球仕立てにするケースが多い。

2000年代までは、
タイトルにすること自体が少なかったようだ。
しかも桜といえば、
どちらかといえば「和」の領域だった。

それが2000年代になってポップスでも取り上げられ始め、
福山雅治の「桜坂」、
森山直太郎「さくら」ときて、
コブクロの「桜」で、
ついに頂点に達した感じ。

その後も「桜歌」は大流行で、
今ヒット中のjuju「桜雨」もそうだ。
きっとほかにもあるだろう。


若い人って、
そんなに桜好きなんだー。

●川本真琴って懐かしくてYouTubeで「桜」を観た●音感テスト、やっと100点。初心者コースだけど、、、

2010年3月10日水曜日

琴線

卒業式シーズン。

僕らのころの「卒業ソング」と言えば、
「贈る言葉」や「さよなら」が代表的。

もちろん、
「卒業写真」はそのころから定番だった。


最近の定番はレミオロメンの「3月9日」だということを、
今日のクローズアップ現代で知った。

レミオロメンといえば「粉雪」が結構好きなのだが、
昨年末の紅白で生レミオロを見て、
歌に少々がっかりしたもんだ。


とはいえ、
そんなに有名な曲ならと、
調べてみた。


流れる季節の真ん中で
ふと日の長さを感じます
せわしく過ぎる日々の中に
私とあなたで夢を描く

3月の風に想いをのせて
桜のつぼみは春へとつづきます

溢れ出す光の粒が
少しづつ朝を暖めます
大きなあくびをした後に
少し照れてるあなたの横で

新たな世界の入り口に立ち
気づいたことは 一人じゃないってこと

瞳を閉じれば あなたが
まぶたのうらに いることで
どれほど強くなれたのでしょう
あなたにとって私もそうでありたい

砂ぼこり運ぶつむじ風
洗濯物に絡まりますが
昼前の空の白い月は
なんだかきれいで 見とれました

上手くはいかぬこともあるけど
天を仰げば それさえ小さくて

青い空は凛と澄んで
羊雲は静かに揺れる
花咲くを待つ喜びを
分かち合えるのであれば それは幸せ

この先も 隣で そっと微笑んで

瞳を閉じれば あなたが
まぶたのうらに いることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私もそうでありたい



いい。

イマドキの若い子がほれ込むのもわかる。

曲は単純なフレーズの繰り返しと、
沖縄っぽい(?)サビ。

その感じが「今」とフィットするんだろう。

歌詞また泣かせるね。

ということで、
「3月9日」はここ3年間、
不動の1位だといい、
2位と3位は「卒業写真」と「贈る言葉」だった。

少なくともNHK調べでは。

やっぱこの2曲は、
最強の卒業ソングだな。

●考えてみれば、何で「さよなら」が卒業ソングだったのか?「もう、終わりだね」って?単に「さよなら」を連呼するからだけだったのか?●ちなみに「3月9日」は「メンバー3人の共通の友人の結婚記念日(2003年3月9日)を祝う為に作られた」(wiki)とある。へぇ~(×3)

2010年3月9日火曜日

物欲









キャリーバッグ1つころがしながら、
町並みを歩く初老の女性。

一見旅行者かと思いきや、
彼女は「無一文」で暮らしているという。

しかも14年も。


かといって、
ホームレスというわけではない。

仕事はあるし、
野宿をしているわけでもない。


ってどういう事?

キーワードは「交換」である。

ドイツ人女性のシュヴェルマーさん(67)は、
元教師の心理療法士で、
セラピーや他人の家の留守番やら病人の介護といった、
様々なサービスを提供して、
その代わりその家で寝泊りしたり、
食事をしたりしているという。

つまり日替わりの居候のようなものだ。


この方法で、
移動の交通費以外の現金は不必要になったのだという。

年金でさえ、
大半は寄付してしまうそうだ。

元々1年限りの実験生活のつもりが、
すっかり気に入ってしまったという。

著書「お金なしで生きる」(アーティストハウスパブリッシャーズ)に詳しいらしいが、
ぼくはまだ読んでいない。


日本で、
いわんやぼくがこんな生活をすることが可能だろうか?

