映画の粗筋を読んでも、
その映画を「観た」とは誰も言わない。
バタフライの泳ぎ方を読んだだけで、
実際に泳げるなどと信じている人は、
きっと笑われるだろう。
そんな簡単な道理なのに、
人は新聞やテレビの報道を見聞きしただけで、
世の中の事象を分かったと錯覚する。
それらはすべて、
小説の粗筋と何ら変わらない。
小林秀雄は講演で、
「分かりやすく読んではいけない」と力説する。
論文も詩歌も、
読み方は同じだと。
読み込んで読み込んで、
その文章を書いた人の人となりが透けて見えるほどになって、
ようやく文章は分かるのだと。
でも実際の世の中の出来事を、
そんなに深く知ることは、
時間的にどだい無理なのであって、
だから人はテレビで外国の風景を眺めて、
その絶景をわが目で見たような気になって我慢する。
もちろん大概の事はそういうことで仕方がないのだけど、
やっぱり人生の中で何かひとつでいいから、
詩歌を味わうように知る世界を持っていたい。
それがぼくの場合は歌であるはずなのだけど、
登りたい山を富士山に設定している今は、
まだ一合目にすら達していないことに気づく。
残された人生の時間や、
自分の足腰の具合を鑑みるに、
目標を近所の甲山ぐらいに変更した方が、
身のためなのかもしれないなぁって思いもわいてくる。
あれも、
これも、
それも、
どれも。
何でもかんでもしたいと、
貪欲に願える季節は過ぎた。
人生の土台作りは終わり、
あとは今ある土台の上に作れる物を、
見極める時なのだ。
身の丈にあった物事を、
身の丈にあったやりかたで慈しむ生き方をしている人が、
一番かっこいいと思える、
そんな年頃。
ぼくという土台の上に、
東京タワーは建てられない。
いわんやスカイツリーをや。
●なんて言いながら、身の丈に合わぬ曲を選ぶのであった。
0 件のコメント:
コメントを投稿