先日、
「神の数式」とかいうNHKスペシャルを見た。
物理学者の最新の研究を、
一般向けに紹介しようという意欲作だったけど、
やっぱり難しかった。
それでもまぁ、
彼らがこの100年、
宇宙のあらゆる現象を表す数式を求めて格闘してきた、
ということはわかった。
わかったうちに入んないけど。
で、
思ったのが昨日からの「ら抜き言葉」
文法に反しているわけね。
でも文法って、
そもそも何なのよ?
エスペラントみたいな人工言語ならともかく、
いわゆる自然言語における文法っていうのは、
言語という現象の一種の解釈なわけね。
分析してみたところ、
こういう合理的説明がつきます、
みたいな。
つまり、
一般に話されたり書かれたりしている言葉が先であって、
文法は後。
何が言いたいかというと、
実際に使われている言葉と文法が違うなら、
それは文法の方を見直すべきであって、
文法と違うからその言い方はおかしい、
というのは、
本末転倒なわけ。
もちろん、
明らかな間違いは間違いだけど。
でも言語は生き物だから、
例えば今回の見ることが可能という意味で、
「見れる」という言い方をするのは、
日常生活ではもはや自然なわけで、
そこまで来ているなら、
もはや文法と違うというのは、
あんまり意味がない。
むしろ文法的に正しい「見られる」という言い方は、
受動的な意味にも誤解される場合があり、
可能の意味で使うなら「見れる」の方が、
合理的という考え方だってありそうだ。
あくまで私論ですが。
ブログを振り返ってみれば、
たとえば全然オッケーとか、
何度も使っているような気もする。
もちろん、
熱心に読んでくれて、
色々指摘してくれるのは大歓迎。
だからこうして、
考えることもできる。
話しは変るけど、
シライすごすぎ。
2020東京五輪のころには、
5回転ぐらいするんだろうか?
J難度とか?
100メートルを9秒3ぐらいで走る人がいたりとか?
マラソンが1時間台に入ってるとか?
数式で全宇宙が解明される日がくるとしても、
人間の可能性は、
やっぱり無限だ。