いや問題の立て方がおかしい。

「物欲」さえ捨てれば出来るのだ。
彼女が実証しているのはそういうことだ。


そういえば先日の朝日新聞に、
ツイッターを利用して日本一周無銭旅行をする女子大生の話が出ていた。


こういう話で心が軽くなる気がするのは、
ぼくの心が相当に物欲を溜め込んでいるからだろう。

●本は現在絶版の様子。同名の映画があるらしい●映画といえば、「ハート・ロッカー」アカデミー賞には驚いた。

2010年3月8日月曜日

乾燥

「パタカラ」

意味不明の4文字が書かれた付箋が、
台所脇の柱に張り付けてあるのに気づいた。

母に「これ何?」と尋ねると、

「コークーカンソーショー」と一言。

「航空完走ショー?」


まだ意味不明のぼくは、
さらに母から事情聴取した。


そうか「口腔乾燥症」のことね。


って一体何だ。


ウィキッてみると、
「唾液の分泌量が低下し口腔内が乾く、歯科疾患の一つ」
とある。
英語では「ドライマウス」という。

症状がひどいと、
口の中が痛くなることもあるらしい。

「患者」は日本人だけで800万人!

そんなに多くの日本人の口が渇いているのか。


ところで「パタカラ」って、、、


母が言うには、
この4文字を唱えると、
口の渇きがマシになるんだとか。

テレビで紹介していたそうだ。


テレビよ。

口の渇きより、
心の渇きを癒す術を教えてくれ。

●ちなみに、ドライアイは「角膜乾燥症」のこと。こういう時は英語の方が、ライトな感じがしていいな。

2010年3月7日日曜日

戦場










イラク戦争の爆弾処理班をテーマにした、
「ハート・ロッカー」(キャスリン・ビグロー監督)。


戦場という超緊張状態を生き抜くこと。

そしてそれが出来るようになった時、
帰還してからの日常に耐えられなくなること。

現代の戦場をリアルに描いた、、、
と書いていて、
何でリアルって言いきれるんだよって自分に突っ込んだ。


映像がニュースっぽいから?

宣伝でそう言っていたから?

兵役の経験もないくせに、
兵士の心情や仕草がリアルかどうかなんて、
わかりっこないじゃないか。

きっとぼくの中に、
すでにある種のイメージが形成されていて、
それと合致しているから「リアル」だと判断しているに過ぎないのだろう。

それは実はとっても危険なのかもしれない。

だから簡単に感情移入しない方がいい。

きっと。


ちなみにタイトルは、
「The Hurt Locker」であって、
決して「Hart Rocker」ではない。

爆弾処理班が主人公ということで、
タイトルを「感情を殺した人」みたいに思い込んでいたのだが、
ハートは「Hart」じゃなく「Hurt(痛み)」の方で、
「ヤバい場所」=棺桶行きみたいな意味の、
スラングらしい。


「War is a drug(戦争は麻薬だ)」

冒頭の台詞が雄弁だ。

●隣に座っていた女性が、爆弾処理の場面になると、「ヒッ」って感じに身をこわばらせているのが伝わってきて、それはリアルでした。いいなぁそういうの●監督はアバターのキャメロン監督の元妻とか。知らなかった、、、

