2008年12月31日水曜日

広告

このままじゃあ、
新聞社より、
テレビ局が先に危ないと、
最近よく思う。

もちろん民放。

だって、
ぼくは番組自体見ないし、
たまに見るとしたって、
録画だから、
CMはスキップ。

これでは、
誰が高い金を払ってCMを打つだろう?

えっ
そりゃお前だけだって?

そりゃ失礼しました。




でも民放のCMは番組の「お荷物」だけど、
新聞広告って、
それ自体が面白い。

例えば、
30日付けの産経新聞に、
「エンカのチカラ」というコンピCDの広告が出ていた。

「音楽史上初、演歌歌手によるJ-POPカバーアルバム」

70年代ものと、
80&90年代ものの2枚で、
選曲が魅力的だ。

五木ひろし「TUNAMI」
前川清「HOWEVER」
都はるみ「聖母たちのララバイ」
ちあきなおみ「氷の世界」
島倉千代子「神田川」
石川さゆり「ペッパー警部」
新沼謙治「季節の中で」
八代亜紀「いとしのエリー」。。。

なかなかやるじゃないか、
コロンビアレコード。
どれも聞いてみたいよ。

おまけに宣伝文句に笑った。

「演歌歌手ならではの正確なピッチ、唸るコブシ。これぞ究極のE-POP!」

演歌ポップ=E-POPだって!

コレ欲しい。


●仕事の合間にレコ大を見た。ジェロと大西順子、谷村奈南。。。みな、テレビお目にかかるのは初めて。谷村さん、意外にしっかり歌うので驚いた。あとエグザイルの「亀田」さん、上手いですね●このブログは一日ずれているから、本年はこれにて終了。来年もよろしくお願いします。

2008年12月30日火曜日

感覚

陸上の朝原宣治選手がつけてきた、
練習ノートが面白い。

例えば、
「骨盤をスライドさせて真ん中を押しだす」
とか、
「スタートの前はベルトコンベアーに乗ってる感じ」
みたいな(正確じゃないけど)、
感覚的なことばかりが延々綴られる。

何となく分かるようで分からないような、
摩訶不思議な世界。
ぼくは僭越ながら、
そうして書きとめておきたい気持ちは分かる。
発声について、
ぼくも同じようにメモすることがある。



ある時、
「これだ」と得心した感覚を、
忘れないよう願って文字にする。
これでいつでも「アノ」感覚が再現できると願って。

だが、
ぼくの場合は、
後日読み返してみても、
うまく行ったためしがない。



どだい、
身体感覚を文字に置き換えるということが、
無理な話であって、
もし、
正確に表現できるなら、
その人は、
天才小説家だ。

歌やスポーツはマニュアル化、
つまり文章化できない。
だから奥深い。

きっと朝原選手も、
昔のメモを読み返したら、
首をひねるか、
笑っちゃうか、
そのどっちかだろう。



「形より感覚」

専属のコーチを持たなかった彼の20年は、
絶え間ない自分との問答であって、
その繰り返しが、
北京五輪の4×100メートル銅に結実したのだ。



●トップランナーの恐らく再放送を、仕事中にボーっと見ていたら、思わず引き込まれた。

2008年12月29日月曜日

北京五輪の開会式を演出した、
チャン・イーモウ監督に、
俳優の香川照之がインタビューした番組を、
NHKで、
時間がかぶった「情熱大陸」を録画で見た。



チャン監督は、
文化大革命の下方政策で青年期の10年間を、
地方で暮らした。

その後、
映画学校に入学し、
世界的映画監督になるのだが、
その「失われた」10年があったからこそ、
今の情熱があるのだというようなことを言っていた。



そして、
情熱大陸は、
例の竜王戦の密着ドキュメント。

3連勝の後、
4連敗を喫した羽生にインタビューしていて、
そこで羽生は、
「将棋にミスはつきものか」と問われる。

羽生は「そーですねぇ」といつもの調子で少し考え
次のように言った。

将棋には「最善」が分からない局面というものがある。
その時が大事だと。



どちらの番組も、
同じことを示唆している。

人生、
目標がはっきりしている時などほとんどない。
目標があれば、
それだけで既に幸せだ。
だってあとは努力するだけだもの。

だから肝心なのは、
目標が見つからない時だ。

何を目指したらいいか分からない時に、
どれだけ考え、
思いを募らせ、
もだえ苦しむかなんだなぁ。



きっとその時間、
人は心の根を深く張る。



●コーナーポケットで久々にゆったり時間を過ごし、三宮へ。前から一度聞きたかった矢野直道さんのライブは、素敵なショーでした。その後、武庫之荘mクアトロのセッションで1曲だけ歌った。情けない歌になってしまった。反省。

2008年12月28日日曜日

一手

将棋の渡辺明竜王の奥様は、
ご自身のブログをお持ちだ。

それだけでも珍しいと思うのだが、
「妻の小言。」というそのブログが滅法面白い。

旦那様は天下の竜王なのに、
世間体も何もあったもんじゃなく、
息子さんと3人の日々が、
ユーモラスに綴られている。



その中でも出色だったのは、
先の竜王戦で羽生名人に3連敗、
もう、
「崖っぷち」という時のものだ。














「渡辺くん、あきらめたらそこで試合終了だよ」


果たして「姉さん女房」の声は届いた。
ここから渡辺竜王は奇跡の逆転4連勝。
初代の永世竜王になってしまった。



竜王の偉業も凄いが、
このブログ、
ある意味、
将棋史を変えた起死回生の「一手」だった。



●全日本フィギュアフリーの録画に失敗。見逃した。あわわ。。。

2008年12月27日土曜日

三様

全日本フィギュアの女子SPを見た。

安藤美姫、
素晴らしい演技だったと思う。
彼女、
たまぁに、
こういうコトをしちゃうから、
愛想づかしできない。

情感たっぷりの滑り。
音楽ともとっても合っていた。

いつもは、
軽四で150㌔ぐらい出してる、
「無理っぽさ」
「痛々しさ」を感じるんだけど。
本当に彼女は猫の目のように気まぐれだ。
3位ではあったけど、
「感動的」という意味ではダントツの1位だった。




中野友加里、
本人もよもやの1位だろう。

神から授かったような才能がなくても、
コツコツ努力すれば世界とだって渡り合える。
彼女には、
そういう事を教えられる。
若手にとっては一番手本になる人じゃないかな?

何より、
フィギュアが好きなんだなぁと感じさせてくれる。



天才アサダマオー。
本人が何と言おうと、
絶対に60%ぐらいしか力出してない。
意識では全開のつもりでも、
体が勝手にセーブモードになっていた。

寝起きみたいな。

お嬢様は、
フリーのころにお目ざめだろう。



この3人は、
先日のGPファイナルにも出ていたわけで、
つまり、
全日本といいながら、
実質世界レベルの大会ということになる。
いかに今の日本フィギュアのレベルが高いかということだ。

他の選手にとって、
ここでの表彰台は、
限りなく遠い。



●何だかんだ、今のフィギュアは面白い。村主は見逃した●「奇跡のシンフォニー」をDVDで。確かにご都合主義なストーリーで白ける人もいるだろうけど、ぼくは素直に感動できた。

2008年12月26日金曜日

魅力

読売新聞の水曜夕刊に、
「PopStyle」という人物紹介企画があって、
保守的な新聞にしては珍しく、
かなり高感度な人選をしている。

にしても、
谷村奈南という歌手を、
ぼくはその時、
つまり昨日新聞を開くまで「全く」知らず、
かなりショックを受けた。

「大袈裟な」
と言われるかもしれないけど、
本当に目まいがしそうだった。



これがもっとマニアックな、
たとえばフィギュアやアニメの世界の人だったら、
「へぇそんな人がいるんだね」で済むのだが、
歌手で、
しかも公式HPによると、
2008年8月にリリースした4thシングル「If I’m not the one/SEXY SENORITA」はオリコンチャート初登場8位を記録。夏のメディアも大いに盛り上げた。

となっているから、
結構有名な人なのだった。
1987年生まれだそうだ。
娘でもおかしくない。。。



それはともかく、
このケースはPerfumeと同じか?
いやいや、
Perfumeの時は、
あれほど人気があることに驚いたのであって、
存在は一応知っていた。
何回も書くけど、
ジェロだって、
歌は聞いたことがないけど、
顔やしゃべっているのは見たことがある。

ところが谷村奈南は、
存在そのものを知らなかった!
これでは、
松田聖子を知らない高校生に呆れている場合ではない。



で、
Youtubeで見てみた。
印象は、
一応歌と踊りができる、
スタイルがよい松島奈々子という感じ。

曲自体はPerfumeよりは理解できたけど、
本人の魅力は今のぼくにはよく分からない?
会社の若い子は、
「どこにでもいるような子が今はいいんですよぉ」
と言うが、
本当だろうか。

どこにでもいそうで、
実はいない子なのか、
どこにでもいそうで、
本当にどこにでもいて、
たまたま運がよかっただけなのか、
そのあたりが見切れない。

彼女のファンは若者であっても、
取り巻く世界はぼくと変わらぬ大人のはず。
その大人の彼らは彼女が「売れる」と思ったはずで、
だから、
単純に世代間の感性の差と、
割り切れない。



疑い深い中年は、
今夜もなかなか納得しない。。。



●「もみじマーク」の義務化をやめ、デザインの変更も検討しているという。「枯れ葉マーク」と、高齢者に不評らしい。こんなことでいちいち文句言うこと自体が高齢者らしくない。高齢であることにむしろ誇りをもって、堂々と「もみじマーク」をつければいいのに。

2008年12月25日木曜日

継続

世界の経済が偉いことになっていて、
大量解雇が相次ぎ、
あのトヨタでさえ赤字だなんて聞くと、
一体全体この先,
世の中どうなっちゃうのと思う気持ちは分からないでもない。

日本のバブル崩壊という「大失敗」失敗を目の当たりにしていながら、
サブプライムローンというイカサマ商品にコロリとやられた、
アメリカという国には本当にガッカリしたし、
その裏で大儲けしているはずの奴らを思うと、
癪に触る。

株価も随分下がって、
辛い思いをしている人もいるだろう。
バブルのころと比べて、
今の株価は見る影もない。

でも、
株価ってやつは、
細かい期間で見れば乱高下しながらも、
数十年のスパンで見れば、
平均株価は間違いなく右肩上がりしているという。



どの尺度でものを見るか。
これ、
結構大事なことで、
例えばもう一例挙げてみよう。



地球の温暖化が叫ばれていて、
数十年単位で見れば確かにそういうことみたいだ。
氷山がボロボロ崩壊する映像など見せられる、
便利な暮らしのツケがついにやってきたのだ、
人類の自業自得だなどと言われても、
そうだよなぁと納得しそうになる。
でも、
牛のゲップのメタンガスも温暖化の原因だとまで言われると、
ちょっとヒステリックに過ぎるんじゃないかと思う。

もっと、
ずっと、
長いスパンで見たとき、
地球は今、
確実に氷河期に向かっているのである。

そういう大きな傾向の前では、
温暖化など、
とるに足らない一時的現象ということもできる。



こんなことを並べたてているのは、
ぼくは、
努力と結果というものも、
同じようなものだと言いたいからだ。

何かを続けていると、
好不調の波があるのは当たり前で、
日によって、
もっと細かく言えば午前と午後だって調子は違うだろう。
場合によっては、
「振り出しかよ」と思うときもあるだろう。

でも、
ちゃんと努力している限り、
緩やかであっても、
全体としてスキルは右肩上がりになってるはずだ。
大袈裟に言えば、
それは歴史が証明している。

問題は、
上がったり下がったりの調子の波を、
どれだけ上手に乗り切るかだ。
忍耐強く、
時にしなやかに、
波と付き合わなければならない。

確かに「石の上にも三年」なのである。



何はともあれ、
三年は文句を言わず、
淡々と努力してみよう。

上を見ず、
下も見ず、
ただ目の前の明日だけを見て、
毎日毎日、
歩みを進めるのみである。


●飯島愛が死んだ。ファンじゃないけど、彼女の人生を思うと、あまりに悲しい。

2008年12月24日水曜日

極意

去年の今頃、
あれほど自信満々に、
打撃の極意をつかんだかのごとく話していたイチローが、
一年後の今、
何を語るのか。

22日BS「MLB群像」の録画を楽しみに見た。

つかんだと思っていたものが、
実は違ったと、
素直に認めていた。

イチローほどの人でも、
そんなことがあるのかという思い。
と同時に、
やっぱり打撃に極意なんかないんだと、
その方が面白いよなと、
納得した。




生身の人間と対峙するスポーツや芸術において、
「絶対」の極意など、
あるとしたら逆につまらないではないか。

仮に打撃の極意があるとして、
それをイチローが本当につかんだなら、
そりゃ沢山ヒットを打って、
素晴らしい成績を残すだろう。

でも、
それはもはや彼にとって「当然」のことであって、
見ているこっちはドキドキもワクワクもしない。
イチロー自身だって、
そうなったら野球がつまんないだろう。

この辺は、
将棋の「解」を出すコンピューターの話と通じる。
「絶対」がないことこそ、
人間の魅力だ。




恐らく、
実際にあるのは、
極意そのものではなく、
理想を正しく設定する、
その設定力ではないか。

そして、
理想に対して正しい方を向く力。
これだって大変な能力で、
凡人が凡人である所以は、
何事においても、
間違った理想を追い求める点だと思う。

常に北を指す、
正しい方位磁石みたいなものを、
イチローはもっているから、
スランプという「闇」に落ち込むこともないし、
やっぱり「天才」なんだなと、
あらためて納得した。



北に何が待っているかはわからなくても、
北に歩き続けられるということは、
それだけでとてつもなくすごい。



●それにしても、イチローって、何でも格好つけたがるし、実際格好いいんだけど、それプラス何か笑えるんだよなぁ。いわゆる「ミスター長嶋」的●本年最後の「じゃず家」セッション。プロのジャズ歌手・ハービー・トンプソン氏が、何故がよくわからないが来ていて、歌が聞けた上に、ぼくの歌を直接ほめてくれた!最高のクリスマスプレゼントだった●作ったハンコを、セッション仲間のKちゃんの楽譜に無理やり押させてもらった。トンプソンさんにも、ぼくの楽譜に押して、メアドとともにお渡しした。来年は押しまくるゾ。

2008年12月23日火曜日

漫才

NON STYLEという二人組を見るのも初めてなら、
M-1をまともに見るのも初めて。
「まとも」といっても、
録画を飛ばしまくって、
ほとんど漫才の部分だけを見た。

結果を知っているので、
偉そうには言えないのだが、
確かに彼らのが一番面白かった。

何といっても、
予選(?)と決勝(?)の2度とも、
テンションを落とさずに笑わせてくれた。
決勝の他の2組は、
予選はかなり笑えたけど、
2度目はちょっと「飽きた」。
客は贅沢なものだ。




NON STYLEのネタは、
たぶん、
一歩間違えれば、
というかリズムが狂えば全然笑えない台本ではないか。
少なくとも内容は斬新ではないように感じた。
あのリズム、
あのスピードだからこそ生きる台本であり、
凄い緊張の中でやり遂げたのだから、
お見事というしかない。

二人は大阪出身で、
路上ライブなんかもやっていたらしい。
どうやら最前席のあたりに、
追っかけのファンがいたようで、
もし路上のころから知っているなら、
本人たちと同じぐらい嬉しかっただろう。




視聴率が35%だったという。
その多くがぼくと同じように、
彼らのことは知らなかっただろうし、
そういう人を笑わせてしまうのは、
路上経験の賜物だろう。

ぼくは歌に関しては、
路上ライブを見るのもやるのも経験があるけど、
一瞬止めてくれた足を固定させるのは難しい。
あの畳みこむような勢いはよかった。




M-1があの形で続く限り、
勢いとリズムがあるコンビが今後も優勝するだろう。
じっくり笑わせる芸には明らかに不利だ。

もっとも、
漫才を「審査」するというのはいかにも不粋だ。
しかも、
普段笑わす側の島田紳介や松本人志が、
仏頂面で見ているシーンは違和感があった。

紳竜やダウンタウンも、
一度出てみたらいいのに。




あ、
竜はもう、
この世にいなかった。



●あすは本年最後のじゃず家だ。XmasSongを歌いたいのだが、歌詞が覚えられない。。。●PC用スピーカー新調。BOSEだぜ。

2008年12月22日月曜日

大は象から小はネズミまで、
哺乳類の寿命は様々だけど、
トータルの心拍数は一定しているという。

諸説あるようだが、
だいたい20億回というところらしい。
従って、
心拍の早いネズミの寿命は短く2~3年。
遅い象は80年~100年生きるのだそうだ。




この理屈は人間にも当てはまるとのこと。
とすれば、
何とかして鼓動を減らせば長生きできると、
だれでも考えるだろう。

心臓の筋肉は不随意筋だから、
「持ち主」の思い通りにはならないはずだけど、
確かヨガの行者は、
コントロールできると、
何かで読んだことがある。

自分で制御できないにしても、
できるだけストレスを避けて、
心穏やかに過ごすのは、
精神衛生上もよろしいだろう。




あるいは、
心臓だけに限って考えれば、
将来iPS細胞技術が進んで、
自分の心臓をそっくり複製しちゃう人も出てくるだろう。
古くなったらハイ交換。

いや心臓に限らず、
ありとあらゆる体のパーツのスペアを用意しておいて、
定期的に交換するような時代がくると思う。




「聖の青春」(大崎善生著、講談社文庫)を読んだ。
村山聖(さとし)という棋士の一生を描いたノンフィクションで、
ずっと読みたいと思っていた。

「一生」といってもそれはわずか29年間。
彼は重い腎臓病を抱えながら、
羽生らとともに将棋会最高峰のA級に駆け上がり、
名人にあと一歩まで迫りながら壮絶な生涯を閉じた。

2日で一気に読み、
震えるほど感動した。




彼にもし、
スペアの腎臓があったらなど、
考えるのは不謹慎だと思うが、
彼は交換を望んだだろうか?

