ついに菅首相が「脱原発」を表明した。
彼が「居座り」と非難され続けても辞めないのは、
ひとえにこの「脱原発」の道筋をつけたいからであり、
当然の成り行きである。
そしてその方向性にはぼくも賛成するのだけど、
ただ問題なのは、
「脱原発」という言葉が極めて曖昧で、
「今すぐ全部停止」から「数十年かけて段階的に」まで、
思想的に「右」から「左」までを、
全部ひっくるめてしまっているからややこしい。
今後の問題は、
辞任後もその方向が変わらないような、
仕組みを作ることだと思うが、
これはなかなか一筋縄ではいかないと思う。
つまり総論賛成、
各論反対状態に必ず陥ると危惧するのである。
そういう意味で、
先日新聞で見た「卒原発」という造語は、
一番ぼくの心情に近い。
原発のようなハイリスクハイリターンな電力ではなく、
ローリスクハイリターンな、
より高次元の社会を、
ぼくらは目指さなければならない。
朝日新聞が13日の朝刊で、
20年ぐらいをメドとしていたが、
ぼくの感じではちょっと短いかな。
完全に「卒原発」するには、
たぶん30年~50年ぐらいはかかると思う。
ここで話は全く個人的なことになるのだが、
「卒業」という言葉を、
ぼくは最初の妻との離婚の時に使った。
「二人は嫌いになったのではなく結婚という学校を卒業するのだ」
当時幼かった姪に、
ぼくはこう説明した。
もちろんその時は、
本気でそういう風に思っていたのだが、
「卒業」という単語の、
どことなく柔らかで一抹の寂しさを伴った感じに、
一人(二人?)酔っていたのかもしれない。
もう10年以上も前の話だが、
今さらながら、
あの離婚は「卒業」なんかではなかったと思う。
卒業どころか、
入学以前の「ままごと」だったのだ。
ここで話はまた飛躍するけど、
ぼくは長らく結婚というものは、
欠陥を抱えた者同士が、
互いにくっつくことで相互補完するものだと思っていた。
でも最近はそれは間違いであると気づいた。
一人の人間としてまず自立していること、
それが結婚をする者の条件なのだ。
ここでいう「自立」というのは、
経済的な意味ではなく人間性として。
人間性に欠けたところのある者同士はくっつきたがる。
だが、
その吸着力は相手から自分の欠けたところを奪おうとする、
所有欲求であり、
それは「愛」ではない。
「愛」などと書いて少し照れるけれど。
そんな簒奪的な愛は、
時間とともに冷め、
やがて単なる相手の支配欲求へと変質する。
ぼく自身がそうだった。
本当の「愛」っていうのは、
それぞれが人間的に自立した「球体」が持つ引力で、
自然に惹かれあう状態を指すように思う。
人間的に自立した状態がどういう状態なのか、
それはぼく自身が模索中なのだから、
うまくは言えないのだけど、
穏やかで、
慎み深く、
他人を尊重し、
身の程をわきまえる、
といった感じだろうか?
「脱原発」から、
とんでもないところに話が来てしまったが、
要は、
ぼくには結婚する資格などかつて一度もなかったし、
それは現在進行形であるということだ。
●さぁなでしこ準決勝キックオフまであと1時間ほど。少し休憩しよう。
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