2010年3月6日土曜日

貫徹

元町のジャズ喫茶「jamjam」に久し振りに行き、
一人掛けソファで、
仰向けに寝そべるようにして聞いていたら、
背後から肩を叩かれた。

「暖房入れてないんで、寝てると風邪ひきますよ」

と店員さん。

決して寝ていた訳ではなく、
どっぷり音楽に浸っていた(つもり)だったのだが、
慌てて姿勢を正した。


そういえばここんとこ、
暖かいんだか寒いんだか、、、
どの程度の服装が適当なのかが全然わからない。

極端に言えば、
昼はTシャツで夜はダウンみたいな。

お店なんかも、
室温の設定が大変だろうなと思う。


ところでご承知の通り、
ぼくは夜は強い。
早起きも仕方ない時は頑張る。

でもどーにも駄目なのが寝不足だ。

若い時からそうで、
だから、
試験の時でも徹夜だけは絶対に出来なかった。

たとえ1時間であっても寝ないと、
体の中のカレンダーが切り替わらないのだと思う。


NHKで「カンテツな女」という特集番組があって、
再放送の4回分をまとめて見た。

24時間営業の美容室の美容師
銀座のディスプレーデザイナー
介護福祉士
スキー場で人工雪を降らせる係

「カンテツ」とは完全徹夜の略だと思うけど、
番組では要するに夜通し働く女性という意味で使っていた。

色んな女性が働く姿、
そして深夜だから出る本音が面白い。


振り返って、
そういう意味ではぼくはカンテツな男である。

でも、
番組の女性たちと違って、
意志を貫徹できないのが、
大いに問題ではあるが、、、


●YAZAWAの娘が歌手デビューしていたとは知らなかった。にしても、この国は何かと二世が多いなぁ。優秀なら別にいいんだけど●ペンギンさんは早退したようだ。

2010年3月5日金曜日

骨太

フジテレビ系の「不毛地帯」は、
視聴率10%台をうろうろしていて、
決して評判がよいとはいえないようだ。

ぼくは、
ときどき録画に失敗しながらも、
ここまで見続けてきた。


今、
主人公の壱岐正はイランでの油田開発に取り組んでいるのだが、
想像以上に難航していて、
日本石油公社からの資金調達が断たれてしまう。

そこで遂に彼は企業倫理の一線を超える。

自らの信念で進めてきた事業を、
あくまで推進するか撤退するか。

正念場で壱岐は推進に賭けた。


成否の見通しのない事に挑戦する者はいずれも、
同様のジレンマに陥ることがあると思う。

この先成功の確証はなく、
さりとてこれまでの苦労を考えると、
どうしても引き下がれない。

そんな時頼れるものは、
結局自分の覚悟しかないのだろう。

駄目ならこの身さえ差し出す覚悟。

たとえ犯罪者になろうとも後悔しない信念。


人生にはそういう正念場が何回かある

地位や名誉や、
なかんずく金銭などに執着するのではなく、
保身に走らず、
ただ自分の信念を貫く人を、
法的に罰することはできても、
人間として一体だれが指弾できるだろう。

来週が最終回らしい。

エコだとかスローライフだとか、
昨今の生き方ブームとは真反対の、
誠に骨太な作品に仕上がっていると思う。

それが敬遠されているのかもしれない。
でも、
決して時代遅れの昔話とは思えない。

重い過去を背負った、
一人の男の生きざまは見事だ。

ラストのトム・ウェイツの歌唱が、
これまた秀逸なんだな。


●こんな時間になってしまったが、天気も良いそうなので、元町に行ってみようと思う。

2010年3月4日木曜日

愛機

パソコンのHDが重くなってきた。

前の時は、
不要なソフトをアンインストールしたり、
ファイルを整理したり、
ローカルディスクCとDの容量割り当てを変更したりして、
何とか急場をしのいだが、
今回はいよいよ限界のようだ。


ついに重い腰を上げ、
外付けHDの利用に踏み切る。

実のところ、
2年前にも一度外付けHDを買ったのだが、
その時はうっかり落として壊してしまった(泣)

今回新たに買ったHDの容量は、
何と1.5テラバイト。
ギガに直すと1500ギガ!

パソコン本体の15倍である。

母屋より、
離れの方が豪邸ということになる。


ぼくのパソコンで容量を食っているものは、
ソニックステージの音楽ファイルが一番で、
その次が写真だ。

というより、
それ以外にはほとんど意味のあるものは、
このパソコンにはない。


ヨドバシで買ってきたHDを接続して、
ネットで調べながらの作業だったが、
思いのほか簡単にファイルの引っ越しに成功した。

ローカルディスクの使用領域を示すバーは、
赤から青に戻った。


このパソコンを買ったのは3年ほど前。

ぼくは訳あってパソコン嫌いだったのだが、
その時はほとんど衝動買いをした。
未だに分からないことだらけだけど、
今ではこいつがない日常は想像しがたい。

この世界で3年前の機種といえば、
もう十分に時代遅れなのだろうが、
この愛機には、
まだまだ現役でいてもらう。

2010年3月3日水曜日

波及

チリの地震と津波騒ぎで思ったのは、
地球は丸いという当たり前のことと同時に、
世界の動きはまさにこの津波の如しで、
すべては波及し合うという、
これもまた当たり前の事実だった。