恐らく望んだだろう。
だが、
そうしていればきっと、
彼の凄まじい生き様は、
描かれることはなかったに違いない。




一回きりの、
一方通行の、
時代も場所も選べない道だからこそ、
描ける人生もある。

傲慢だけど、
そう思う。

2008年12月21日日曜日

演技

高倉健や吉永小百合を、
ぼくはこれまで、
あまり役者として重要視してこなかった。

「よい(上手い)役者」というのは、
役に成りきった芝居をする人であると、
ずっと思っていたからだ。

滅茶苦茶大ざっぱに言うと、
「舞台系」の人は上手くて、
「映画(テレビ)系」の人は大したことがない、
みたいな。

大変な男っぷりや美貌で、
確かに「大スター」ではあるけど、
吉永小百合が演じると、
どんな悪女でも汚れ役でも、
「吉永小百合」が透けて見えすぎて、
役になりきってないな、
なんて生意気にも思っていた。
高倉健についてもしかり。




そういう意味では、
中井貴一も吉永~高倉ラインの人で、
ぼくの中では「演技は上手くない人」だった。

でも、
「風のガーデン」を見て、
まず中井貴一を見直し、
さらに「演ずる」ということへの認識までが変わった。

役が憑依したかのごとき芝居も確かに凄いとは思うのだが、
「演ずる」ことの本質は、
すなわち役の本質をとらえることだと思い至った。




あたかも役が憑依したかのごとき演技であっても、
それはあくまで役の表面的なもので、
それだけでは、
結局「真似が上手い」ということにしかならない。
つまり「達者」の閾を出ないのではないか。

逆に、
役の本質をつかんでいたからこそ、
いつも変わらぬ七三分けの中井貴一が、
末期のすい臓がんであるプレイボーイの麻酔科医という、
役そのものに見えたのではないか。。。




何となく思い返しただけでも、
吉永小百合にしても高倉健にしても中井貴一にしても、
演じてきた役の幅はかなり広いように思う。
案外、
「上手い」と世評の役者は、
その人の「はまり役」ばっかり演じているだけかもしれない。

そう考えると、
宮崎あおいは篤姫を演じ切ったと言えるように思った。



●と、自分のものの見方の浅はかさに気付かされました。仲間由紀恵は何やっても「ごくせん」なんて言っちゃ失礼なのかも。

2008年12月20日土曜日

感性

年々、
流行歌事情に疎くなって、
その年大ヒットしたはずなのに、
紅白歌合戦で初めて見る(聞く)歌手が増える一方だ。

青山テルマや、
ジェロでさえ、
名前と顔はわかるけど、
歌っているのは知らない。

今やCDの売上枚数より、
ダウンロード数のほうがはるかに多い時代。
ぼくの知らない別世界で、
ヒット曲がどんどん生まれているのだから、
それも致し方あるまいと、
ほとんどあきらめ気味だ。



そんなぼくが唯一、
最近のポップ事情を知ることができるのが、
カラオケボックスだ。

DAMチャンネルを見ていると、
いろんな若い人が出ていて、
少しは参考になる。




Perfumeという女の子3人組を知ったのも、
最近のことだ。
機械処理された声と、
人形のような振り付け。
フィギュアブームとか、
その辺を狙っているのだろうが、
正直、
星のように生まれ消える新人のひと組としか思ってなかった。

それが実は今や大変な人気だと知って驚き、
紅白に出ると知って仰天し、
今日、
BSで武道館コンサートをやっていて、
目まいを起こしてひっくり返りそうになった。




認識不足も極まれりだなと、
反省しながら少し見たのだけど、
バックバンドなし、
相変わらずのエフェクトされた声、
決して巧いとは思えぬ踊り。。。

わからん!
どーしてこの3人組がそんなにいいの?

ぼくは、
デビュー当時のサザンを認めなかった親父のように、
彼女らを否定したくはない。
でも、
本当に分からない。
彼女らのどこが魅力的なのか。
かけらさえも。

武道館を一杯にして、
観衆を沸かせるエネルギーがどこにあるのか。
曲がいいの?
ルックス?
センス?




若者に迎合したいのではなく、
わからんものを、
わからんで済ませたくない。

こんな風にわからんものが、
どんどん自分の周りに増えていくとすれば、
ちょっと息苦しいではないか。

いやひょっとすると、
もうすでにそういうもので、
ぼくの周囲は埋め尽くされているのかもしれない。

ちなみに、
公式サイトによる彼女らの経歴は以下の通り。

意外に芸歴は古い。

1999年 アクターズスクール入校
2000年 Perfume結成
2002年 広島限定で「OMAJINAI☆ペロリ」、「彼氏募集中」リリース
2003年から活動拠点を東京に移し、サウンドプロデューサーにcapsuleの中田ヤスタカ氏を迎えて、インディーズより「スウィートドーナッツ」、「モノクロームエフェクト」「ビタミンドロップ」をリリース。2004年にワンマンライブを3回、イベントも精力的に行う。
2005年9月21日 メジャー第1弾シングル「リニアモーターガール」リリース。
以降、「コンピューターシティ」(Sg)、「エレクトロ・ワールド」(Sg)、「Perfume ~Complete Best~」(AL)、「Fan Service [sweet]」(Sg)、「Fan Service [bitter]」(DVD)、をリリースし、2007年7月から「NHK 環境・リサイクルキャンペーン」のCMに出演が決定する。同CMソング「ポリリズム」を2007年9月にリリースし、オリコンウィークリーチャート7位を獲得。
2008年に入り、「Baby cruising Love」(Sg)をリリースし(オリコンウィークリーチャート3位獲得)、4月にリリースした「GAME」(AL)で自身初となるオリコンウィークリーチャート1位を獲得する。
その後、「love the world」(Sg)、「Perfume First Tour 『GAME』」(DVD)をリリースし、共にオリコンウィークリーチャート1位を獲得する。

2008年12月19日金曜日

合掌

長嶋茂雄は「水戸黄門」ファンで、
月曜8時になると、
自宅和室に一人で行き、
座布団の上に正座をして鑑賞する。

と聞いたことがある(もちろん今はそんなことないだろうけど)




「風のガーデン」が終った。
何回か見逃したこともあって、
決してよい鑑賞者ではなかったが、
このドラマを見るときは、
なにか居ずまいを正してしまった。
ソファにごろ寝では見れないような。。。

ガンですでにこの世にいない緒形拳演じる医師が、
末期ガンの息子を演じる中井貴一を看とるという、
何ともいえぬ切なさ。
そして、
黒木メイサの美しさ。。。




ちょうど去年のこの季節、
親父がガンで死んだ。

だから、
主人公が実家に帰ってから亡くなるまでの中井喜一の演技が、
本当にリアルに迫ってきたのだが、
不思議と、
悲しみがよみがえるというより、
スッとあの頃に引き戻される感じだった。

最後の入院から2週間。
親父は点滴だけになってどんどん痩せ、
麻薬のせいで意識がもうろうとしてるんだけど、
家族や親せきが毎日集まって、
時に笑い、
時に涙したその期間が、
どれほど大切なものであったか、
思い出させてくれた。


●竜王戦第7局も素晴らしかった。終盤、形勢逆転、逆転、また逆転。解説しているトップ棋士でさえ先がまったく読めない展開。BS中継の枠にも入りきらず、ネット中継もつながらず、結局深夜に渡辺明竜王が3連敗から4連勝という「奇跡」を知った。連続5期、これで初の永世竜王だ。後世まで語り継がれる名勝負だった。ど素人のぼくでさえこんなに感動させたのだから●それに引き換え映画「地球が静止する日」。近所のシネコンで観た。前日の「インディ」に続いてまたも宇宙人ものというだけでいささか食傷気味の上、内容があまりにもお粗末。ハリウッドの民主党支持者がオバマを宣伝するために作ったのに違いない。やたら「WE CAN CHANGE」ってセリフが出てくるし。

2008年12月18日木曜日

もう閉じてしまったけど、
ぼくは去年の10月からブログを書きはじめていて、
12月16日には、
こんなことを書いていた。

タイトルは「幸せの記憶」となっている。

僕が住むあたりは、
かつては社宅だらけだったけど、
バブル崩壊からこっちは次々に取り壊され、
マンションや一戸建てに変わっていった。

近所の一角にも最近、2階建ての家がまとまってできた。
一戸ずつ少しずつ違うけど、
意匠が同じのたたずまい。
小さな庭があって、
周囲に塀がなく、
開放感にあふれている。

その一角では今、
クリスマスイルミネーションの電飾が美しい。

新居で初めて迎えるクリスマス。
小学校に上がったかどうかというような年頃の男の子や女の子が見守る中、
まだ若くて頼りない庭の木に、
お父さんが付けたであろう青や赤の電飾が灯る。
光の数はまだ控えめだ。

ピョンピョン飛びはねている男の子がいる。
三輪車の目線から見上げる女の子。
隣近所の同じ歳ぐらいの母親同士が話している。


「これ以上幸せな光景があるだろうか」

そう思わせるのに十分な師走の夕暮れ。


その家には今年も同じようにイルミネーションが輝いている。
ぼくが一つ年をとったように、
その一家も全員1歳年齢を重ねた。
子どもは大きくなって、
いずれ巣立ち、
夫婦二人きりの時がやってくるかもしれない。

それでもぼくは、
来年も、
再来年も、
ずっとずっと、
あの家にイルミネーションが灯って欲しい。

ぼくはそれを見て人の幸せを思い、
ぼく自身の、
あの年の、
あの冬を思い出すだろう。


●ブログアドレス入りのはんこが出来上がった。一応シャチハタと張り込んだ。来年から、名刺代わりにポンポン押そうと思う●インディジョーンズ最新作をTUTAYAでレンタル。確かに素晴らしくよくできてたけど、ワクワク感がないのは何故?

2008年12月17日水曜日

撤退

ホンダのF1撤退に驚いたのもつかの間、
F1と並ぶモータースポーツのWRCから、
スズキとスバルが相次いで撤退を発表した。

もちろん昨今の世界不況が引き金なのだが、
どうにも車が売れないらしい。

ぼくは先日書いたように、
自家用車を手放した。
今の生活に車が必需品でないことが、
はっきりしたからだ。
日ごとにその決断が正しかったと実感している。
というより、
車がないことへの違和感が全くない。

きっと同じように感じている人が増えているのだと思う。



さて、
非マイカー人間になって思うのだが、
車の排気ガスは健康に悪い。
だからぼくの回りで車はできるだけ使わないでほしい。
あなたの撒き散らす排気ガスは、
ぼくのが肺がんになるリスクを著しく高めている。

特にレジャーで乗るの人は、
どこか田舎の人気のないところで楽しんでほしい。
五人乗りの自動車に一人で乗るなんて、
きっと路上喫煙よりマナーが悪い。
自家用車に関する税金はもっと上げるべきだ。。。




喫煙者批判への意趣返しのつもりで書いたが、
もちろん本気で思っている訳じゃない。
でも、
車や電車に乗ることも、
電気やガスを使うことも、
他人の健康や環境を害している。
そういうことだ。

その自覚があれば、
人はお互い、
もうすこし優しい気持ちになれると思う。




ぼくはF1が好きだし、
特にアイルトン・セナの時代は、
かなり好きだった。
彼が大クラッシュした瞬間は、
テレビ中継を見ていたし、
亡くなったとアナウンサーが涙声で報告したときは、
ぼくも涙ぐんだ。

車のある暮らしが便利で楽しいことも十分理解している。
地方では必需品であることも。
ぼく自身、
これまでに地球5周分ぐらいは運転してきた。
将来、
再び車を持つときがくるかもしれない。




ただ、
環境問題とか景気とかとは別の次元で、
車離れは進むだろう。
乗馬が交通手段ではなく、
趣味のひとつになったように。




●いよいよ竜王戦第7局が始まる。頑張れ渡辺。

2008年12月16日火曜日

「力本」ばやりだ。

Amazonの和書で「力」をキーワードに検索しただけで、
悩む力(姜尚中)
鈍感力(渡辺淳一)
察知力(中村俊一)
関心力(井上富紀子)
頑固力(岡田彰布)
決断力(羽生善治)
質問力(斎藤孝)
読書力(斎藤孝)
参謀力(童門冬二)
雑談力(武藤清栄)
指導力(山本七平)。。。。

3文字のタイトルだけでこれだもん。
キリがない。
生きるには、
実にいろんな「力」が必要だ。

でも、
ぼくがこうした本を書くとしたら、
タイトルは間違いなくコレだ。


「夢中力」


夢中になること。
年齢も
性別も
立場も
時間も
場所も
何もかも忘れて一心不乱に打ち込むこと。
これ以上に幸せなことはない。




昨日の話の続きにもなるけど、
夢中になるためには、
音楽でも何でも、
まず、
自分を好きになることが絶対必要だと思う。

誰よりも自分のファンであること。
自分を好きじゃない人は、
たぶん他人も好きになれない。
そして、
誰にも自分を好きになってもらうことはできない。




ぼくは子どものころから歌うのが好きで、
フォークギターや、
バンドや、
カラオケと、
年齢によって形は様々だけど、
好きだったから歌っていたし、
歌っている自分が好きだった。

でもある頃からそうではなくなった。
自分の歌が自分で心地よくなくなっていた。
それは誰かに強制されて歌ったからとか、
声が悪くなったからとかではなく、
たぶん、
自分の歌の下手さ加減に気づいたんだと思う。

上手い人の歌を聞くたびに、
何でぼくはあのように歌えないのだろうと、
そんな思いが積もり積もった。

そうなると聞いてくれる人の反応も悪くなった。
ぼくがぼくの歌を好きだった時は、
下手ではあったけど、
聞いてくれる人は好意的だった。
でも自分で自分の歌を好きじゃなくなると、
どれだけ歌っても、
人の心をつかむことができなくなった。
そういうことは、
本当に「手に取るように」わかった。

人前で歌うことが怖くなった。

そのまま諦めてしまうことだって出来た。
別にぼくはプロじゃない。
歌わなくても生きていける。



でも人生最大の挫折があって、
多くのものを失い、
その時ぼくの中に残っていたのは、
歌しかなかった。
歌うことさえも捨ててしまえば、
ぼくは本当に何の取り柄もないと思った。
なにせキャッチボールも満足にできないのだ。

だからいい年して頑張ろうと思った。
そしてまた、
少しずつだけど、
自分の歌が好きになりつつある。



●今週は仕事でじゃず家に行けない。来週23日が本年最後になるだろう●ユニクロでフリースのパーカーを買った。デザインが「進化」していて驚いた。たかが、されどである●小学校の時、中学受験を目指す同級生が下敷に「常在戦場」と書いていて驚いたという話は前にもしたけど、その時、ぼくも何かと思い書いた言葉を、さっき風呂に入っていて突然思いだした。「一期一会」だった。山口百恵が好きな言葉だといっていて、「ちょっと迫力ないな」と思いながら書いたのを覚えている。30年たってその意味がわかり始めた。

2008年12月15日月曜日

安藤忠雄

芸術性と競技性の両立を迫られるフィギュアスケーターは辛い。

昨日そんな話を書いたが、
「建築家」というのも、
「作品」と「商品」の板挟みという意味で、
フィギュアスケーターと一脈通じるところがある。



元町のjamjamで、
以下のようなイベントがあったので行ってみた。

2008/12/14 SUN.建築家 安藤忠雄氏との座談会
「神戸に夢を」
安藤氏と共に膝を交えながらのトークタイムです。

12月14日(日曜日) 15:00~17:00

1500円(シフォンケーキと珈琲)
シフォンケーキは数に制限がございますのでご了承下さい。

このひと時を是非皆様と共有したいです。
沢山の方々のお越しをお待ち致しております。

場所:ジャズ喫茶jamjam 078-331-0876




一応予習にと、
「建築家安藤忠雄」(新潮社)を読んでおいた。
おおよそ事前の印象通りの人だった。



おそらく建築家の優劣は、
自らの理想を実現させる力、
つまり、
クライアントとの交渉力で決まるのではないか。

いくら立派な図面を描いても、
実際に建たないならそれこそ「画餅」だ。
「どんな手を使っても」作っちゃった奴が偉い。
今風でいえば「実現力」ということか。




果たして安藤氏は、
施主の言うことは「一応聞いた振りはします」と断言した。
要するに表面的にはクライアントと丁丁発止やりあっているようで、、
結果的に「全て」自分の思い通りに事を運ぶということなのだと思う。

でもクライアントの方は、
いっぱい議論したんだから、
自らの意見もいっぱい反映されていると思うんだろう。

そう納得するまで話し合いには付き合う。
そういう粘り強さが安藤氏の真骨頂であろう。
そこが氏が傑出しえたひとつの要素だと思う。

自分の理想の建築を作るより、
クライアントの希望をかなえる方が、
時には(恐らく大抵は)楽なはずで、
ほとんどすべての建築家は、
優秀だが(あるいは優秀であるが故に)妥協してしまうのだと思う。



ただ、
実際の話を聞いてみて感じたのは、
氏にはそういう交渉術のほかに、
相手が敵か味方かを瞬時に見分ける「目」があるということだ。

反射神経というか、
本能というか。
要するに「勝てない喧嘩はしない」


氏が元プロボクサーであったことと無縁ではあるまい。




ところで氏に限らずの話だが、
60歳代の人が今の日本や若い人のことを悪く言うと腹が立つ。
氏も60年代安保に非常に思い入れがあるようで、
「あのころの若者は熱かった」みたいに賛美する。

でも、
教育システムを始め、
今の「日本」を作り上げた実動部隊は、
紛れもなく今の60歳代の人たちだ。
実際にヘルメットかぶって機動隊と戦ったかどうかは別として、
「あの頃」の若者がその後40年かけて、
日本を今のような姿にしてしまったのではないか。

そんなことはほおっかむりして、
年金もらって「今のままでは日本に未来はない」みたいに言われると、
さすがにこうして一言書きたくもなる。

本当は、
「ぼくたちがこんなにしちゃった日本だけど、今の若い人、何とか立て直してね」とお願いしなきゃいかんのじゃないか。



あと、
ぼくは氏が感じているほど、
若者に絶望はしていない。



●ジャズピアニスト小曽根真がオスカー・ピーターソンの魅力に迫ったNHKBSハイビジョンの番組が滅法面白かった。内容もさることながら、番組に参加していた女性が最後に言っていたことが印象的だった。「彼は自分の音に感動していたからこそ、聴衆を感動させることができた。彼は誰よりも自分を感動させたくて練習し、弾いていたと思う」みたいなことで、それはとても重要なことだと思った。

2008年12月14日日曜日

両立Ⅱ

フィギュアスケートの、
競技性と芸術性は両立するかについて、
もう少し考えてみる。



例えば、
棒高跳びのイシンバエワが、
バーを持って助走する時、
何か振り付けをしたらどうだろう。
そして、
その結果、
問題ないはずの高さが跳べなかったとしたら。

あるいは、
白鳥の湖を舞うプリマが、
いつもより一回多く回った挙句、
無様にこけてしまったら。

どちらもナンセンスだろう。



ところがフィギュアスケーターが求められているのは、
そういうことで、
だから常に(文字通り)本末転倒になる危険をはらんでいる。

浅田真央がトリプルアクセルを決めた瞬間は、
凄いものを見たと思ったけど、
それは純粋にフィジカルなものであって、
芸術性とは違う次元の話だと思う。

高い芸術性を生むには、
高い技術が必要だという意見には半分賛成だけど、
身のこなしや表情やプロポーションは、
フィギュアの技術とは本質的に関係ないと思う。

解説の伊藤みどりが興奮していたのも、
トリプルアクセルを2度跳んだという、
歴史的事実に対してであって、
彼女にとって、
芸術性はあんまり興味がなかったのではないか。
少なくともぼくにはそう感じた。
だって技術論ばっかりだったから。

荒川静香なら、
表情とか演技構成とかにもっと言及しただろう。



とにかく、
難易度の高いジャンプが決まった時というのは、
小手先の工夫などは蹴散らす、
圧倒的な感動があることは確かだ。

結局ジャンプはすべてに勝るのかな。
何回こけたって、
女子がもし4回転を決めたら、
それ一発で歴史に残る訳だし。

でも安藤美姫みたいに、
最初から最後までジャンプばっかりしてた印象しかないのもどうだろう。
あれじゃ、
わざわざ音楽変えた意味ないじゃないかと、
ど素人は思う。



こんなことばかり書いていると、
何だかんだ、
お前つまりフィギュア好きなんじゃねーかよと、
突っ込まれそうだ。

確かに、
テレビ桟敷で文句たれてる、
ただのオヤジだ。



●偶然だが「ジャンパー」という映画をDVDで観た。最近、これほど下らないと思った映画はない。

2008年12月13日土曜日

両立

フィギュアスケートは難しい。

技術的なことはではもちろんない。
それは当然難しいにきまってる。

ぼくがいつも感じている難しさは、
フィギュアの「競技としてのあり方」
あるいは、
フィギュアの観客の心構えとでもいうものだ。

やる方も、
見るぼくらも、
女子なら3回転半とか4回転とか、
大技の醍醐味と同時に、
細やかな感情表現など、
ドラマチックな感動も求める。
でもそれは、
かなり贅沢であり、
時に傲慢かもしれない。

