許しがたい暴挙だ。
昭和44年放送開始の、
この国宝的時代劇を、
打ち切るなんて許せない。
かなりなショックである。
視聴率が低いというのが理由だそうだ。
21世紀に時代劇が受けない。
何となく納得しそうなところであるが、
おっとどっこい、
それは大変な勘違いだと思う。
製作者は、
自分たちの犯している愚を、
時代のせいにしている。
そこまで思うのは、
ぼくは最近結構「水戸黄門」を見ているからである。
つまりこういうことだ。
今放送している43部、
つまらないのである。
「水戸黄門」というブランドを、
みすみす台無しにしているのである。
製作者は一生懸命、
知恵を絞ってシナリオやキャストや演出を工夫している。
だけど、
それこそが余計な努力なのだ。
「水戸黄門」のよさは、
ストーリーは単純な勧善懲悪、
終盤に大立ち回りがあって、
「ひかえおろー」と印籠出して、
その場の皆が「ははぁ~」となる、
その偉大なるワンパターンがいいのである。
つまり「サザエさん」。
だれも磯野家にパソコンや携帯電話を期待していない。
そういうことなのだ。
具体的に指摘すると、
最近の作品はストーリーを複雑にしたが為に、
説明的で大詰めまでの時間が長く、
その結果、
立ち回りがおざなりになっている。
とても大立ち回りとは呼べない。
早い話が、
ストーリーなんてどーでもいいから、
立ち回りを5分ぐらいやって、
それから印籠であるべきなのだ。
だからこそ、
子どもからお年寄りまでが、
前半風呂に入って立って大丈夫な、
そんな安心感があったのである。
もっと具体的に指摘すると、
今週月曜日の回では、
池上希実子扮する大工の妻が、
黄門様ご一行の世話をするのだが、
最後まで黄門の正体に気付かないまま、
物語がお終いだったのである。
そりゃもう、
根本的に駄目でしょ。
惜しい。
作り手が努力しているのがわかるだけに、
余計に惜しい。
そもそも、
確かに「男はつらいよ」で、
渥美清以外の寅さんが考えられないように、
初代黄門だった東野英二郎が死んだ時点で、
終わるべきだったのだという、
蒸し返し論もあろう。
そこは一理あるけれど、
もう5代目まで来ているのだ。
ここで辞めてはいけない。
それは紅白歌合戦を辞めようなもの。
もっと言えば、
祇園祭を辞めますといっているのに等しい。
日本文化の破壊だ。
保護に値する文化なのだ。
●「辞めない」と言っていたはずの九電社長が一転、辞めるそうだ。こういうのは、さっさと辞めてよろしい。許可します。
●「辞めない」と言っていたはずの九電社長が一転、辞めるそうだ。こういうのは、さっさと辞めてよろしい。許可します。
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