2013年10月7日月曜日

数式

先日、
「神の数式」とかいうNHKスペシャルを見た。

物理学者の最新の研究を、
一般向けに紹介しようという意欲作だったけど、
やっぱり難しかった。

それでもまぁ、
彼らがこの100年、
宇宙のあらゆる現象を表す数式を求めて格闘してきた、
ということはわかった。

わかったうちに入んないけど。

で、
思ったのが昨日からの「ら抜き言葉」

文法に反しているわけね。

でも文法って、
そもそも何なのよ?

エスペラントみたいな人工言語ならともかく、
いわゆる自然言語における文法っていうのは、
言語という現象の一種の解釈なわけね。

分析してみたところ、
こういう合理的説明がつきます、
みたいな。

つまり、
一般に話されたり書かれたりしている言葉が先であって、
文法は後。

何が言いたいかというと、
実際に使われている言葉と文法が違うなら、
それは文法の方を見直すべきであって、
文法と違うからその言い方はおかしい、
というのは、
本末転倒なわけ。

もちろん、
明らかな間違いは間違いだけど。

でも言語は生き物だから、
例えば今回の見ることが可能という意味で、
「見れる」という言い方をするのは、
日常生活ではもはや自然なわけで、
そこまで来ているなら、
もはや文法と違うというのは、
あんまり意味がない。

むしろ文法的に正しい「見られる」という言い方は、
受動的な意味にも誤解される場合があり、
可能の意味で使うなら「見れる」の方が、
合理的という考え方だってありそうだ。

あくまで私論ですが。

ブログを振り返ってみれば、
たとえば全然オッケーとか、
何度も使っているような気もする。

もちろん、
熱心に読んでくれて、
色々指摘してくれるのは大歓迎。

だからこうして、
考えることもできる。

話しは変るけど、
シライすごすぎ。

2020東京五輪のころには、
5回転ぐらいするんだろうか?

J難度とか?

100メートルを9秒3ぐらいで走る人がいたりとか?

マラソンが1時間台に入ってるとか?

数式で全宇宙が解明される日がくるとしても、
人間の可能性は、
やっぱり無限だ。

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