確かにトップアスリートは美しいけど、
その美しさは「芸術的美」とは違うと思う。
この二つは本来両立しえないのではないか?
控え目に言っても、
両立するのは極めてまれであるはずだ。

今日のGPファイナルを見ていて、
あらためてそんなことを思った。



例えば安藤美姫。
第一演技者で、
最初のジャンプで思いっきりこけてしまった。
ぼくは正直、
彼女に関しては、
そこから後は見れなかった。

こけてしまった後、
「よい滑り」で採点は盛り返せても、
演技としては、
開始数秒で空中分解してしまった(と思う)。
彼女の熱烈なファン、
あるいは「競技」として見ている人は、
違う見方かもしれないが。

浅田真央が確かNHK杯のフリーの最後、
素人目には何でもない場面で転んだのは、
十分感動した後だったから「ご愛敬」で済んだ。
でも安藤に限らず、
最初のジャンプでこけるのは最悪。
芸術としては「台無し」だろう。


いっそ、
競技なら割り切って、
音楽なしで、
ウエアももっとシンプルなものにして、
純粋にジャンプとかステップとか回転とか、
技術だけを争ってはどうかと思う。

パフォーマーとしての部分は、
エキシビションとかで見られればそれでいい。
練習では100回やって100回成功しても、
本番であっさり失敗して、
時に涙ぐむ彼女らを見ていると、
こっちまで辛くなる。



●真央とキムの一騎打ちだろうが、真央の滑りには今だに「発表会」の色がある。対してキムは、ミスがあっても「パフォーマンス」色を感じる●将棋の竜王戦は大変な事態になっている。羽生に3連敗して後がなかった渡辺竜王が、そこから3連勝でタイに持ち込んだ。第7局は勝った方が永世竜王がかかる大一番。間違いなく歴史に残る戦いだ。必見。

2008年12月12日金曜日

野良

ぼくの家の前を流れている用水路に、
最近、
亀が出没する。

用水路は幅が2㍍ほどで、
こどものころには結構な水量があり、
ザリガニやドジョウやタニシをとって遊んだが、
今ではサラサラとかすかな流れがあるだけだ。

そこを体長20㌢ほどの亀が歩いていたらしい。
近所の人が見つけ、
わざわざ宝塚の清荒神まで連れて行って、
池に放してやったという。



ところが昨日、
そして今日と、
うちの母が、
同じような大きさの亀が、
用水路を歩いているのを見たという。

だれか飼いきれなくなった人が放したのだろうか。
野良猫ならぬ、
野良亀。


とりあえずお目出度いけど、
不思議なことだなぁと話していたら、
「もっと面白い話あるで」と母。
何でも、
玄関先のプランターにある日、
干からびたお握りが捨ててあったという。

近所のこどものいたずらだろうと、
母が捨てたら、
翌日、
そのプランターの中を、
カラスがクチバシで探っていた。
お握りは、
カラスが隠していたものらしい。


おっかしいなぁ、
ここに隠しといたのに


カラスが、
いかにもそう言いたげな仕草だったので、
母が興味深く観察していると、
そのカラス、
ふっと振り向き、

お前か!

という眼で母をにらみ、
飛んで行ったそうな。



カラスの恨みを買った母の運命は如何に。。。

2008年12月11日木曜日

格差

受動喫煙の被害者だといって、
喫煙者を一方的に攻め立てる人が、
ぼくは苦手だ。

そういう人は、
一点の曇りもなく、
自分は加害者ではないと思っているのだろう。

人間は生きているというその事だけで、
すでに加害者であるという意識が全くない、
そういう無神経さが、
ぼくには理解できない。



煙草がまた値上げされそうだ。
喫煙者の間では、
ひと箱1000円ならやめるけど、
500円なら吸い続けるというのが、
意見の「相場」だろうか。

いっそ明日から1000円にしてくれ、
そしたらスッパリやめられるのにと、
他力本願な声もある。

値上げするたびに、
喫煙者の割合が減っているそうだから、
きっと1000円になれば、
うんと下がるだろう。
喫煙者を目の敵にしている人たちにとって朗報に違いない。



この前、
BSで中国の出稼ぎ労働者のドキュメントをやっていた。
彼らは本当に貧しそうで、
帰省するバス代にも事欠く。
郷里に残した子供にラジコンヘリを買ってやりたいが、
当然そんなお金はなく、
金魚数匹が精一杯の土産となる。

そんな彼らが、
のべつ幕なしに煙草をふかしている。
ひと箱いくらなのか知らないけど、
この国では、
煙草は貧困の象徴のように見える。

近い将来、
地球上の喫煙者の4割は、
中国人とインド人になるともいう。



しかし、
日本でひと箱1000円とか2000円とかになって、
それでも吸い続けられるのは富裕層だけだろう。
煙草=裕福という状態になって、
ノキアの携帯じゃないが、
わざわざひと箱5000円とか10000円とかする煙草も、
売り出されるのではないか。

街の喫煙所は豪華になり、
高級店では得意客用に喫煙室を設置するところも現れるだろう。
いまは隔離されたかのごとき喫煙室の人たちが、
誇らしそうに紫煙をくゆらす日が。

ズワイガニもマツタケも、
昔は全然高級品などではなかった。
ところが数が減り、
庶民が容易に手を出せない値段になると、
逆にありがたがられるようになった。



いつかは煙草が吸えるようになりたいね

ああ


そんな会話が交わされる、
格差に満ち満ちた日が、
やってきそうな雲行きだ。


●帰宅してNHK「SONGS」を録画で。ミスチルがいきなり「HANABI」を歌った。「もういっかいもういっかい」。コード・ブルーの主題歌だ。やっぱりいい歌だと思った。●ついでに東京カワイイTVも。「ニューヨークはアメリカじゃない」と言った人がいたが、そういう意味で東京は日本じゃない。

2008年12月10日水曜日

国語

芸能人が遊ぶだけのクイズ番組は言うに及ばず、
30歳代ぐらいの「中年」とよんでも差支えないような人でも、
あまりに日本語の語彙が少ないので驚くことがある。

こんなことで大丈夫なのかと、
心配になりもするが、
まさか日本語が「亡びる」とまでは認識していなかった。



「日本語が亡びるとき」(水村美苗著、筑摩書房)を一読した。
英語が「世界の共通語」となることがはっきりした今、
日本語の「読み書き」は、
ぼくたちが努力して継承していかなければ亡びると、
著者は憂う。

誤解がないようにしたいのは、
日本人が将来みな、
英語を話すようになるという意味ではない。
あくまで書き言葉としての日本語である。
話し言葉と書き言葉を、
著者は明確に区別している。



「文化とは<読まれるべき言葉>を継承することでしかない」



その一方で著者は、
日本語と英語の両方に堪能な、
真のバイリンガルを要請すべきであるとも述べる。

日本語教育を内壁とすれば、
英語教育は外壁という訳だ。
それで初めて、
日本語は守られると。



漢字+ひら仮名+カタカナ文という、
世界でも類をみない日本の書き言葉は、
地理的、
歴史的特殊性があってこそ守られた「奇跡」なのだと言う。
実際、
漢字も仮名も廃止してローマ字に統一しようとか、
いっそ日本語そのものをやめてフランス語に乗り換え用とか、
びっくりするような議論が、
文化人や官僚を交え、
つい最近(といっても数十年前)まで大真面目にされていたのである。

日本語が当たり前に存在し、
当たり前に存在し続けると思っていてはいけないのだ。
地球上で日々言語は消滅していて、
今ある6000ほどの言葉のうち、
8割が今世紀中になくなると予測されているという。



以上はぼくなりのこの本の解釈で、
間違ってるかもしれないが、
なるほどなぁと思う一方で、
言葉は生き物だから、
「守ろうとか」
「流行らせよう」とかしても、
所詮なるようにしかならぬのではないかと、
ぼくなどは諦観派だけど、
それは、
無理やり別の言語を強制されるような、
苛烈な経験がない故の能天気発想なのだろうか。

例えば、
「ナウい」という表現がどういう感触を与えるかなんて、
数年単位の時間の差、
使われる状況、
使う人によって、
千差万別であって、
そういう移り変わっていくものを、
ピタッと固着させて受け継いでいくことなどできないのではないか。



文化を継承できるのは<読まれるべき言葉>だけだろうか。



その一方で、
わずか100年前にこの日本で書かれた文章が、
仮名遣いの違いや漢字の略字化などを経て、
すでに読むことすら困難ということも問題だ。

英語であれば、
何百年前のものでも、
基本的に読むことに苦労はない。
時代的に強引な比較だけど、
源氏物語には「現代語訳」が必要だが、
シェークスピアにその必要なない。
「死語」があったとしても、
理解できない訳じゃない。



ぼくが書いているブログは、
恐らく人類がある限り、
ネットの間を漂い続けるだろう。

しかし、
読む人がいないのなら、
書かれなかったのと同じだ。
確かに、
「第三者的」にはその通りだ。

でもそれは、
ぼくが書かなかったということと同じではない。



この違いは大きい。


●ノーベル賞講演の益川さん。「英語は話せるに越したことはない」。それでまた世の親は日本語より英語教育に熱を入れる●じゃず家セッション。今年最高の出来だったと思う。マイクと仲良くなれた気がした。9日は親父の命日だった。何かの縁だろうか●NHKプロフェッショナル。ボリショイバレエ団ソリスト岩田守弘。存在を知らなった自分を恥じる。久々鳥肌がたった。

2008年12月9日火曜日

羽毛

今冬初めてダウンを着た。
やっぱりすっごく暖かい。
これさえあれば、
中はTシャツ一枚でも平気だ。

でも、
「羽毛万歳」
とばかりも言ってられない。
ひょっとすると、
「これ一枚羽織れば」時代は、
終わりかもしれない。



理由は地球温暖化対策、
あるいは原油高騰。

会社が暖房温度を下げてしまったのだ。
だから、
薄着にダウン一枚だと、
脱いだら寒いのだ。

といって、
重ね着すると、
パンパンになっちゃう。
真冬の定番が危うくなり、
少し思案中だ。



確かに贅沢な暮らしをしてきたのだ。
どこへ行っても冷暖房完備。
我慢するのは夏の戸外だけという生活に慣れすぎた。

こどものころ、
冬はおばあちゃん手縫いの半纏を着て、
炬燵でまるまっていたし、
夏は熱の籠った部屋で、
蚊取り線香の煙の中、
扇風機にタイマーをかけ、
汗をかきかき寝たもんだ。

きっとダウンが流行りだしたのは、
この国が豊かになったことと同時に、
どこでもしっかり暖房されるようになったからに違いない。



我が家には、
昨冬からガスファンヒーターが登場したけど、
明日は炬燵を出そうかな。



●難波845で太田雅史さんのボーカリーズジムへ。依然、スキャットは滅茶苦茶。何とかせねば。ピアノの赤松真理さんから「来年はライブしましょうね」と、温かい励まし●吉川友梨さんの父親をだました二人。「人間じゃない」っていう表現は、こういう時こそ使うべきだと思う。

2008年12月8日月曜日

遺言

何気なく日本経済新聞をめくっていたら、

「完全版 正式遺言セット」の広告が目に飛び込んできた。

遺産相続を巡るゴタゴタが起きないように、
マニュアル通り書き進めば、
法的にちゃんとした遺言書ができるという、
まともな趣旨の製品なのだが、
内容がどうにも笑える。



セットは遺言書と財産目録、
家計図や重要事項のほか、

遺影に使う写真や、
防水密封ポケットなどが、
「高価なヤギ革」の鍵つきバインダーに閉じられている。

「お客様からんのお手紙」というのがあって、
葛西章夫様(72歳)が、
「相続のことはのびのびにしていたが、簡単そうなので申し込んだ。簡単で漏れもないのに驚いた。定年後は空虚な生活を送っていたが、これからは毎日を大切にします」
と感想を寄せておられる。

そして、
なんと推薦人は丸山和也弁護士。

「生き生きした老後を送るあなた自身の何より大切な一冊、パートナーとなってくれる」
と手放しで宣伝しておられる。




広告の中央にはでかでかとバインダーの写真があって、
下には「お名前を金文字で刻印いたします」の文字。
その広告写真をよく見ると、
名前が「徳川家康」となっているのには吹き出した。

これで一括払い38000円。
分割払いも用意されていて、
月々12900円×3となる。

遺産を巡って「骨肉の争い」になりそうな人が、
分割払いで買うわけないだろ!



葛西章夫さんみたいに、
この広告みて、
本当に買う人いるのかな。

いや、
本当に切実な人は、
こんなふざけた広告でも、
飛びついてしまうのかもしれない。


●読売新聞の今日の朝刊に「生命物質 隕石衝突で誕生」という記事が載っている。生命に必須のアミノ酸が、海に隕石が落ちた時の反応を実験室で再現できたというのだが、本当ならスゴイ発見だと思う。ひょっとしたら、月が地球に衝突した時かなと想像してしまった●麻生内閣支持率21%に。ここまでくると、可哀想に思えてきた。

2008年12月7日日曜日

圧縮

人の考えや音楽は、
それぞれ活版印刷や、
レコードの発明によって、
一気に庶民のものとなった。

大木こだま・ひびきのギャグじゃないが、
わざわざ行かなくても、
向こうから来てくれるようになった訳だ。

ある場所に行かねば味わえない感動が、
手軽にお家で楽しめるようになった恩恵は計り知れない。
今の文明はこれらなしではあり得なかった。



その究極の形が、
今読んでいる「日本語が亡びるとき」(水村美苗著、筑摩書房)で描かれる。


 シュメール語が記された粘土板から今まで、人類は最低三千二百万冊の本、七億五千万の記事やエッセイ、二千五百万の歌、五億枚の画像、五十万本の映画、三百万本のビデオやテレビ番組や短編映画、そして一千億のホームページを「出版」した。これらの全部の資料は、完璧にデジタル化されれば、すべてが五十ペタバイトのハードディスクに圧縮することができる。そのとき、すべてを収めた図書館が、あなたの財布の中に入り込んでしまう。



ちょっと端折って引用したけど、
そういうことらしい。
ちなみに「ペタバイト」とは2の50乗だって。



この文章に驚いたのは、
無数とか無限であるはずの人類の文化的営みが、
数値化、
つまり有限化されているということだ。
概算にしても、
人類が生みだした画像は五億枚と言われた時、
それが多いのか少ないのか見当がつかないけど、
何か「身も蓋もない」感じがした。



それがいかに膨大であっても、
数え切ることができれば、
つまりデジタル化されれば、
すべからく「圧縮」されちゃう運命にある。

圧縮といっても、
エッセンス、
つまり「濃縮」ならよいのだが、
圧縮すればするほど、
普通は「搾りかす」しか残らないものだ。

人間の営みの本当の魅力は、
圧縮され得ない部分にこそある。

例えば油絵の実物と、
そのデジタル画像の差。
舞台とその録画の差。



本当は言葉も音楽も同じことなのだと思う。
言葉は文字化されることで、
音楽は録音されることで、
圧倒的な流通力を得たけど、
言葉が発せられた場、
音楽が奏でられた場のほとんどすべてのものは、
そこにしかあり得ない。

こだま・ひびきが本当に来てくれればいざ知らず、
やっぱり劇場に行って見なければ、
こだま・ひびきを「体験」したことにはならない。



ところで、
今のぼくを圧縮したら、
どれぐらいの、
「汁」が出るだろう。
量はともかくその味は、
きっと苦いだろう。


●しっかり見ていたわけではないのだが、昨夜、BSの『COOL JAPAN ~発掘!かっこいいニッポン~』という番組で、ある外国人は日本の不動産の間取り図にを見て「コンロの数まで描いてあるなんてアメイジング!」と驚いていた。結構重要なんだけどなぁ●元町のjamjamに行くと、正面のスピーカーにゲバラのでかいポスターが掲げてあって、そこに「Noone is free from faults」と書かれてあった。「欠点のない人などいない」。その通りです。

2008年12月6日土曜日

着地

たなかりかさんのライブに、
また行ってしまった。

「しまった」というのは、
後悔しているという意味じゃなく、
「あらかじめ(何かによって)決めらられていた」というイメージ。

事前にチェックしていた訳じゃなく、
ふいに空き時間ができて、
ライブに行こうと思い立ち、
ネットで探したら、
あった、
ラッキーという具合だ。



こういう時は、
何もかも巡り合わせが良くいくもので、
激しい雨も昼ごろにはやみ、
予約なして行っても運良く席があり、
流れよく事が進む。

ライブの中身も当然ご機嫌で、
一日の着地がピタリと決まった。



もちろん、
いつもいつもこんな風にうまく行く訳じゃあない。
なにせぼくはMW君である。
何か月も、
どうにも休みが合わないこともある。

彼女のファンではあるものの、
元来が行き当たりばったりなもんだから、
当然と言えば当然だ。



この年齢になり助かるのは、
仕事でもプライベートでも、
何事も大きな流れがあって、
それに抗っても無駄だと分かってきたことだ。

そう割り切ってしまえるから、
じたばたしていた若いころよりは、
精神衛生上よろしい。
そしてればたまに、
今日のような「満点」の日もある。

「縁」のあるなしで片付けるのも、
若いころは癪だったけど、
最近は、
雑誌の星占いなんかも、
いっちょ真面目に信じてやろうかと思ったりする。



どうせ一寸先は闇なのなら、
何を信じようと、
馬鹿げているなどと、
誰に言えよう。



●そういえば、彼女の先日のライブで、おひねり(!)が飛んでた。ジャズのライブでおひねりなんて、初めて見た●新垣結衣のドキュメントをNHKで。彼女の演技がいいのは「コード・ブルー」で知っていたが、歌も素直でよい。しかし二十歳とは。番組の最後で「一歩ずつ 少しずつ しっかりと歩いていきたい」と抱負を書いていた。彼女ならそう生きれるだろうなと、思わせるものがあった。

2008年12月5日金曜日

加速

人の第六感とは「加速感」ではないか。

福岡伸一氏は「できそこないの男たち」(光文社新書)で、
そう述べておられる。

赤ちゃんが高い高いをしてもらって喜ぶのも、
人がジェットコースターに熱狂するのも、
その加速感が「快」だからだと。

視覚
臭覚
味覚
聴覚
触覚

そのすべてを奪い取られても、
なおぼくたちは加速を感じることができる。
だが現代科学をもってしても、
加速を感知する仕組みは分からない。



ザ・ローリング・ストーンズのライブ映画「シャイン・ア・ライト」。
5日から劇場公開されるのにもかかわらず、
DVDを買ってしまった。

こどものころは完全にビートルズ派で、
というより、
ストーンズのことはほとんど知らず、
実際今でもよく知らないのだが、
還暦をすぎた男4人の、
この驚くべき映像を見て、
完全にノックアウトされた。