人工衛星から眺めた地球は、
太陽に照らされている場所が、
自転によって連続して変化する。

暗くなっていく場所は夜で、
明るくなっていく場所は夜明けだ。

このブログのタイトルは、
一般的な日本人が眠っている間という意味だけど、
まさにこの時間にも、
何十億人の人が研究や創作や戦闘や売買や、
ありとあらゆる行為をしていて、
秒単位で流行や発見や記録や、
ありとあらゆる事が塗り替えられている。


人は時間に区切りをつけようとする。
特に日本人は四季もあって、
時を区切る行事や言葉に事欠かない。

しかし世界はそんな人為的な区切りとは何の関係もなく、
ノンストップで動いていて、
それらはすべて連動し、
波及し合っている。

一人ひとりの行為は独立しているかもしれないけど、
地球全体を一つの生命体のように見た時、
ぼくという存在が、
チリの人の人生に何にも影響を与えていないと、
だれに言えるだろう。

すべての人は大なり小なり、
時空を超えて波及している。

もちろん突き詰めれば、
あらゆるものは時空を超えて波及している。

ぼくはだれに、
何に波及しているのだろう、、、

2010年3月2日火曜日

努力

五輪が終わるにあたって、
スケルトンの越選手がNHKの番組に出ていて、
「一番印象に残ったことは」と質問されて、

「正しい努力をしなければならないということ」

みたいな意味のことを言っていた。

45歳。

徒手空拳、
日本のスケルトン界をリードしてきた男の言葉は、
今のぼくにとって重い。


努力をすることは尊い。

だが見当違いの努力は、
良くて自己満足、
悪く言えば「無駄骨」だ。

必死で道をかきわけ登っていた山が、
目的の山とは全然違ったと知った時の徒労感が、
わかるだろうか?

しかもそれが山でさえなかったと気付いた時の絶望感が、
想像できるだろうか?


若ければ、
登りなおせばいい。

回り道をしたって努力し続けている限り、
目標の頂に到達することもできよう。

しかし年齢を重ねるということは、
つまり残り時間が減ってきているということであり、
間違った努力をしている暇はない。


越選手は現役を引退するそうだが、
彼を言うところの「正しい努力」の方法を、
後輩に伝授されんことを期待する。


●その越選手のHPを見てみたら、好きな言葉「適当」だって(力を抜くという意味だそうです)。

2010年3月1日月曜日

彷彿

スピードスケートの団体追い抜きを見て、
「ローラーゲーム」を思い出す人は、
なかなかの年代。

子どものころテレビで「日米対抗ローラーゲーム」という番組があって、
東京ボンバーズを声援したものだ。

1970年代前半、
もう40年近くも前の話。

最後尾の選手がカギを握る部分や、
後ろの選手が前の選手を押す場面が、
どことなく似ているのだ。

ぶつかりあいはないけれど、、、


それはともかく、
駅伝とかリレーとか、
この手の競技は日本人に向いている。

個々の弱点を戦略や技術で補えるからだ。

女子で日本は思わぬメダル。

おめでたいには違いないが、
俗に、
「嬉しい銅メダル、悔しい銀メダル」
と言われるように、
100分の2秒差で金メダルを逃した悔しさはいかばかりか。

これをバネに、
ぜひ日本のお家芸にして欲しい。


●それにしても「追い抜き」って、チーム内の選手同士のことを言うのか、はたまた、相手チームを追い抜くという意味なのか、そこんとこがよくわからない●EKIDENNと同様の国際語TUNAMIで大騒ぎ。避難する人の中で、やっぱりいたな、ここぞとばかりサーフィンする奴。

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...