2011年7月21日木曜日

少数

原発問題について考えるよすがにと、
「福島原発メルトダウン」(広瀬隆著、朝日新書)、
「原発のウソ」(小出裕昭著、扶桑社新書)を読んでみた。

著者はいずれも、
筋金入りの「反原発」論者だ。

昔っから、
言っていることは変わらない。

ただただ、
彼らの言っていた事は本当だったのだという思いが募る。

民主主義の要諦は、
少数意見を尊重することであり、
それは多数派といえども間違えるからである。

このブログで何度も繰り返してきた。

反体制的な人の言説は、
時に過激になりやすく、
よって温厚な多数派からは、
胡散臭い人らと敬遠されがちだ。

それに、
反体制的意見は、
体制側による大量の情報によってかき消される。

これまで原発反対を唱えてきた人たちは、
第二次世界大戦中に反戦を唱えてきた人と同じだ。

それでも、
こうした本が出版される世の中になっただけ、
まだマシだとも言える。

そして今読んでいるのが、
「原発社会からの離脱」(宮台真司×飯田哲也著、講談社現代新書)だ。

この本の前書きのタイトルがグッド。

「原発をどうするか」から「原発をやめられない社会をどうするか」へ。

宮台氏らしい表現だと思うけど、
その通りだ。

原発はクリーンでもなく、
その生み出す電気は安くもなく、
何よりも、
原発や放射性廃棄物がどれほど危険か。

そういうことをぼくらは少し知った。

にもかかわらず、
「じゃ原発を無くしていこう」という当たり前の方向に、
なぜならないのか。

「日本人病」ともいえるこの現象を、
ぼくたちは克服しなきゃならない。

ここからはぼくの妄想なのであるが、
先の戦争で日本に勝った米軍は、
日本を占領してみて、
そこに住む民のあまりの従順さに、
心底驚いたに違いない。

そして悟ったことだろう。

「これなら十分飼いならせる」と。

実際のところ、
ぼくは戦後の日本は独立国家のフリはしていても、
実態はアメリカの51番目の州ではなかろうかと思っている。

と、
こんな風にちょっと書いただけで、
「過激だ」と思う人もいるかもしれない。

民主主義は時に衆愚的になると言われる。

確かにそういう面はあるだろう。

でも、
事実をありのままに知って下した決断が衆愚的であるならば、
その結果を受け入れようもあるけれど、
事実を隠され捻じ曲げられ、
墨塗りばかりだということにも気付かず、
「自分が下した」と思っている判断は、
果たして本当に「自分で下した判断」と言えるのだろうか?

あれほど無能呼ばわりされている菅首相が、
それでも国民の1割以上から支持されているのは、
一体なぜなのか。

今こそ、
少数意見に耳をすませる時である。

●YOMIURIONLINEが「東電OL事件、再審の可能性」と報じている。

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