かっこよすぎる


それは、
音の加速感であり、
バンドの歴史の加速感であり、
メンバーひとりひとりの人生の加速感が、
全部ひとまとまりになって、
画面から押し寄せてくるからだ。

ノスタルジックなんかじゃなく(実際ぼくは彼らの曲はほとんど知らない)、
現在進行形で、
どの曲もすばらしくドライブし、
「うわぁー」とぼくをどこかへ連れていく。
きっと映画館で見ればもっと凄いことになってしまいそうだ。



先の福岡氏は、
こうも述べている。


 私たち人間は、媒体としての時間の存在を知覚することができない。時計も、カレンダーも、日記も、等速運動を分節しているだけで、時間の運動そのものの実感を知らせてくれはしない。  
 時間の存在を、時間の流れを知るたったひとつの行為がある。時間を追い越せばよい。巡航する時間を一瞬でも、追い越すことができれば、その瞬間、私たちは時間の存在を知ることができる。時間の風圧を感じることができる。それが加速覚にほかならない。
 巡航する時間を追い越すための速度の増加。それが加速度である。加速されたとき初めて私たちは時間の存在を感じる。そしてそれは最上の快感なのだ。なぜならそれが最も直截的な生の実感に他ならないから。


ストーンズの音楽も、
紛れもない「生」を実感させてくれた。

ジャズもまた、
そういうものなのだと思う。


●生命保険を整理した。車もなくなった。もっと生き方をスリムにして、人生の加速感を味わいたい●神戸・ルミナリエが始まった。今日は比較的暖かく、人でもさほどではなかったとの情報あり。

2008年12月4日木曜日

MW

よし今日はあの店を覗いてみようと、
張り切って行くと定休日である確率が、
ぼくの場合非常に高いと思う。

他人と比較できるわけもないけど、
飲食店、
美容院、
病院など、
ジャンルを問わず「定休日率」が高い。

そういうことは記憶に残りやすいから、
そんな風に思えるだけかもしれないが、
「定休日」の文字の前で唖然とするたびに、
「俺って間が悪い」と思ってしまう。

昔、
株を買ったときも、
ドル貯金をした時も、
ことごとくタイミングを逃し、
得した覚えがない。

そんな事があまりに多いものだから、
もう、
ぼくはそういう人間なんだと開き直って、
「定休日」の文字を見ても、
さほどがっかりしなくなったけど、
今度ばかりは参った。



それは先日のこと。
友人が使っている携帯が気に入り、
翌日、
さっそく買ったのはいいが、
何とそれがNOKIA製だった。

その直後だ。
同社が端末事業から撤退するという報道があったのは。
それを知ったぼくは、
いよいよ間の悪さも極まったと、
あきれ返って笑ってしまった。

まぁ、
撤退といっても、
この携帯が使えなくなる訳じゃないし、
その携帯自体とてもよくできているので、
実害はないのだが、
新車を買った途端にモデルチェンジしたような、
損した気分になってしまった。

こんな時こそ白州正子氏を見習って、
かえってこの携帯を大事にせねばならぬのだ。
そう自分に言い聞かせる。



それにしてもである。
「空気が読めない」がKYなら、
さしずめぼくはMWだなぁと、
一人笑いしている。



●NOKIAの新携帯は1台100-500万円するとか。一体全体、どういう人が使うの?それとも、富裕層と貧困層という二極分化は、想像以上に進んでいるのだろうか。



2008年12月3日水曜日

両極

「アルマゲドン」という映画は、
とにかく巨大隕石が地球にぶつかりそうになり、
海底油田掘削のプロが乗り込んで破壊するという話で、
先日久々に観たけど、
やっぱり面白かった。

そんなに地球に近づくまで、
どうしてわからなかったんだというアメリカの大統領に、
NASAの職員が「宇宙は観測しつくすには広すぎるのです」と、
確かそんな風に説明していた。



都合のいい脚本だなぁと思っていたけど、
実際のところ、
今の観測には限界があるそうで、
荒唐無稽とは言えないようだ。

アメリカのキャリー・マリス博士(ノーベル賞受賞者)は著書で、
もっと予算を割くべきだと警告している(「マリス博士の奇想天外な人生」ハヤカワ文庫)。

そういえば、
地球と月の関係は、
その昔、
「元地球」に超特大の隕石がぶつかって、
一部は今の地球に吸収され、
残りが月になったと、
先日のBSで説明していたっけ。



さて、
一挙にスケールダウンするけど、
サラブレッドの蹄の部分は、
人間でいえば人差し指なんだと、
何かで読んだ。

つまり指4本であの巨体を支え、
疾走するわけで、
美しさともろさは紙一重というわけだ。



そして、
会社でたまたま見た番組では、
金色や虹色のクワガタ虫を紹介していて、
あまりの美しさに目まいがしそうになった。



極大から極小まで、
この世で繰り広げられるスペクタクルに、
「なんで」という思いもなく、
ただただ呆然とする。

海を見て「オレなんてちっぽけな存在」と感じる、
そんなもんじゃ追いつかない、
圧倒的なあきらめにも似た、
それでいて身軽になったような不思議な浮遊感。



こういう感覚もたまには良い。



●じゃず家セッション。「管」の多い日だった。これも不思議●NHK2番組、録画で。トップランナーはジャズトランペッター市原ひかり、プロフェッショナルは武豊。

2008年12月2日火曜日

「素直」ということを考えた。

この年齢になって思うのは、
若い人は素直な方が「得」だということだ。
大人を侮らない若者は、
大人に好かれる。

ぼくが言うことに耳を傾けてくれれば、
単純に嬉しい。
可愛いヤツだとなって、
じゃあこれはどう、
ついでにあれもどうと、
あれこれ面倒をみたくなる。

だから素直な若者は、
精神的にも物質的にも得だ。



しかし、
素直といっても、
丸飲みするということではないだろう。
何も考えず、
無条件に大人を肯定するようでは、
可愛がられはしても、
彼(彼女)の成長にはつながらない。

それは素直なのではなく、
調子の良い、
大人のご機嫌取りだ。



好き嫌いなく「まず」受け入れてみる素直さ以上に、
肝心なのはそれをかみ砕く「心の歯」だと思う。
それでこそ「食べた」物は栄養となり、
成長する糧となりうる。
中身を味わう「心の舌」も、
自然と鍛えられる。

では「心の歯」を丈夫にするにはどうしたらよいのか。
固いせんべいでもバリバリかみ砕くような、
強い心の歯が欲しいなら、
若者はどうすべきか。

ぼくもよく分からないんだけど、
結局、
本当の歯と同じように、
しっかり歯磨きすることなのかな。

つまりいつも自分を鍛え、
かつ手入れを怠らないこと。

柔らかいもの、
甘いものが氾濫する日本で、
しっかりしたものをしっかり食べてる、
丈夫な「心の歯」を持った若者は探せばちゃんといることを、
ぼくは知っている。



翻って、
ぼくの心の歯は、
まだどれぐらい丈夫なのだろう。
本人はまだまだ、
「せんべいぐらい平気さ」って思っているが、
案外、
ポロリと欠けたりするかもしれない。

用心、
用心。



●西宮北口「コーナーポケット」へ久しぶりに。お店の奥様と、初めてまとまった話をさせていただいた。よい休日の午後だった。

2008年12月1日月曜日

悲鳴

近所に映画館があったらなぁと、
こどもの頃よく思っていた。

特に高校生の時かなぁ。
大人たちが若い時、
映画館に入り浸っていたなんて話を読んで、
近所にあるこじんまりした名画座と喫茶店、
この二つは文化的暮らしの象徴のように思っていた。

喫茶店の方は何軒か素敵な店があったけど、
映画館の方はあいにく、
日活ロマンポルノ3本立てのしかなく、
ぼくの文化的生活は半分しか実現しなかった。
(まぁ日活にも行ったけど)



それがついに、
近所にシネコンができちゃった。
何か知らんが「東洋一」というから、
今どき「東洋一」っていう宣伝文句も笑えるけど、
とにかく立派だということで、
ぼくの若い夢は、
30年ほど遅れて大スケールでかなった。

ネット予約をして、
母と「レッドクリフ Part1」を見に行った。
知り合いの「シニア」の女性が「面白かった」といったからだ。
これなら母も寝はしまい。

真新しいカーペットに立派な椅子。
ぼくが信じられない気分になったぐらいだから、
母はいかほどだっただろう。



映画はご存じ三国志の赤壁の戦いが題材。
ジョン・ウー監督、
CGを駆使して、
大スペクタクルに仕上げていた。
エンタテイメントとして、
確かに評判だけのことはある。

母は映画のストーリーより、
すごい勢いでポップコーンを食べるぼくにあきれていた。
でも、
最後まで寝ずに見ていたから、
分からないなりに、
満足していたのだろう。

ぼくとしては、
BSに続き、
またしても誘惑が増えたことで、
本を読む時間がなくなりそうと、
嬉しい悲鳴をあげている。



●て、ぼくにしても三国志は読む方は挫折したクチ。NHKの人形劇は見てたけど。たまたま先日のBSで予備知識があったから、知ったかぶりができたものの、たぶん知らないと映画の筋はチンプンカンプンだろう●それでも小さな名画座にはあこがれる。このシネコンでも1スクリーンぐらい、そういう感じでやってくれないかな。

2008年11月30日日曜日

リセット

小室哲哉氏が釈放された時、
「人生をリセット」したいというような事を言っていて、
そりゃ違うなと思った。

「一からやり直す」という事を、
キザに表現したのだろうが、
人生は、
「一からやり直す」ことも、
「リセット」することもできはしない。



例えば、
人は誰でも生まれながらに自転車に乗れる訳ではない。
たいていはこどもの頃、
三輪車から初めて、
補助輪を一つづつはずして、
何度もこけて、
ある時、
乗れるようになったと思う。

では、
そうやって自転車に乗ることができる人が、
もう一度、
「自転車に乗れない人」になれるだろうか?

「乗らない」ことはできても、
「乗れない」状態に戻ることはできまい。
「人生をリセットする」というのは、
これと同じ不可能なことだ。



「何事も経験だ」と人は安易に使う。
しかし、
この前ゴルフの話でも書いたように、
経験というものは、
必ずしも役に立つものばかりではない。

人生においては、
「しなければいい経験」
「してはいけない経験」
というのもきっとあるのだろう。

何かを経験してしまった以上、
それ以前の自分には、
あらゆる意味で戻れない。



時は自分の意思とは無関係に過ぎていく。
だから当然、
人は常に何がしか経験を重ね続け、
変わっていく。
誰にもそれは止めることができない。

大病や、
事件や、
そんなことではなくても、
人は一瞬たりとも同じ自分ではいられない。


粘土細工のように、
うまく行かなければぐちゃぐちゃにして、
作り直すことはできない。

かといって石像でもあるまい。
一度ノミを振るったら最後、
失敗は絶対に許されない、
ということもないはずだ。



45年ほど生きてきたぼくなど、
他人から見れば、
「しなきゃいい」経験ばかり重ねてきたかもしれない。
石像だったら、
もうとっくに破たんして、
ゴミ捨て場行きだ。
陶芸家は気に入らない作品を、
惜しげもなく割るけど、
ぼくが焼き物なら、
ぼくはあの破片だ。

結局、
人生は油絵のようなものか。
塗り重ねて塗り重ねて、
行き詰ってもう一度真白く塗りなおして、
でもその白地の奥には、
うっすらと以前の色が見えるような。

その反射光に、
まっさらなキャンパスに描いたのとは異なる、
何がしかの深みが出ることを期待しながら。
絶対に「糊塗」ではないと、
自分に言い聞かせながら。



そうして、
完成することのない絵を、
いつまでも描き続けるしかない。


●NHKスペシャル「プロ魂」。王監督、「人間なんだから失敗もすると思っては駄目なんです。プロは人間じゃ駄目なんです」。あのまなざしで言われると、どんな事でも「真理」に思える●浅田真央。成功した3回転半の一瞬の鮮やかさはさすが。

2008年11月29日土曜日

手帳

今日、
正確には昨日、
出勤したら、
来年の手帳とカレンダーが配られた。

で、
改めて今の手帳をパラパラめくってみた。

一昨年の11月19日にスタートしていて、
25日には親父が意識不明で入院している。
12月9日に亡くなるまでの、
怒涛の日々の始まりだった。
その間、
病状や見舞いの人についての記述がある。



亡くなってからしばらくは、
仕事の予定だけの日が続いて、
2月中頃から、
ライブやセッションの予定が見られ出す。

追うようにして、
歯医者や美容院の予約、
目にとまった本やCDのタイトルが、
乱雑に書き込まれるように。

6月8日には、
武庫之荘・Mクアトロ昼下がりライブに出させてもらった。
このブログを始めたのもそのころだ。

最近は、
発声についての覚書なども見られる。

親父が死んでから、
少しずつ気持ちを立て直してきた様が、
こんなわずかな記述や字の大きさから、
手に取るようにわかる。


辛さ、
悲しさ、
嬉しさ、
喜び、
満足、
怒り、
無念、
後悔、
希望。。。


様々な思いが交錯し、
過ぎ去った一年。
ぼくは少しは成長しただろうか?



今の手帳の表紙は黒。
来年のは明るいベージュだ。

会社の気まぐれで毎年違うのだが、
これほど明るい色は記憶にない。

この色のような、
暖かい一年になればいいのになぁと思う。

2008年11月28日金曜日

麻生病

「こーざんびょー」



母が言うからには、
十中八九言い間違いだと思い、
「そりゃ膠原病やろ」と直してあげた。



「そうそう、こーげんびょう」



そうやろ、
高山病の人が母の周囲にいるはずがない。
やっぱり膠原病だ。


これで一件落着、
あぁいつもの母だネと思っていたら、



「やっぱり高いところでなる病気やろ」



どうも変だ。


少し話を聞いてみて分かった。
なんと、
母は「高原病」だと思っていたのだ!


気付かなかった。
間違え方が複雑になっているゼ!


しかし、
今回ばかりは母にも理由があった。
母の友人から母あての携帯メールには、
確かに「高原病」と書かれていたのだ。

それで母はなんとなく、
高山病と納得していたのだった。



麻生病が広がっている。


●ポメラをアマゾンで衝動買いした。さて、ポメラって何でしょう?届いたら感想書きます●BSハイビジョンや民放のBSが視聴可能になり、魅力的な番組が増えたのはいいが、全部見られない。嬉しい悲鳴だ●渡辺竜王、3連敗の剣が峰で一矢報いる。奥様のブログ「妻の小言。」も嬉しそうだ。よかった。

2008年11月27日木曜日

経験

ぼくは運動音痴だ。


こどもの時は別として、
キャッチボールさえ満足にできないのだから、
もはや運動神経が切れているというより、
消滅してしまったのではないかとさえ思える。

その分、
スポーツ観戦は好きだ。
ひとつの試合そのものも面白い。
だが何十年も見ていると、
ある選手のデビューから引退まで、
例えばプロ野球の清原、桑田など、
甲子園球児だったころから知っているわけで、
その浮沈というか、
競技人生に、
自分の生きざまを重ねもする。



特にゴルフなどメンタルな要素の強い競技に言えるのだが、
経験を積むことがマイナスになることがあるように思える。
今、
男子ではプロデビューした石川遼が飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
彼に実力があることは間違いないが、
快進撃を支えているのは、
「怖いもの知らず」だという面は多いにあるだろう。

痛い経験を重ねれば、
心では思いきっていても、
体が踏み込めなくなってしまう。

石川の大先輩にあたる中嶋常幸は若いころ、
日本のゴルフ界を尾崎や青木らとともに支えてきたが、
そんな彼でも一時は、
パットがまともに打てないほどの状態に落ち込んだ。

いわゆる「スランプ」だ。

体力は特に問題なし。
技術は若いころより上達している。
なのに成績が芳しくない場合、
それまでの経験が悪い方向に作用している場合がある。



スランプに見舞われた時、
トップアスリートらはどう克服しているのかというと、
これはもう「練習」しかないようだ。
いつもと同じメニューを繰り返し、
結果が出なくても腐らず続ける。
時間の長短はあっても、
いつか抜け出る日がくることを信じる。

変に試行錯誤すると、
かえって泥沼に落ち込むこともあるようだから、
その辺は要注意だ。


人生だって似たようなところがあるなと思う。
経験が悪さして思いきれない。
ふっ切ったつもりでも、
体が拒絶する。


「それはやめといた方がいいよ」


内なる囁きは、
経験の賜物ともいえるけど、
俗にいう「弱気の虫」の場合もある。
確かに正解であることが多い。
そんな時は、
ただフフンとやり過ごすのみ。


いつか体が、
「行こうよ」
と言い出すまで、
そこに留まるしかない。

じっと耳をすまして、
「自分」の声を聞く。
「ゴー」なのか「ステイ」なのか。
ひたすら聞く。



肝心なのは、
「ゴー」の声を聞き洩らさないことだ。


●近所にできた大型店に、4日連続通っている母。まだ誰も知り合いに会わないそうで「みんなサボってるわ」と愚痴る。地域活性化にも燃えているのだな●ちょっと久しぶりにたなかりかさんのライブへ三宮・グレートブルーへ。彼女の唄は、いわゆる「ソウルフル」なんだよ。こっちの魂をわしづかみする感じ。

2008年11月26日水曜日

気分

去年の12月29日に、
ぼくはこんなブログを書いていた。
「パズル」と題されている。


きょうから2日まで年末年始休暇だ。
僕の周辺はちっとも慌ただしくなく、
たまぁーに行く喫茶店に寄ってみた。

本を読もうと思っていたのだけれど、
カウンターの上に木製パズルらしきものがあり、
何気に手にしてカチャカチャ動かしていると、
バラッと一気に崩れた。

焦ってはいけない。
パズルなんだから元に戻るはずだし、
復元できなくても店の人に泣きついたらいいだけ。
そう気楽な気持ちになって復元に挑み始めた。


頼れるのは、
元の姿のイメージと、
崩れた時の手と目の記憶だけ。
直角の刻み目が二か所ずつ入った同じ形の木製角柱6本が、
二本ずつ対になって、
縦横斜めに組み合わさっていたはずだ。
崩れた時は、確か二分割して斜めにすべり落ちたと思う。

だからとりあえず3本ひと組の塊を作ってみることにした。
こういうパズルは、
絶対に無用な隙間はできないはずだから、
組み合わせは限られているはずなんだけど、
なかなかうまくいかない。

頭の中のイメージはなんとなくあって、
きっとそれらの木のパーツを手にしたら、
普通はそうするだろうという組み合わせではない組み合わせなんだ。
それが意外な角度でスルッとはまるはずだ。

常識を振り払い、
意外性を先取りするように心がけて何度も試してみる。
幸い他の客は奥の方にいるカップルだけのようで、
あまり周囲の目は気にせずに済む。
カウンターの中の女性も、
余計な関心は払わない。

冷静にコトを進めた。
とにかく冷静に。
冷静に、
と言い聞かせている自分は、
すでにこのパズルにかなり熱くなっていることに気づく。

煙草も2本しか吸わず、
1時間近くたって、
ようやくこのパズルの「文法」が分かってきた。
無駄な隙間は出来ないはず。
そのルールはここでも健在だった。

最後の一本がここに入ればと分かった時点でゴールが見えたと思った。
そうあるべき形に組んだ3本ずつを両手で持って、
2、3度合わせてみたら、
スッとはまった。




「でぇきたぁ~~」




裏声のまじった情けない声が終了の合図になった。

ずっと黙っていたカウンターの中の女性が、
「すごいですね」
と笑顔で言ってくれた。

今年一番嬉しかった。


あの時の快感は、
まだすぐそこにある。

じゃず家のセッション。
今日の気分が似ているから、
あえて引っ張り出してきた。


●車を売った。買って3年ほどになるけど、4000㌔しか乗ってないんだもの。ぼくのライフスタイルに不必要と判断した。きっと不自由だと思うこともあるだろうけど、全然後悔していないから、きっとそれでよかったのだ●近所に巨大なショッピングモールができたので、初めて行ってみた。何か記念にと、カリモクのお店で、船用の掛け時計を買った。可愛かったし、何より発売開始が1964年というのに魅かれた。ぼくと「同い年」だ。

2008年11月25日火曜日

不明

健康とは、
完全な肉体的、
精神的及び社会的福祉の状態であり、
単に疾病または病弱の存在しないことではない

唐突ではあるが、
これは、
WHO(世界保健機構)が1951年に定めた、
健康定義なるものである。

ぼくが中1の時、
保健体育の先生が、
これを憶えろと凄んで(少なくともぼくにはそう見えた)、
クラス中で暗唱させられた憶えがある。

だから今でも思い出すのだが、
そういう意味では、
ぼくは完全に「健康」ではない。
精神的にも肉体的にも、
社会福祉的にも「完全」なんかじゃない。

つまり不健康だ。



この夏から数年ぶりにアトピー性皮膚炎の症状が出ていて、
これが医者でも原因が分からない。
思えば小学生の時にかかった自家中毒も、
追い打ちをかけた腎臓病も、
原因は分からなかった。

大人になって、
歯槽膿漏になった時も、
原因は分からなかった。

訳の分からないことだらけで、
ぼくはずーっと「不健康」だ。

死んだ親父のガンだって、
最初医者は、
「1年たって転移していなければ98%大丈夫です」
と言ったけど、
ちょうど1年たって転移した。

親父は見事2%の中に入ったのですかと問うたら、
「そういうことです」と言われた。

そもそも、
病気に確率という概念は似合わないと、
その時思った。

話はそれるが、
ぼくがO脚であることも、
母が「五十肩」(70歳なのに!)であることも、
原因は分からない。



こう何もかも分からないんじゃ、
病気ってもんは、
結局、
かかるかかからないか、
治るか治らないかなんて、
思い悩まないのが、
少なくとも精神的には一番「健康」だとも言える。

火星に水があるのかないのかが分かっても、
人のDNAをすべて解読しても、
ウナギのひとつ解明できない。

科学なんてそんなもんだ。


●小泉毅の件で、昨日はつい興奮してしまったが、やっぱり訳が分からない。無理に分かろうとしないことも大事なのだが、この分からなさは圧倒的に怖いから、少しでも分かりたいと思う●生後1年以内に家畜小屋に出入りしていた子供はアレルギー体質になりにくいと、NHKでやっていた。この時期にエンドトキシンという物質に触れるか触れないかがカギなのだそうだ。そんなもんかね●NHKローカルで京阪神のジャズマンが生演奏するコーナーがあって、昨日、総集編をやっていた。セッションで会ったプレイヤーやライブに行ったことのあるボーカリストが何人かいて、なかなか楽しかった。

2008年11月24日月曜日

決壊

小泉毅とは何者だ。

34年前、
つまりこの男が中学生の時、
保健所にペットを「処分」され、
その恨みを晴らすため、
2人の元厚生次官宅を襲い、
3人を殺傷したという、
小泉毅とは何者だ。

十分すぎるほどの物証と、
ご丁寧に住民票まで携えて自首した、
46歳の、
小泉毅とは何者だ。

何の仕事をし、
何を食べ、
何を読み、
誰と話し、
何を考えていたのだ。

あの躯体。
あの振る舞い。

一体どのようにしたら、
そんな理由で人が殺せる人間が出来上がるのだ。

宗教的であれ政治的であれ、
テロであったなら、
百歩譲ってあり得る話だと思っていた。
しかし、
この展開は予想だにしなかった。

男の言っていることを「真に受けている」訳ではない。
ひょっとしたら、
真犯人の身代わり、
または、
何かの洗脳を受けているのかもしれない。
できればそうあって欲しい。

この男の連行写真を見たとき、
真っ先に思い出したのは、
オウム真理教の実行犯たちだった。
あるいは宅間守。

喜びや悲しみはもとより、
怒りや憤りすら感じさせぬ、
それでいて諦観している風でもない目。

人を襲って捕まえられた猛獣のような目。
一体何が「悪」なのか分からぬ目。
いや、
そもそも「悪」とう概念自体が抜け落ちたような目。
「確信犯」という言葉では追いつかない。
誇るわけでも悪びれるわけでもない。
善も悪もない、
人間の姿をした怪物。

想像を超えた「悪」が、
現実に存在するのだとすれば、
心底恐ろしいことだ。

遺族にしても、
事件が落着したって、
これでは悲しみが深まるばかりだろう。

男はただ人が殺したくて、
「動機」など何でもよかったのか。
それとも彼の語る「動機」は、
彼にとって本当だったのか。

テロ、
あるいは通り魔より、
はるかに虚無は大きい。


これは底なしの穴。


小泉毅とは何者だ。

2008年11月23日日曜日

0系

「0系」がもうすぐ姿を消す。
団子っ鼻の初代ひかり号は、
ぼくと同い年だ。

鉄道に特別な興味はないけど、
さすがに感慨深いものがある。


「びゅわーんびゅわーん走る~ 青い光の超特急~」


NHKみんなの歌だったかな、
子供のころ一緒によく歌ったな。

家族で乗った時の写真が今もある。
赤い蝶ネクタイをしてめかしこんだぼくが、
左右を母と姉にはさまれ、
少し上気した顔で座席に座っている。

独特のにおいや、
トンネルに入った時の耳の奥がツンっとする感じや、
ひじかけに付けられた灰皿の構造など、
どうでもいいことをよく覚えている。

「のぞみ」号ができて、
新幹線はどんどん鼻が高くなって、
団子っ鼻は今では一部のこだまでしか走っていない。
当時、
最先端だった流線形も、
すでにレトロ感を漂わせているではないか。

あと20年もすれば、
夜中のBSなんかで、
SLとともに、
懐かしの列車として放送されるのだろう。

ゆっくり休んでくれ。
ぼくは、
いましばらく現役で走り続けるよ。


●ハイビジョンを見たさに、あまり縁のない番組まで見てしまう。映像の美しさは段違いだ。昨日出かける時、その大画面で母は「吉本新喜劇」を見ていた。面白さは変わらないようだ。

2008年11月22日土曜日

閉店

散髪屋の店頭で回っている、
赤と青と白の「渦巻き」は、
動脈と静脈と包帯を表していて、
それは昔、
外科医が散髪を兼ねていたからだと、
何かで読んだことがある。



駅の帰り、
いつもの渦巻きがないことにフト気づいた。
「ABC」という、
身も蓋もない名前の散髪屋さんは、
ぼくが子どものころからあって、
高校生までは通っていた。

順番待ちの椅子で漫画雑誌を読みふけったこと、
新入りの店員に当たると、
子供心に「大丈夫かな」と思ったこと。
きっちりセットしてくれた髪型が恥ずかしくて、
店を出るなり手櫛でぐしゃぐしゃにしたこと。。。



40年は営業していたはずだ。
大学生になって上京してからは、
ついに二度と行く事はなかったけど、
死んだ親父はずっと通い続けていた。

店主が仕事中に倒れたという話を聞いたことがあって、
剃刀を使っている時だったら怖いなと思ったことがある。

ぼくが通っていたころは、
店主がちょうど今のぼくぐらいの年齢だったのだろう。
結局、
後継者がおらず、
店じまいすることにしたのだそうだ。



うちの近所には同じように、
60歳をとうに過ぎた人たちが続けている店がいくつかある。
みな、
今のぼくよりうんと若い時にこの地に店を構え、
一生懸命精を出して働き、
子供を一人前にし、
もはや「余生」という年代に差し掛かっている。



結局、
「ABC」という名前の由来すら知らないままだ。
たぶん大した訳などないのだろう。
同じように長いことやってる喫茶店だって、
「ブルー」とあっさりしたものだ。
そんなことに凝る時代じゃなかったのだ。



閉店したその店の数軒おいた並びに、
黒と金を基調にした美容院が開店準備に追われていた。

「GOLD」というゴージャズな名前のその店は、
これからどんな歴史を刻むのだろう。


●リビングのTVがついに薄型に変身した。我が家にとっては革命的出来事。ハイビジョンって本当にすごい。布袋寅泰の東大寺ライブに見入ってしまった。しばらく病みつきになりそうだ。

2008年11月21日金曜日

凡人

山口百恵がNHK紅白歌合戦で、
「プレイバックpart2」を歌った時、
「緑の中を走りぬけてく真っ赤なポルシェ」
と歌うべきところを、
「ポルシェ」は商品名だから、
「真っ赤な車」と歌わされていて、
子供心に、
ひどいことするなぁと思った。



やまぐちももえ?

ぷれいばっくぱあとつう?



若い人には通じない話だろうな。

NHKって一応公共放送なので、
商品の「宣伝」はしちゃいけないんだな。
だからコマーシャルないでしょ。



そぉなんですかぁ

でも会社の宣伝とか、
CMソングとかバンバンかかってますけどぉ



今はね、
とっても柔らかくなったんだよNHKも。
だから槇原敬之がSONGSに出てたんだよ。

よかったね、
マッキーって、
分からない人はそれでいいんだけど、
本題はそのSONGS。


代表作「世界に一つだけの花」について、
彼が、

「運動会で順位をつけるなという風に理解されるのは心外だ」

というようなことを言っていて、
なるほどと思った。

だれにでも個性があって、
それは尊重されなきゃなんないけど、
「だから競争はいかん」という論理は、
飛躍している。

個性だって切磋琢磨しなければ、
ただの石ころだ。
すごい努力して磨いている人と、
なーんにもしないでゴロゴロしている人とが、
同じ扱いを受けるべきとは、
ぼくは思わない。

結果のことを言ってるんじゃない。
何にもしないで才能だけで1位になる奴より、
必死で頑張って入賞する奴の方が、
ぼくは好きだ。

だから、
「凡人ブーム」にも反対だ。



ぼんじんぶうむって何ですかぁ



ぼくが勝手に言ってるだけだけど、
最近、
かけがえのない人生とか、
平凡こそが一番難しいとか、
真実なんだけど、
言葉だけが独り歩きして、
あたかも、
「何もしないでも生きているだけで十分尊い」
みたいな価値観が広まっているようで、
そうなると、
ぼくの偏屈の虫が騒ぎだす。

ちょっと違うんじゃないの?
と言いたくなる。

そりゃ、
働かずにタロイモ食って生きて行くのは夢だけど、
ぼくが本当にそんな生活に放り込まれたら、
そこでまた、
何かゴソゴソ始めるに違いない。

好奇心がなきゃ、
生きてる意味がないじゃないか。



羞恥心ならありますけどぉ。。。


●どーしちゃったのというほどに寒い。で、急きょインフルエンザの予防注射を受けた●最近John Mayerが気に入って、DVDまで買ってしまった。ついでにイノセンスのDVDも。

2008年11月20日木曜日

頻繁を「はんざつ」
踏襲を「ふしゅう」
と読んじゃった麻生総理大臣。

今度は、
「社会的常識の欠落している医者が多い」発言。
ぼくの友達にも医者はいるけど、
彼は、
うーん、
まともだと思う。

麻生総理、
「漫画ばっかり読んでるから」と突っ込まれても、
仕方なし。



こういう人が総理大臣に適任だというのは、
永田町的常識で、
社会的常識では、
間違いなく不適任だ。
彼に社会的常識があれば、
とっくに総理辞めてるでしょ。
というか、
ならないでしょ。



この人の勘違い振りは前にも書いたような気がするけど、
第一に自分が人気者だと思っているフシがある。
小さな間違いは許してもらえるキャラだと。

あるいは「大人物」ぶりたいのかもしれない。
本人は「豪放磊落」と思っているかもしれないが、
あれはただの「厚顔無恥」。



一斉学力テストが必要なのは国会議員の方だ。
もちろん結果はプライバシーを全く考慮することなく、
実名で公開してほしい。

いや、
全員、
ヘキサゴンに出てもらおう。
ならぼくも見る。


●NHK「東京カワイイTV」は好きな番組だけど、制服の改造を奨励するような今日の内容はNG。彼女らの創造力は高く認めるけど、それはどうか、制服以外のファッションで発揮して欲しい。女子高生をJKと略すとは知らなかった●キムタク36歳。ちょっとびっくりした。

2008年11月19日水曜日

左右

エスカレーターに乗るとき、
関西は左を空け、
関東は右を空ける。

左右の逆転は名古屋あたりで起きると、
確か「探偵ナイトスクープ」でやっていた(はず)。

でも何故そんな現象が起きるのか、
確かそこまでは解明してなかった(はず)。



偶然というのは、
合理的説明がつかない時の言い訳だと、
小林秀雄が言っていた。

エスカレーターの件だって、
きっと理由はあるはずなのだ。
3分間隔で新幹線が東西を行きかう時代に尚、
こんな状態が続いているのには、
しっかりとした根拠があるはずなのだ。



風呂の湯を抜いたとき、
北半球と南半球では、
湯の渦のでき方が逆になる。

時点の関係だったと思うけど、
例えばそんな風なことかもしれない。



同じ日本列島で、
こういう明確な差が生まれるということは、
別の意味でも興味深い。

それは進化の観点だ。

最新の生物科学によると、
遺伝子にはハンドルの「遊び」のような部分があって、
突然変異でなくても、
ある方向へ変化する可能性があるのだそうだ。

同じ条件を与えられても、
違う振る舞いをすることがあるということで、
エスカレーターの「左右」の件も、
案外、
そんなことと関係あるのではないかしらん?


●読売新聞16日朝刊、文化面で「ダーウィンのジレンマを解く」という本の書評を読んでふと思ったじゃず家セッション。きょうは最後のほうまでドラマーがいなかった。こんな偏りにも、絶対理由があるはずだ。で、肝心の歌は進化しているのか、どうなのか。。。

2008年11月18日火曜日

とある女性に貸した本が、
なかなか帰ってこない。

たまに顔を合わせるたびに、


「あとこれぐらい」


と人差し指と親指で作る厚みが、
増えたり減ったりしているから、
きっと、
まだだいぶかかるだろう。

ぼくが無理やり渡したのだから、
せかす道理はなく、
かえって、
会うたびに釈明させてしまうことになってしまい、
こちらが申し訳なくなる。


彼女は、
ぼくが引いた線が面白いという。

なぜこんなところに、
と考えていると、
なかなか読み進まないのだという。

たぶん言い訳だろうけど、
確かにぼくは気に行った本には、
線を引く。
しかも3色ボールペンで。

ホントにそれが面白いなら、
商売になるかもしれないな。
もちろんぼくじゃなく、
誰か有名人に線を引いてもらって、
「○○さん直筆線入り」として並べれば、
少しは付加価値がつく(かもしれない)。


あの人の線を意識すると分かりやすい。

この線には味がある。

まったく違う読み方ができました。

顔写真入りで「私が線を引きました」。。。。


人気ランキングができて、
そうこうしていると、
きっと中国製の偽物が出てくるかもしれない。

などと、
くだらぬ事を考えているうちに、
もう夜明けが近い。


●本をバッグに入れずに出かけて、携帯を忘れた時と同じぐらい焦った。ぼくにとって本は、携帯と同じぐらいには大切だということだナ●そういえば、最近、本について書いていないな。読んでいないわけじゃないから、そのうちどどーっと書くかも●日曜日、父の一周忌が無事に終わり、夜は赤松真理さん(pf)トリオを聴きに武庫之荘・Mクアトロへ。いつもながら丁寧な演奏に耳をゆだね、素敵なひとときを過ごす。●水原勇気が本当になった。興味津津。

2008年11月16日日曜日

将棋

駒の動かし方は知っているけど、
とても「指せる」とは言い難い将棋。

それでも棋士の言葉に接したり、
竜王戦の中継を見たりするのは好きで、
色んなことを気付かせてくれる。


彼らは将棋盤を挟んで座っているのだが、
実際は刀を持った剣士だ。

比喩じゃなく、
隙あらば互いを一刀両断にしようと構え、
じりじり間合いを詰める剣士そのものだ。

あるいは、
相手の繰り出すパンチを間一髪かわしながら、
同時にパンチを繰り出すボクサー。

「静」に見える二人の棋士の頭の中は、
一瞬たりとも気を抜くことのない「動」だ。
サッカーや卓球の激しい動きと何ら変わりはない。
ただ見えないだけだ。


将棋には、
途中のある時点での駒の全配置が、
過去の対局と全く同じになることがある。
だけど、
そこに至るまでの経緯は異なり、
たとえ、
経過さえも同じであったとしても、
棋士の頭の中の戦いは同じでありえない。

極論、
初手から終局まで、
まったく同じ棋譜が過去にあったとしても、
二つの対局は全く別のものだ。
棋譜は、
ある対局のほんの一部を記録したに過ぎない。
楽譜が、
奏でられる音楽の一部でしかないのと同じように。


たとえ近い将来、
コンピューターが将棋の「解」、
つまり先手必勝か後手必勝かを導きだしたとしても、
将棋の面白みが損なわれるものではない。

コンピューターは、
考えうる駒の動きすべてのパターンを、
網羅的に計算しつくしただけであって、
そこにはルールに基づいた「解」はあっても、
「勝負」はない。


将棋の醍醐味は、
闘う生身の棋士の「あり様」そのものだ。
だから、
その対局の醍醐味を真に理解しうるのは、
対局者同士だけであって、
それ以外の者は傍観者に過ぎない。

音楽の真の醍醐味も、
演奏されたその場にいた者だけが得られる、
ダイナミズムにこそある。

2008年11月15日土曜日

白洲次郎と白洲正子


この二人ほど粋な夫婦は、
めったにいないんじゃないか。

今宵のNHK「ミューズの微笑」は、
昭和を代表するこの夫婦が、
半世紀を過ごした、
東京・町田の家を紹介していた。

古い農家を買い取ったというその家は、
二人の美意識で貫かれ、
特に、
日常生活における美にこだわりぬいている点で、
とても面白かった。

二人は、
人間国宝作の食器でさえ日常使いし、
贋作とわかったとっくりでも、
自分が気に入ってしまった以上、
終世愛したという。


二人の言葉ではないのだけど、
「頭で見るな、目だけで見ろ」というフレーズが、
印象的だった。


「武相荘(ぶあいそう)」と次郎が名づけたその家は、
一般公開されているという。


行ってみたい場所が増えた。


ところで、
ぼくが今住むこの家の主である、
父が死んでもうすぐ1年になる。
明日は早めの一周忌だ。

ぼくは普段、
親父の椅子に座り、
机に向かってこのブログを書いている。

親父はここにはいないけど、
この家の主は、
ずっと親父だと感じる。


●白洲次郎、正子夫婦を知らない方は、お調べください●セッションで知り合ったドラマー渋江光晴さんのお勧めで14日、三宮のHolly’sでYOKO(vo)のライブに行った。王道を行くステージに感じ入り、ついでに厚かましくも1曲歌わせていただいた。貴重な経験でした●そういえば、先日のじゃず家セッションで聞いた岡里美さんの歌もとても素敵だった。ぼくの耳は「もっと聞きたい」と確かに願っていた。で、感想を伝え「ここは初めてですか」と尋ねると、彼女、ぼくを見て「何度も拝見してます」。ってことはぼくも何度か聞いてるはずなのに。。。きっと彼女が進歩したんだ。そうだそうだ●竜王戦、羽生3連勝で永世竜王に王手。強い。渡辺、頑張れ!●忘れてた。クルム伊達、超人。

2008年11月14日金曜日

出会い

イチローが以前、
「仰木監督に出会ってなければ、もっと凄い選手になっていたかもしれない」
という趣旨のことを言っていて、
非常に興味深く思った。

「仰木監督」というのは、
亡くなった仰木彬氏のことで、
オリックス時代に2軍にいた鈴木一朗の才能を見抜き、
「イチロー」と名付けて1軍に抜擢した名伯楽である。

その大恩人に出会ってなかったら「もっと凄い選手になっていたかも」など、
並みの人間には口が裂けても言えまい。


ぼくは何も、
イチローが恩知らずとか、
うぬぼれているなどと言いたいわけではない。
イチローの言葉から、
「出会い」について考えてみたいのだ。


あの人がいなかったら今の自分はない。
それは真実だ。
出会った結果として今のその人がいるのだから。

でも違う人と出会っていれば、
違う自分になっていたはずだ。

こういう考えを広げていくと、
世界中のすべての人がいる(いた)からこそ、
今の自分であるということになり、
結局、
「君がいてぼくがいる」と、
チャーリー浜のギャグになってしまう。


よく、
「出会うべくして出会った」とか、
「運命の出会い」とかいう言い方があるけど、
本当にそんなものはあるのだろうか。

誰かと出会い、
友達になったり、
恋人になったり、
夫婦になったり、
いがみ合ったり、
憎しみ合ったり、
何とも思わずにいたり、
そんな遥かな積み重ねの上に自分がある。

この私は、
過去に出会ったあらゆる人の賜物であって、
後戻りはできない。
もっと前にこの人と出会っていたらとか、
あの人とあの時会わなければよかったとか、
いくら考えても答えはない。

どんなにあがいても、
人は時間のレールを逆行はできない。
人は前しか向けない。


だから、
イチローの言っていることは、
「たら、れば」を言っても仕方がないという、
滅茶苦茶ポジティブな人生観を、
逆説的に言っているわけだ。

イチローが言いたいのは、
仰木監督が「いたからこそ」今の自分がいるんだということを、
「!!!」という感じで表現しているわけだ。

なぁるほど、
そういう感謝の表わし方もあるのか。


●一時帰宅したので、以前に書きかけて保存しておいた文章に手を加えて掲載しました●ここ数日、ほんとにいい天気で、気持ち良くて。。。

2008年11月13日木曜日

進化

近頃、
仕事が少し忙しく、
出勤時の夕食は手早い天下一品が続いた。


「チャーハン定食、ラーメンの出汁はあっさり」


ここでの注文はこれ一本だ。


ある日、
音楽を聴きながら店に入ると、
いつものバイトの女の子が水を手に、
注文をとりにやってきた。




「同じで」



自分でも思わぬ言葉が口をつき、
驚くのもつかの間、
バイトの子は、
「ハイ」と返事。

すました顔で厨房へ戻り、
ちゃんとチャーハン定食あっさりラーメンを持ってきてくれた。



次の日、
今度は女の子が、



「いつものですね」



ぼくはただうなずくだけだった。



その次の日


女の子は、
ぼくが軽くうなずくだけで、
ちゃーんと持ってきてくれた。


交わす言葉は減ったけど、
何か気持ちが通じてる感じがした。



進化は突然、

そして、

一気に進むんだナ。



●いい天気だったので、ノートPCのメモリーを1GBから2GBに増設することに。やや心配だったが、ヨドバシで買ってきて自分でコチョコチョと。早い早い。すっかり気持ち良くなった。人間の頭は、こう簡単にはいかない●テレビ大阪「本当と嘘とテキーラ」。山田太一脚本。「さすが」というか「らしい」というか。それ以上に配役の豪華なこと。佐藤浩市、樋口可南子、柄本明、そして山崎努…。ほれぼれする演技だった。

2008年11月12日水曜日

本音

何書こうかなぁとPCを開いたら、
デスクトップに、
こんなニュースが表示されている。

 「関東大震災が起きれば、(関西経済に)チャンス」。11日、近畿ブロック知事会議でそう発言した兵庫県の井戸敏三知事はその夜、神戸市内で急きょ開いた記者会見で「震災が望ましいとは言っていない。備えが大切だと訴えたつもりだ」と釈明に追われた。発言の撤回や謝罪はなく、防災に携わるボランティアらからは「非常識」「言葉を失う」と、厳しい声が相次いだ。
 「なぜ、こういう質問を受けているのか理解できない」。会見した井戸知事は何度も困惑した表情を浮かべた。 (asahi.com)


そして、
 参院外交防衛委員会は11日、政府見解に反する歴史認識を懸賞論文に投稿して更迭された前航空幕僚長の田母神俊雄氏を参考人として呼んだ。質疑では田母神氏が憲法が禁じた集団的自衛権の行使を訴えるなど持論を展開。文民統制を巡る問題を浮き彫りにした。野党は航空自衛隊トップの資質を疑問視し、政府の任命責任を問う声がくすぶる。幹部教育のあり方なども今後の論点になりそうだ。
 田母神氏は同日の質疑でも集団的自衛権の行使が必要だとしたうえで「(憲法を)改正すべきだ」と強調。「良い国だと言ったら解任された。ちょっと変だ」などと主張した。(NIKKEI NET)


井戸田・兵庫県知事と、
田母神・前航空幕僚長。

普段はいるのかいないのか、
存在そのものがまったく気にならない2人が、
大いに注目を集めている。


失言
「言ってはいけないことを、不注意で言ってしまうこと。言いあやまり。過言」(広辞苑)


これに従えば、
田母神氏は確信犯だから、
失言とは呼べまい。

また、
井戸田知事は今のところ、
意図を誤魔化して逃げ切るつもりのようで、
少なくとも本人は「失言」とは認めていない。

ただ、
お二人に共通しているのは、
「私の発言の何が問題なのか」という態度だ。

世間ではこれを、
「居直り」と呼ぶ。

ところで今日、
とあるピアニストの伴奏で歌っていたら、
彼女の3歳ぐらいの男の子が、
階段をトコトコ降りてきて、
ぼくに、


「ウマいね」


と言ってニコッと笑った。

憎いね、
坊や!


●天満「じゃず家」セッション。3曲。帰りがけに、ホストミュージシャンだったベーシストが、さっと手を差し出して握手してくれた。これも嬉しかったなぁ。そういうのでぼくは生きている。

2008年11月11日火曜日

自覚

ケータイを忘れて出勤した。

母に用事があって、
電話しようとしてフト、
「オレオレ詐欺」のマネをしてみようか、
と思ったけど、
会社の電話だったのでさすがにやめた。

ということを帰宅して話したら、


「あぶないねん」


と神妙な返事。


「きょうな変な電話がかかってきてな」


何それ?


「リゾートの申し込みやねん」


それで?


「つい話してしまうねん」


は?


「切らなあかんって思うやろ、そしたら『私東京からかけてるんです』って」

「そしたら電話代もったいないですやん言うてしもて」

「ほんなら『いえこれは私の仕事ですから』って言うから、大変ですなぁって、また話してしもてん」

「だから心配やねん」


で、
どうやって断ったん?


「どこやらのリゾートやって言うから、そんなん、ウチで十分ですって」


我が家でリゾート気分を味わえる母。


うらやましい限りだが、

ホンマに危ないかも。。。


●母ネタ連発で恐縮●他人のブログを見て、これ知的!と思ったので、レイアウト変えました。いかがでしょう?●巨人、王手から連敗。でも、見ごたえのあるシリーズだった。

2008年11月9日日曜日

直感

ガウディのサグラダ・ファミリアが、
NHKで紹介されていて、
母が画面を食い入るように見ている。











ははーん、
ここも行ったことがあるのね。


するとナレーションが、
「完成までにはまだ100年かかるとも言われています」
と解説した。


母は「エッ、ひゃくねんも」と声を上ずらせた。




「そんなん、地球ないやん」



。。。。。。。。



お年寄りの直観だとしたら恐ろしい。


いつもの言い間違いだろうけど。

2008年11月8日土曜日

TK

TK逮捕。

彼のことは、
特別好きではなかったけど、
90年代といえば、
ぼくが20代後半から30代前半にかけて。
彼の生んだ楽曲がぼくに影響を及ぼさない訳はなく、
正直驚いた。

もはや手元にない著作権を譲ると言って、
5億円をだまし取ったという。
本人も認めているようだし、
絵に描いたような詐欺罪だ。
専門家によると、
5年ほどの実刑判決が下る可能性がある。

連日マスコミをにぎわしていて、
彼のことをよく知らない母でさえ、
「そんなに借金があるのに、家賃280万円のところに住んどったらあかんワ」
と言う。
母に限らず世間一般、
そういう見方が多いのだろう。

見栄を張らず、
コツコツ借金を返していればよかったと。

「落ちた時代の寵児」

そう括るのはたやすいけど、
ぼくは、
それほどに割り切れない。

彼は音楽が好きだった。
そして才能があった。

時代とマッチして、
作った楽曲は売れに売れ、
一時の年収は30億円とか。

アジア進出を目指し香港に会社を設立。
ところが株が暴落して、
一気に数十億円の借金を背負った。。。

大体そういう理解をしているんだけど、
彼が数十億円の負債を抱え込んだということは、
それだけの金が誰かの懐に入ったということだ。

彼はミュージシャンであって、
実業家ではなかった。
その彼を「利用」してひと儲けした者たちがいる。

1年365日、
借金のことが、
彼の頭から離れることはなかっただろう。
家屋敷、
売却可能なものはすべて抵当に取られ、
おまけに前妻への7億円ともいわれる慰謝料の支払いもある。

そんな状況で、
まともな判断などできゃしない。
ましてや、
いい楽曲を作れるはずもない。

数十億円なんて、
ぼくは抱えたことも、
背負ったこともないが、
借金を返すためなら、
嘘でも誤魔化しでも何でもやってしまう、
そういう心持ちは、
ぼくは分かる。

地獄にいる人は、
自分が地獄にいることにさえ気づかない。




彼をそこに突き落としたのは誰か。。。




彼の今の妻は彼を支えると言っているそうだ。
TMネットワークで一緒だった二人も、
彼ともう一度音楽をやりたいと。

彼のことを信じている人がいる限り、
彼は立ち直ると思うし、
ぼくは、
こんな状況でも信じてくれる人がいる彼を、
断固応援する。


●DEPARTURES。好きだ。「どこまでも限りなく 降り積もる雪とあなたへの想い 少しでも 伝えたくて届けたくて そばに居て欲しくて 凍える夜 待ち合わせも出来ないまま 明日を探してる いつだって思い出をつくるときには あなたと二人がいい」●TKと同じように数十億の借金を盟友の裏切りで背負ったYAZAWAは見事完済した。グレイトだ●日経7日夕刊「人間発見」--クライマー山野井泰史さん「ボクとしては70歳、80歳になっても、(妻の)妙子と小さな岩にでも登れれば最高の人生だと思っています。自分にとって山で死ぬことはごく自然なことです。ある日、山で突然、死が訪れても覚悟ができています。どんな悲惨な死に方をしても、悲しんでほしくはありません」

2008年11月7日金曜日

光景

JR甲子園口駅は、
ホームに上がる階段が東の端にしかなくて、
だから、
大阪方面への各駅停車にはは、
自然と先頭車両から乗ることになる。

今日の昼過ぎもそうして、
ぼくは電車に入った。


黄黄黄黄 黄黄黄黄黄黄黄 黄黄黄黄黄黄黄 黄黄黄黄黄黄黄 黄黄黄黄


黄黄黄黄 黄黄黄黄黄黄黄 黄黄黄黄黄黄黄 黄黄黄黄黄黄黄 黄黄黄黄


という光景が目に入った。


黄色い帽子をかぶった幼稚園児が、
みごとに席を埋めていた。


こりゃちょっと苦手だと思い、
二両目に行こうとしたが、





赤赤赤赤 赤赤赤赤赤赤赤 赤赤赤赤赤赤赤 赤赤赤赤赤赤赤 赤赤赤赤


赤赤赤赤 赤赤赤赤赤赤赤 赤赤赤赤赤赤赤 赤赤赤赤赤赤赤 赤赤赤赤




となっていたので、
1両目の一番後ろのドアのところで立つことにした。


園児らは、
行儀よく座っている。



どうせ次で降りるだろう。


そう読んでいたら、
降りない。


その次でも降りない。


大阪駅まではあと2駅だ。




その時。



一人のおばあさんが、
2両目から「避難」してきた。

手には杖を持っている。



おばあさんはしゃれた洋服を着ていて、
杖は持ってはいるもののつかつかと、
意外にしっかりした足取りで前へ歩いて行く。


先頭には優先座席があるが、
もちろんそこも黄色で埋まっていた。

どうなるのかと思って見ていたら、
おばあさんは一番前の手前のドアのところで立ち止まってしまった。

ぼくが行って先生に何か言ってみようかと思ったものの、
いやきっと先生も気がついておばあさんに席を譲らせるだろうと、
そう考え直してしばらく様子を見ていた。

2駅目と3駅目の間、
つまり尼崎と塚本の間で、
ようやく先生が優先座席の園児を全員立たせた、
園児らは運転席のところに駆け寄り、
走る電車の前方を喜んで見始めた。

ところが、
先生はおばあさんに何も声をかけなかった。

だから、
綺麗に黄色で埋まった座席とポッカリ空いた優先座席、
そして、
そのそばに立つおばあさんという、
誠に奇妙な光景ができあがった。

少し立たせるタイミングが遅かったために、
一言「よろしかったらお座りください」と言わなかったばかりに、
おばあさんは座りそびれてしまった。

塚本に着くと、
さらに一人おじいさんが乗ってきて、
また優先座席のそばで立った。

ぼくも含めた皆が、
微妙な心のバランスを保ったまま、
大阪駅に着いてしまった。


大阪駅では流石にたくさんの人が待っていた。
ぼくは降りたが、
園児はまだ先へ行くようだった。


それからのことは、
だからわからない。


●三宮グレート・ブルーのセッション。第1木曜日への参加は初めてだった。自転車乗りは、着実にうまくなっていると思う●17年前にウナギ研究を始めた。当時、ウナギは幼生期には何を食べるのかさえわからない未知の魚だった。「プランクトンや魚粉などを試したが、エサを与えれば死ぬ、の連続だった。失敗するたびに不整脈や目まいに襲われた。4年後、サメの卵を食べることを突き止めた(読売6日夕刊社会面「明日へ 微妙で繊細 ウナギ繁殖」)●「ボストンで勝ったあと、街を堂々と歩いている自分がいたの。ずっとコンプレックスのかたまりだったのに、やせっぽちの体も短い足も、もう気にならない。私は小さいけれど性能は世界一なんだ、と」(朝日6日夕刊「ニッポン人脈記」1974年のボストンマラソン優勝・ゴーマン美智子さん)

2008年11月6日木曜日

新聞

暇な時間に新聞を読み比べていたら、
こんな文章に出会った。(すべて5日夕刊)

まずは朝日新聞。

<ザマみろぃ、人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ>

<おう? てめえ、さしずめインテリだな>

<庭一面に咲いたリンドウの花、あかあかと灯りのついた茶の間、にぎやかに食事をする家族たち、それが本当の人間の生活ってもんじゃないか>

(一面「ニッポン人脈記」から寅さんの科白)


 もともと自由奔放な演奏が魅力の山下は最初、「私とやる以上は、崩壊してもらうよ」と念を押した。

(芸能面「山下洋輔NY・トリオ」20年)


 評価されたのは音質の良さ。設計・施工を担当した竹中工務店(大阪市中央区)設計部は残響1.7秒を生みだした。腐心したのが天井の啓上と壁の凹凸。なかでも壁は「棺おけが壁に張り付いているようだ」と批判されたが、反射音がうまく拡散していく形状こそが同社のこだわりだった。

(芸能面「50thありがとう!フェスティバルホール)


 この春、アマゾン日本版で不思議な現象が起きた。ある洗剤の商品名を検索すると、何の関係もなさそうな商品が次々に現れる。薬品、家電製品用のタイマー付きコンセント、ポリ袋、そして「自殺」に関する書籍。タイマー付きコンセントは、自殺した後、扇風機などの電源を入れ、ガスを拡散させて巻き添え被害を防ごうと考えた人が買ったらしい。「おすすめ」が示していたのは、そういうことだった。
 「アマゾンに現れたのは、単なるモノたちの陳列表示。だが、その画面の向こうに、今まさに自殺しようとして苦しんでいる人たちの姿が、浮かんでくるような気がした」

(芸能面「ネットはいま」))


次は読売新聞


 究極といえるのが、今年、東京・上野で開かれた「井上雅彦 最後のマンガ展」だ。漫画家の展覧会=原画展という常識を打ち破り、まだ描かれていない「バガボンド」の最終話を書き下ろして展示した。大小様々なキャンバスに描かれた漫画は、漫画を超え、日本画も超えたと絶賛された。「漫画の空間の中に入って、歩きながら進んでいくような経験をしてもらいたかった」。そういう井上の目には、最終日には入場者10万人の感情が絵に送られ、絵の表面に油膜が張ったように見えたという。

「『ガリガリ君』のプリン味。あれうまいです」

「この前ディズニーランドのパレードで泣きそうになりました。『ウォルト・ディズニーがこれ見たら泣くぞ、きっと』と共感して(笑)」

(popstyle)


「ライブには、精神の美しさのすべてを集結させなければ」

(エンターテイメント面「旬感 瞬間」)


「危険運転致死罪が懲役1年以上20年以下であるのに対し、ひき逃げは10年以下と軽いことが『逃げた方が得』につながる面もある」

(社会面「ひき逃げ事件 10年で2倍」)


 小浜市の農業緩詰行雄さん(74)は「オバマさんの勝利を信じていた。ぜひ小浜に来てほしい」と興奮気味。オバマ氏の出身地・米ハワイ州にちなんで結成されたフラダンスチーム「おばまボーイズ」「おばまガールズ」も、お祝いの踊りを披露した。

(社会面「米大統領にオバマ氏」)



だから新聞は面白い。


●なーんにも考えられない日にはこれがいいと思ったが、自分で考えて書くより疲れた●オバマ氏、小浜に来るまで無事だろうか。心配だ。

2008年11月5日水曜日

信じるⅡ

「信じる」とは「信じる人になる」ということだ。
「なる」というのは「である」のではなく「変わる」ということだ。

でもそれは「清水の舞台から飛び降りる」とか「一世一代の決意」とか大それたことではないだろう。
イスラム教徒が日に何度も祈るように、
母が子の安全を願ってお百度を踏むように、
運動を繰り返すことによって、
ある日「信じる人になっている」。

ぼくの脳だけを取り出して、
生物学的には「生かして」おくことができたとして、
その時「ぼく」はどうなるのか。
恐らくとても短い時間で「ぼく」はフェードアウトしてしまうだろう。
「体」というインプットなしで「ぼく」を維持することはできない。

「ぼく」を作っているのは体の運動にほかならない。
「読む」ことも文字を見るという運動から始まる。
運動と切り離された理屈を頭の中でこねくって分かったつもりにはなれても、
本当に分かったことにはならない。
「ぼく」は脳の中にしかないとしても、
頭蓋をぶち割って脳みそを対象になすりつけるようにしなければ、
本当には分からない。

何を信じ、
何を分かりたいか。
それを決めるのは直観だ。
直感もまた、
運動でしか磨くことはできない。

ぼくは3年前の夏、、
「小説の自由」(保坂和志著、新潮社)を読んだ。
アウグスティヌスのくだりがとても印象的だった。
そこに共鳴できた自分は、
まんざらでもなかった。


●ちょっと別のところに書いた文章をコピペしてます。雰囲気違う、よな●TK逮捕。彼は金持ちではあったが、金持ちには「なれなかった」。時代を踊らせていたはずが、実は踊らされていた?じゃ踊ったぼくはどうなる?●小林秀雄のCDはいい。よく眠れる上、自分が賢くなった気がする。

2008年11月4日火曜日

信じる

ラマチャンドランの幻肢についての本や、
錯視について書かれたものを読むと、
ぼくの脳など、
本当にヤワイものだなと思う。
ほんのちょっと傷ついたり、
わずかな量の薬物を摂ったりしただけで、
人格さえ簡単に変わってしまう。
脳をだますのもたやすい。

脳科学を聞きかじると、
「ぼく」なんてそんなものか、
すべては脳内現象で、
ぼくはその「外」には出られないのかと少し悲しい。
それでも「外」の気配ぐらいは感じてみたいから、
あれこれもがく。

何かを信じる、
信じ切るには、
体を使うしかない。
理屈なんて役立たずだ。
「体中の細胞すべてを信じさせる」ぐらいの情熱と繰り返しで、
自分で自分をねじ伏せるしかない。
説を信じるためには、
本だって体で読まねばならない。

何かを自分から信じていかないと、
「だれかに、いつのまにか信じ込まされたまま」死んでしまう。
それは怖いことだ。


●TKに逮捕状。栄枯盛衰●リビングのTVがいよいよ駄目だ。親父の一周忌が済んだら買うことになりそう。母はすでにパンフレットを取り寄せた。「何型がいい?」と尋ねるので「50肩なんやから50型にしたら」と答えると、意外に受けた●おやすみなさい。

2008年11月3日月曜日

一発屋

平田隆夫とセルスターズ。

ぼくが子どものころ、
このバンドが大好きだった。

特にデビュー曲の「悪魔がにくい」が、
大好きだった。
1971年、
小学2年生の夏の曲。
ぼくはラジオから流れるこの曲に夢中だった。

「ぼくにーわーなーぜかわからない おまえーのーうつりぎーがー」

なんて歌詞、
なぜか分かるはずないのに。

一般には2曲目の「ハチのムサシは死んだのさ」の方が有名かもしれない。
1972年、
彼らはこの曲で紅白歌合戦に出場した。

年末恒例のこの番組、
当時の威光は、
今とは比べモノにならなかった。

ぼくは女性ボーカル二人のうちの、
おさげに丸メガネの方が好きだった。
ウィキペディアで調べてみたら、
「みみんあい」って名前だった。

夢に出てきたほどだから、
好きさ加減は相当なもんだたったと思う。

仮面ライダーも、
ウルトラセブンも、
古代進むも、
ぼくの夢に登場したことはない。

彼らは2曲の大ヒットがあるから、
正確な意味では違うけど、
まぁ「一発屋」と呼んで差支えないだろう。

ほかにも、
「ふられ気分でRock'nRoll」のトムキャット、
「完全無欠のロックンローラー」のアラジン。。。

ネットを見ていたら、
「小柳ゆき」を上げているいるサイトもあった!



ということで、
一発屋の定義はひとそれぞれだけど、
科学者にだって一発屋がいるというのが本題。

キャリー・マリスという生化学者は、
「ポリメラーゼ連鎖反応」という、
DNAの画期的増幅法を考え付いた。

本当に閃き一つ、
分かってみれば(その分野の人には)何てことないらしいが、
彼女とドライブデート中にアイデアを思いついた(らしい)彼は、
それだけで、
1993年のノーベル化学賞を受賞する。

「マリス博士の奇想天外な人生」(キャリー・マリス著、ハヤカワ文庫NF)は、
サーファーで、
4度も結婚して、
LSD体験も隠さない彼が、
半生をつづったものだけど、
抜群に面白かった。


20世紀における科学上のもっとも重要な展開は、科学研究の背後にある動機が、好奇心から経済的なものに変化したことだろう。

アメリカにおけるフロンの生産特許が期限切れになるのと同時に、フロンの使用が禁止されることになった。これは偶然にしては驚くべきタイミングのよさである。世界各国でようやくロイヤリティを払わずにフロンの生産が行えるようになった矢先に、禁止令が出されたのである。そのかわり、新しい代替化合物が登場した。むろんそれは特許で守られている。フロンはこの新製品に置き換えられ、これを生産する企業には再び金が入る仕組みになっているのだ。


ぼくにはこれだけで十分刺激的な話だけど、
占星術についても、


人間を職業別に見てみると、職業によって誕生日に偏りがある。この事実一つとっても、星の運行と人間の器質になんらかの関係があると考えてみたくなる。
(前後するが)
フロイト、ユング、マズロー。確かに彼らの理論は格好いいし、読んでいても楽しい。しかし、われわれはいっこうに良くならないではないか。今もなお、橋から身を投げる人々があとを絶たないではないか。占星術だって人間のかかえる問題すべてに解決をもたらすわけではない。それはアマゾンのまじない師の薬草だって同じことである。しかし現代のまじない師たる科学者は、狭量すぎてそれらを顧みない。占星術のもつ古来からの広範囲な情報が無駄になるのは、まったく残念なことである。


万事こんな調子。
大真面目である。

彼には先入観がない。
世間では「常識」でも、
自分が「科学的に」納得しなければ受け入れない。

彼は山羊座。
ぼくと同じだ。

前に、
ノーベル賞がちょっと変じゃないかという風に書いたけど、
こんな素敵な人にあげたことは、
褒めてあげたいと思った。

ちなみに彼は日本国際賞も受賞していて、
授賞式で両陛下と話をしている。
その時の皇后の素敵な配慮は、
読んでいて微笑ましい。


●時間があると長くなりすぎていけない●しかし、どうしてこの本があまり売れていないのか不思議だ(ぼくが買ったのは2004年の初版だった)●石川遼、プロ初勝利。彼はやはりスターだ●ジュンク堂で小林秀雄のCDを買い、下のドトールでさっきの本を読んだ。それだけの休日●夜、テレビで「余命半年と告げられたら、あなたは何をしますか」と問うている。隣の母は「うーん、何もないわ」。よほど今が幸せなのだろう。

2008年11月2日日曜日

「人は男に生まれるのではない。男になるのだ」

「できそこないの男たち」が言っているのは、
そういうことだ。

人はすべて女に生まれ、
その半分が男に変化する。

ということは、
男の方が進化してるってこと?

違う。
全く違う。

なぜなら、
女だけでも、
生物は命を紡ぐことができる。
男には無理だが。

例えば、
アリマキはメスがメスを生み、
その子供のメスのお腹には、
すでに子供のメスがいる。。。

クローン。

そうだ。
アリマキのメスは、
自分と全く同じ遺伝子の子供を、
オスの力を借りずに生むことができる。
こういう生き物はほかにも沢山いるらしい。

人間だって、
最初は女だけだったという。

じゃ何で男がいるの?

再びアリマキに戻る。

メスがメスを生むアリマキだが、
冬の前の一時期だけ、
メスはオスを生むんだそうだ。
そしてオスは多くのメスと交尾して、
それらのメスは卵を生む。
卵で生むのは越冬させるためらしい。

で面白いのは、
春に卵から孵化したアリマキは、
すべてメス(!)なのだ。

そしてそのメスはまた、
せっせとメスを生む。。。

著者の福岡伸一が言うのは、
アリマキがオスを生むのは、
メス同士の遺伝子のシャフリングのためだという。
そのことでより「進化」したメスが生まれる可能性ができる。

つまりオスは、
メスの遺伝子を混ぜ合わせて進化させるため、
メスが自ら作り出した。
用がなくなればいらない、
「使い捨て」なのである。

生物学的には人間も同じなのだ。

ぼくは先日見た雄ライオンの番組を思い出した。



なるほどなぁ。

ということは、
いずれ、
クローン技術を使って女が女を生むようになり、
男は無用になるのかなぁ。

世界中、
クローンの女ばかりで、
ほんの一部の男だけが、
遺伝子の「かき交ぜ役」として存在を許される世界。







もう11月か。

寒くなってきた。


●この本、面白い。ショウジョウバエの染色体(XY)の話とか、思いだせます●竜王戦第2局。渡辺竜王連敗。ネット中継を見ていて、ド素人ながら興奮した。渡辺頑張れ。奥さんと子供のために●柔道石井、プロ格闘家へ。天皇に嘘はつけないものな。天皇、石井の置かれた状況知ってて尋ねたはず。「せんとくん」の件といい、両陛下なかなかおやりになる。

2008年10月31日金曜日

閾値

「私たちは知っているものしか見ることができない」

「できそこないの男たち」(福岡伸一著、光文社新書)に出てくる、
この一節を読んで、
ぼくは、
最近考えている様々なことが一気につながったような気がした。

だれかほかにも似たような事を言ったり書いたりしているかもしれないけど、
とにかく、
ぼくの中でのつながりは、
この本を読んだ時から始まった。

たぶんこれから、
この事について折りに触れ書くことになるだろう。



例えば、
この本では、
次のような話が紹介されている。

彼が教える大学の学生に、
膵臓の切片を顕微鏡観察させ、
スケッチさせてみると、
何とも頼りない絵しか描けない。

それは、
彼らは膵臓細胞がどのような形をしているか知らないからだ。

ジグソーパズルの1ピースだけで、
何の絵か当てることは至難の技だ。
知っているものしか見えないとは、
そういうことだ。



あるいは、
コインが消える手品。

ぼくが子どものころからあるから、
古典的なのだろうが、
いまでも、
大人でさえ、
驚くほど驚く。

おもちゃ屋で買って、
やったことがあるから、
間違いない。

心理的盲点とでもいうところを、
見事に突いている。

膵臓の件も手品の件も、
同じ事を示している。


「できそこない」にはこんな言葉もある。


「イマジネーションの閾値」


●手品の種を番組で明かしたテレビ局を訴えたマジシャンが敗訴したそうだ。とんでもないことだと思う●奈良の正倉院展を訪れた皇后さん、展示物を見て「せんとくんみたい」と言ったとか。これで「せんとくん」安泰だな。よかった。

2008年10月30日木曜日

理想

ある夕方、
換気扇の下で煙草を吸っていたら、


ススススススッ


と肉まんのような白い物を手に、
母が近寄ってきた。


次に、
ナイロンでできたポンポンのようなものを、
もそもそと箱から取り出し、
その両方を使ってゴソゴソし始めた。


「ほらっ」
と差し出す両手一杯の泡。



すごいすごい。


石鹸なんや。


それで顔洗うの?


「体も洗えるで」


母はそう言うと、
またしばらく泡立てるのだが
次第に「おかしいなぁ」と首をひねるようになった。


どうしたん?


「ボウル一杯になるはずやねんけど」


どうやら、
実演販売のようにならないので、
不満らしい。


いいやん。


両手一杯で。






またある夕方。


母が流しの下から、
様々な色や形の、
台所用スポンジが一杯入った袋を取り出した。


「これ全部で200円やってん」


余りもんまとめたんやな。


「捨てるのもったいなないやろ」




その数日後。


「やっぱり安物はあかん」


なんで?


「しっとりとせえへん」




母には母なりの理想がある。


●珍しく神戸、大阪、武庫之荘と動き回った休日。

2008年10月29日水曜日

「じゃず家」は、
JR環状線の高架下にある。
天満駅から大阪寄りに歩いて3分ほど。
立ち飲み屋のおばちゃんの視線をくぐりぬけ、
薄暗い高架沿いの道を50メートルほど行くと、
クリスマスツリーに付ける電飾が目に入ってくる。

今日こそは決めるぞ。

軽く歌いながら店の前につくと、
中から漏れてくる演奏やら歌声に奮い立つ。
バイトの男の子に2000円払い、
アイスコーヒーとチーズクラッカーを頼んで2階へ上がる。
2階は煙草が吸えるのだ。


しばらくして名前が呼ばれる。
さぁ出番だ。
譜面と録音機を持って階段を降りる。

楽器の人に譜面を渡しながら、
「よろしくお願いします」とあいさつし、
段取りも手短に説明する。
カウントをとって演奏が始まる。。。

ここには、
昨年暮れから通いだし、
もう30回ほどは来ている。
顔なじみも増えたし、
さすがに「上がる」ということはない。
最初のころに比べれば、
我ながら「まし」になったと思う。

でも、
歌い手にとって、
本番の「罠」はまだまだ沢山ある。

まず、
演奏があるということ。
セッションなんだから当たり前だけど、
バックの音量につられて、
つい声を張り上げてしまう。
自宅やカラオケボックスでの練習のようにうまくいかない場合、
このことに注意しないといけない。

そして,
最大の支えであるマイクにも罠がある。

といっても、
マイク自体の質とか、
PAのことを言いたいんじゃない。
マイクが口の前にあるというだけで、
つい、
首から上に気をとられる。
このことが、
リラックスを阻むのだ。

いくら気をつけていても、
目の前にマイクがあって、
拡大された自分の声を聞いた時に、
生理的に口元に神経がいくのだと思う。

こういう「つい」は、
頭で理解していても、
体が勝手に反応してしまうから怖い。

そして、
本番が終った途端に気付くことが多い。

神様、
もう一回お願いっていう感じだ。

でも、
次もまんまと引っ掛かる。

振り込め詐欺に騙されるお年寄りだって、
きっとこんなようなもんだろう。

分かっちゃいるけど落ちる穴。
失敗に落とし込む「罠」は、
自分の中にある。


●何だかジャズ以前の話で情けないんだけど、これが今日のぼくの収穫です●南北朝時代の日本刀に2500万円の値。「何でも鑑定団」の話です。

2008年10月28日火曜日

納得

梅田に出たついでに、
福岡伸一の新著を買おうと、
紀伊国屋へ行った。

ビッグマンに向かって左側から入り、
雑誌売り場の人ゴミを抜け、
文庫コーナーへ。
目的の新書はその先だ。

その時。




「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」
「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」
「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」
「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」「凍」




という光景が目に入った。
沢木耕太郎の「凍」が文庫化され、
棚いっぱい平積みされている。

ぼくが24日に買ったのは、
単行本だ。





あの時、
すでに文庫化されてたのか、
ぼくは知らない(知りたくない)。
されていても、
ジュンク堂の店員が、

「あのぉこれ文庫になってますけどいいんですか?」

などと聞いてくれるわけない。

以前のぼくなら、
絶対に悔しがっただろうが、
今日は、
不思議なほど何とも思わなかった。

確かに値段は三分の一。
「損」といえばそうだ。
でも、
後悔している時間の方がもっともったいない。
今はそう思う。

あの日、
たまたま入ったジュンク堂で、
ぼくは単行本の「凍」に出会ったのだ。
そして一気に読んで満足した。

それでよかったんだ。

でも、
もし買っただけで未読だったら、
凹んだだろうなぁ。

よかった。

読んどいて。


●今日のNHKトップランナーは女性フリークライマーだった。これも何かの縁か●久しぶりのミスターケリーズで川本睦子さんの歌を初めて聞いた。とっても自然な歌い方で、好感度大●で、買った新書の題は「できそこないの男たち」期待度大●今終わったプロフェッショナルの再放送で、作り笑いでもプレッシャーは減ると茂木先生。さっそく取り入れよう●さぁ、火曜は「じゃず家」セッション。結果報告乞うご期待。

2008年10月27日月曜日

偏食

子どもの頃から、
ピーナッツバターサンドイッチしか食べずに大きくなった少年、
というのをテレビで紹介していた。

3食すべてピーナッツバターサンド。

んなばかなぁ

とぼくも思った。
どうせテレビだもんと。

しかし、
パンダは笹の葉、
コアラはユーカリの葉しか食べないし、
人間にも菜食主義者がいる。

ゴリラも葉っぱだけであんなに屈強な体を維持しているし、
クジラだってプランクトンとかそんなもんだけ食べて、
あんな巨体でいられる。

それなら少年の話も本当かもしれない。
第一、
偏食が体に悪いなら、
戦争中に育った人は、
みんな今ごろいやしない。。。



70年ほど前、
ルドルフ・シェーンハイマーという科学者が面白い実験をした。

特殊な方法で印を付けた餌を、
大人のネズミに食べさせて、
それがどこへ行くか追跡したのだ。

大人だから体重は増えない。
だから餌はエネルギーとして消費され、
排泄物として出てくる。
彼はそう予想したのだが、
実際は印の半分以上が体内に留まった。

餌は燃料ではなく、
体そのものになっていたのだ。

餌はネズミの体内で分子レベルに分解されて、
体内で再びアミノ酸となり、
さらに様々なタンパク質に再構成され、
内臓や血液へと姿を変えていた。

って要は代謝なんだけど、
これはかなり驚くべきことだ。
松坂牛だろうがキャベツだろうが、
分子にまでバラバラにされたら、
同じじゃないか。

「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一著、講談社現代新書)
によると、
この代謝によって、
ネズミはたった3日、
人間だって1年半ほどで、
分子レベルでは全身、
全くの「別人」になるのだという。

かの少年は、
全身、
まさにピーナッツバターサンドでできていたのだ!。

鏡を見て、
1年半前との違いは、
老けたことぐらいだと思っていたが、
ぼくの体も、
そんな凄いことになっているのだ。

だって、
今のぼくの一部分は、
かつて、
あなたの一部分だったかもしれない、
ということだからだ。

●この本のことは前にも書いたような気がするが、現在再読中●フィギュア開幕。安藤美姫、同じこけるなら、ああいうのが一番ダメージが少ない●このブログをリンクしたいと、驚きの申し出。「喜んで」と返事したけど、彼女の評判が下がりはしないか少し心配。

2008年10月26日日曜日

冒険

北朝鮮拉致被害者が帰国して、
日本中が大騒ぎしていたころ、
登山史上に残る生還劇があったことなど、
最近まで知らなかった。

チベットとネパールの国境に、
ギャチュンカンという山がある(んだって)。
8000メートルに満たないその山に、
世界的登山家の山野井泰史と妙子夫妻が、
なぜ登ろうとしたのか。。。


「凍(とう)」(沢木耕太郎著、新潮社)を一気に読んだ。


冒険と無謀を分けるのは、
結局「美学」の有無ではないか。

二人は、
新しいルートで、
できるだけ軽装備で登ることを好み。
山にゴミを残すことを嫌った。

何より「自力」であることにこだわった。

私生活も同様に、
身軽に、
他人や自然に、
迷惑をかけないことを旨とした。

そんな二人がギャチュンカンで遭遇する、
自然との壮絶な闘いは、
読んでもらうしかないけど、
ぼくは、


「人間はここまで正気でいられるのか」


と驚嘆した。

ちなみに、
「ギャチュンカン」とはチベット語で、
「百の谷が集まると所にある雪山」という意味らしい。

ぼくの人生も山あり谷ありだが、
美学など持たず無謀なことばかりしてきた。
何度正気を失ったことか。

それでも生きているのは、
きっと、
運が良かっただけなのだろう。


●山野井泰史氏は最近、住んでいる奥多摩でクマに襲われたとか●巨人CS初優勝。オメデトー。

2008年10月24日金曜日

再会

もう何年かは会えないと思っていた人に、
元町でまた会えた。
ぼくの中では、
すでにずっと遠くで暮らしていたはずの彼女が、
目の前にいて、
幻を見ているような、
不思議な気持ちがした。

最後に会ってから、
まだ3か月しかたっていないのに、
彼女はずいぶん大人びて見えた。

もうひとつ意外だったのは、
彼女がこのブログの存在を知らなかったことだった。
本当に会えてよかった。

少なくとも今日は読んでくれていることを願い、
再びこの詩を贈ろうと思う。


旅立ちの唄


怖がらないで
手当たり次第に灯り点けなくても
いつか 一人ぼっちの夜は明けていくよ
転んだ日は はるか遠くに感じていた景色も
起き上がってよく見ると なんか辿り着けそうじゃん

君の大好きだった歌 街に流れる
それは偶然が僕にくれた さりげない贈り物

Ah 旅立ちの唄
さぁ どこへ行こう? また どこかで出会えるね Ah
とりあえず「さようなら」
自分が誰かわからなくなるとき君に語りかけるよ
でも もし聞こえていたって返事はいらないから…

大切なものを失くして また手に入れて
そんな繰り返しのようで その度新しくて
「もうこれ以上 涙流したり笑いあったりできない」と言ってたって
やっぱり人恋しくて

今が大好きだって躊躇などしないで言える
そんな風に日々を刻んでいこう
どんな場所にいても

Ah はじまりを祝い歌う最後の唄
僕は今手を振るよ Ah
悲しみにさようなら
疲れ果てて足が止まるとき 少しだけ振り返ってよ
手の届かない場所で背中を押してるから

Ah 旅立ちの唄
さぁ どこへ行こう? また どこかで出会えるね Ah
とりあえず「さようなら」
自分が誰か忘れそうなとき
ぼんやり想い出してよ
ほら 僕の体中 笑顔の君がいるから
背中を押してるから
でも返事はいらないから

(Written by Kazutoshi Sakurai)



●それからぼくは、ジャンカラで発声練習をし、jamjamで1時間半、ジャズに浸った。最近新聞広告で見たORISの時計の実物を大丸で見た。思った通り、値段の割にはしっかりした作りだったが、見ただけで満足した。ヴィタメールでチョコレートパフェを食べようかとも思ったが、食べなかった。三宮まで歩き、ジュンク堂で「凍」(沢木耕太郎著、新潮社)と「星のしるし」(柴崎友香著、文芸春秋社)を買った。三宮の珉珉で八宝菜を食べ、近くのドトールで凍の第一章を読んだ。

2008年10月22日水曜日

竜王戦

駒の動かし方は知っているけど、
からきし弱い将棋。
なのに、
なぜか気になるのが第21期竜王戦だ。

再び黄金期を迎えつつある羽生善治が、
現在4連覇中の渡辺明に挑戦するという、
絶対注目のカード。
パリで先だって行われた第一局は、
羽生が勝利した。

羽生もさることながら、
ぼくは渡辺という人が好きで、
彼の「渡辺明ブログ」http://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/もたまに見る。
この人、
みるからにオタクなのだが、
若手の代表格で、
24歳ですでに妻子もち。
なかなか地に足がついている。

確か竜王になりたてのころに、
NHK「トップランナー」で初めて見て、
その時、
あまりに書道が下手なのに笑った記憶がある。
タイトルを獲ると、
免状やら扇子などに嫌でも揮ごうもしなきゃならないのだ。

その後も世界最強コンピューター将棋ソフト「ボナンザ」に、
プロ棋士として初めて勝負して勝利し、
竜王も守り続けている。

そんな渡辺にも増してぼくが好きなのは、
実は彼の奥さんだ。
彼女のブログ「妻の小言。」http://inaw.exblog.jp/は最高に面白い。
子育てしながら大学に通っているようで、
身辺雑記が中心なんだけど、
ちょっとした出来事の表現が笑える。
特に、
夫である渡辺とのやりとりは、
「竜王の妻」など微塵も感じさせぬ容赦のなさで、
ぼくの将棋への関心は、
これで一気に増したと言っていい。

夫の勝ち負けには全く触れないんだけど、
この竜王戦が始まる前、
挑戦者が羽生と決まったぐらいから、
ややテンションが上がり気味に感じる。

そして初戦に負けてからは、
やっぱり元気がない様子に思えるから不思議だ。
こちらの思い込みかもしれないけど。

羽生は名人位も奪還したばかりだし、
ここはひとつ、
渡辺には唯一のタイトルを防衛して、
奥さん孝行してもらいたいものだ。


●じゃず家セッション。どうなんでしょうかねぇ。自分ではよく分からないよ。読んでる方はもっと分からないか。

2008年10月21日火曜日

喧嘩の仕方

橋下知事が、
今度は朝日新聞にかみついた。
最近おとなしくしていると思ったら、
そうくるか。

共同通信によると、
事態は以下のようなものだ。



 大阪府の橋下徹知事は20日、母子殺害事件弁護団への懲戒請求呼び掛けをめぐり敗訴した際、朝日新聞が社説で弁護士資格返上を求めたことに触れ「資格をはく奪されるようなことはなく、からかい半分だ。朝日新聞は愚かな言論機関。すぐに廃業した方がいい」と重ねて批判した。

 機関投資家に府債を売り込むため訪れた東京都内で記者団に語った。

 橋下知事は19日に陸上自衛隊の式典で「人の悪口ばかり言ってる朝日新聞のような大人が増えれば、日本はだめになる」と発言。

 この理由について記者団に「一番敬意を表すべき自衛隊との(比較)対照としていい例と思った」と説明した。

 さらに「判決の件で厳しく指摘されることは構わないが、表現の仕方としてどうなのか。朝日新聞は権力に悪口を言っていればいい、と思っていることがよく分かった」とまくし立てた。



以前にも女子アナの「遅刻発言」を巡って、
NHKにかみついたことがある橋下知事。
内容はともかく、
相手はいずれもマスコミである。

マスコミというものは、
他人を批判するのは得意な一方、
批判されることを極端に嫌う。
メンツにこだわるから、
でかでかと誤報しても訂正ははるかに小さい。
それでも、
ぼくが思うには、
NHKや朝日は、
マスコミの中でも良識ある方だ。

そんなことは橋下知事も十分分かっている。
だから、
この相手とは大喧嘩にはなるまい、
「大人」の対応をしてくれるはずと、
相手を「値ぶみ」しているはずだ。
暴力団相手に喧嘩売るような真似はしない。

かみついて、
相手が乗ってくれればしめたもの。
自分が相手と対等の立場に立てる。
世間的には、
「第4の権力にもひるまぬ知事」と印象づけることができる。
本当は自分も大層な権力者なのに、
仮想の敵を作って自分を勇者に見せる手法は、
小泉元総理の得意技だった。

そもそも弁護士なのだから、
落とし所というか、
最初にかましといて、
あとで妥結の道を探るというのは、
お手の物だ。

何より、
この人の強みは、
「失うものがない」という点である。
意志が全うできぬのなら、
知事職などいつ辞めてもいいという、
いい意味での「居直り」があるから、
発言にブレが少ないし、
勢いがある。

重みはないけど、
切れ味はいい。

その小気味よさが支持される限り、
この人は持つ。
だから恐いのは、
NHKでも朝日でも霞が関でもなく、
唯一、
「世論」だけだ。


●岡田阪神エンド。なんで辞めなきゃならないのか、ぼくには分からない。

2008年10月20日月曜日

刺激的

何年かぶりに行楽した。

朝一でマイクロバスに乗り、
日本海へ向かった。

以前、
丹後半島に住んでいたことがあるので、
舞鶴道がなつかしい。
今はなきスカイラインで何度往復したことか。

紅葉にはまだ早かったけど、
山々に囲まれる景色の移ろいに、
様々な思い出がよみがえる。

出石そばのコースで満腹になり、
豊岡でコウノトリを拝見した。

心身リフレッシュ充電完了。

だもんで、
その勢いで夜は一人で北堀江のカフェバーへ。

知り合いが出演するライブを予約していたのだ。

初めて行くそのカフェは、
おしゃれな人が多くて、
半分ぐらいは外人。
行楽帰りの僕はプカプカ浮いていた。

しかしライブは最高で、
酔っ払った若い女性数人などは、
ワイングラス片手に踊っている。

といっても、
実はそんなに酔っていないのだろう、
フニャフニャしていても、
ちゃんと人にはぶつからず、
ワインもこぼさない。

少し踊ると、
カウンターの僕の隣の女性と、
何かご機嫌に話しはじめた。

でもどうやら赤の他人のようだ。

彼女は、
この世の陽気を一人占めしたように楽しげで、
見ていて決して悪い気分ではない。


演奏もますます快調だ。


そしてついに、
隣の女性と話し終えた彼女が、
トニックウォーターを飲んでいるぼくを見た。

一瞥して一言、



「教授みたい。あはは」



「?????????」



気の利いた言葉の一つも出せないぼくを尻目に、
彼女は、
くるりと向きを変え、
また踊りはじめた。



やっぱり眼鏡やめようかな。

2008年10月19日日曜日

記憶術

「リンカーンはアメリカでコーヒー三杯」


この前のメールを書いた後、
下に降りていくと、
母がいきなり大声を上げる。


「リンカーンはアメリカでコーヒー三杯」


「何それ」


「ウツ」


「はぁ」


「ウツっていう字はこう書くねん」


「…………」



広辞苑に掲載されている漢字で、
最も画数の多い字は「鬱」で27画だ。
ぼくは小学生の時にその事を知ったが、
これまで一度も書いた事はない。
ちなみに広辞苑の最後に出てくる項目は「んとす」のはず。

母が言っているのは、
「鬱」という字の書き方だった。

「リンカーン」つまり「林」の間に「缶」を書き、
「は」つまりワ冠をその下に、
さらに「アメリカ」つまり米を斜めにした※を、
コを90度傾けたやつで受けて、
ヒはそのまま、
右横に「三杯」としてひげ三本。
これで鬱の完成というわけだ。
テレビで紹介していたらしい。


「これで忘れへんわ」と母。


「そうやな、俺もや」



でも、
できるならこんな字、
書かずに暮らしたいよね。


母は笑ってうなずいた。


●明日は早起きして小旅行ですので、これにて御免。

2008年10月18日土曜日

秋空

先日の天気予報で、
「何をするにも最高の一日になるでしょう」
と言っていて、
「雨じゃなくちゃ困る人だっているだろうに」
と捻くれた突っ込みを心でつぶやいた。

しかし今日の爽やかな秋の空。
こんな日が休みだと、
どっかへ出かけたくなるのが人情ってもんだろうけど、
ぼくは自室でこのブログを書いている。

寝たのが朝で、
数時間前に起きたばかりなのだ。

といって「もったいないことをした」と思っているわけではない。
部屋から秋空を眺めるのも素敵だし、
窓から吹き込む風も心地よい。
でかける予定までのあとしばらくを、
こうして過ごすのも、
贅沢なもんだ。

未明に書くのと、
この穏やかな午後に書くのとでは、
何かしら雰囲気が違っていて、
そんなことを味わいながらキーボードに向かっている。

スピーカーから流れているのは、
先日渡米したDr清水勇博くんが参加した、
西山瞳トリオの「Parallax」。
今の気分にけっこうしっくりくる。

母はここのところ、
ウキウキと洗濯している。
ぼくにも経験があるけど、
さっぱり乾いた洗濯物は、
洗剤のCMじゃないけど、
頬ずりしたくなるほど気持ちイイ。

しばらくは、
こんな天気が続くらしい。

2008年10月17日金曜日

かぶる

ギリシャでは、
掌を相手に向けて出すと、
「おまえなんかあっち行け」という、
ひどい侮蔑の意味になると、
NHK児玉トラベルでやっていた。

それを見て、
ぼくが子どものころ、
掌を模したプラスチック板に針金と吸盤が付いた、
カーアクセサリーが流行ったことを思い出した。

車の後ろの窓に付けると、
揺れに合わせて掌が左右に振れ、
後続車からは、
「バイバイ」とも
「はーい」ともとれ、
いずれにせよ面白いっていうんで、
売れに売れた(と思う)。

我が家には当時、
真白なカローラがあって、
ぼくはその掌をどうしても付けたくて、
母にねだって買ってもらった。

ところが、
まさにその夜、
会社から帰宅した父が、
まったく同じ物を買ってきた。

あまり見事にかぶったので、
家族で大笑いした。

これなどは流行りものだから、
ありがちな話ではあるが、
例えばセッションで、
ある日はドラマーが多かったり、
別の日はピアニストが多かったりと、
見事にかぶるというか、
片寄ることがある。

もちろん理由がつく場合もある。
例えば有名なプロギタリストが見える日には、
ギターキッズが多く、
高槻ジャズストリート直後には、
ハイになったプロが多く集まった。
武庫之荘のMクアトロは、
絶滅危惧種の男性ボーカルが多く集まるので有名だ。

しかしそういう事は稀で、
ひょっとしたら、
その日の月の満ち欠けによって、
ドラムが叩きたくなったり、
サックスを吹きたくなったりするんじゃなかろうか、
などと思いたくなるほど、
曜日が同じでも偏る。

ちなみに、
偏りが一番少ないのはボーカル。
そして、
いつも少ないのはベースだ。

そういえば、
女性のギタリストだけにはまだ、
お目にかかったことがない。

不思議なもんだ。

ちなみにかぶった掌がどうなったのかは、
記憶にない。


●三宮グレートブルーのセッションに久しぶりに行った。大変な盛況で、1曲だけ歌えた。反応は正直、あまり良くなかった。でもぼくの自信は揺らがない。この方向で間違いないと、確信している●40年以上も乱雑に生き散らかして、残りわずかな消しゴムみたにいなぼくに、会いたいと思ってくれる人がいる。そういう人がいる限り、ぼくは前を向ける。

2008年10月16日木曜日

文字

「学校に行くと馬鹿になる」


昔の農村などには、
こんな風に考える人が多くいて、
自分の子供を学校にやりたがらなかったという。

そんなの、
働き手を減らさないための方便だろう。

ぼくはそのようにしか理解していなかったが、
案外これは本当なのかもしれない。

まず最近、
NHKすペシャルで驚いた話。

日本人の20人に一人は、
文字を読んだり書いたりすることに障害がある。

「読字障害」というのだそうだが、
ぼくは聞いたこともなかった。
小学校で音読が異常に苦手な子がいたけど、
ひょっとするとこの障害だったのかもしれない。

そもそも人が文字を「発明」したのは5000年ほど前で、
言葉の発達、
つまり話したり聞いたりすることに比べれば、
人類史的には、
ほんの最近だという事。

だから、
人の脳には、
文字を処理するための「特別」の部位はなくて、
いわば既存の脳を「間借り」して、
本を読んだり手紙を書いたりしている(のだそうだ)。

その証拠に、
人は文字を読む時、
目で見た文字情報はいったん、
音声を処理する分野に送られ「音声」に変換され、
認識へと至る(のだそうだ)。

目読とは言っても、
脳は「音読」しているわけだ。
読字障害の人は、
この視覚情報を音声情報分野に送る部分の動きが、
その他の人に比べて著しく鈍いらしい。
だから文字が見えてはいても、
読めない。

で、
興味深いのは、
この読字障害の人の中には、
その他大勢に比べ、
著しく立体構造の認識力が高い人たちがいるという事実だ。

あるいは「ジュラシック・パーク」。
この映画にに出てくる博士のモデルになった人が読字障害で、
実在の博士は文字は読めないけど、
現代の地形を見ただけで、
恐竜時代のそこの地形が頭に浮かぶという。

恐竜の水飲み場だった場所などがすぐに「見え」るもんだから、
化石を次々に発見し、
恐竜研究に画期的な成果をもたらしたのだという。

古代人にとっては、
そうした地形把握力なんかは、
生存に直結していただろうから、
みんなごく普通に持っていた能力かもしれない。

ぼくたちは、
文字を手にした代償として、
多くの「能力」を失ったのではないか。

それが、
この番組の中で一番印象に残った見解だ。


で、
「学校へ行くと馬鹿になる」だけど、
この言葉が突き付けているのは、
今の日本人は果たして知的かという問いかけだ。

文字書きそろばんができることが知的というなら、
そりゃ知的になったのだろうが、
一方で失ったものを思う。

何も「おばあちゃんの知恵袋」的なことを言いたいわけではない。

もっと本質的な、
生き物としてヒトが本来持っていた感覚。
地形などの3次元把握力はそうだろう。
そのほかにも、
ぼくらが今は見えなくなった、
聞こえなくなったものがあるのではないか。

そんな状態を「馬鹿になる」と置き換えれば、
農家の親父の文句も、
理にかなってるのかもしれない。
少なくともぼくは馬鹿だ。
まったく異論なし。

こう考えてくると、
現代、
文字離れが起きているのは、
ある意味、
ヒトとしての本能なのかもしれない。
文字は、
脳が本来想定していない道具なのだから、
拒絶反応を示すのが、
むしろ普通ともいえる。
他に扱いやすい道具があれば、
さっさと乗り換えるのが正解かもしれない。

だからと言ってぼくは、
「文字に未来はない」などと言いたいのではない。
むしろ、
失くした感覚を思い出すために、
文字を逆利用できないかと思うだけなのだ。

理屈じゃないことを、
理屈で説明する。

そういう無理難題に挑戦し続けないと、
文字文化はやせ細る一方だと、
心配する。


●アイヌ伝承を書き遺した享年19歳の少女。太平洋戦争に反対した僧侶。NHKの宣伝マンみたいだが、こういう人たちの存在を知らないまま死ぬかもしれなかったわけで、あぁ見ていてよかったNHKと実感●ぼくの歌に関する感覚が正しい方向を向いていることが確認できた。こっちでいい●このブログを何かの弾みで知った方がいらっしゃれば、これからもよろしくお願いします。

2008年10月15日水曜日

雨に濡れても

映画「明日に向かって撃て」は、
何といってもラストシーンが有名だが、
それに劣らず胸を打つのが、
なかほどの自転車の場面だ。

ポール・ニューマン演じる強盗ブッチが、
ロバト・レッドフォード演じる相棒サンダンス・キッドの彼女の前で、
手に入れたばかりの自転車に乗って見せる。

坂を下りながら曲乗りをして見せたり、
彼女をハンドルの上に、
二人乗りするバックには、
有名な「雨に濡れても」が流れる。

ぼくが自転車に乗れるようになったのは、
たぶん小学校低学年のころだが、
その瞬間のことは覚えていない。
だから表現としては、
「気がついたら乗れていた」ということだ。
親父が後ろで押してくれていて、
いつの間にか手を放しているのに、
当人は気づかずにしばらく進み、
「一人で乗っている」のに気づいた次の瞬間、
こけてしまうというような、
よくある場面であったかもしれないし、
誰も見ていない公園で、
ある時突然、
乗れてしまった、
というようなことだったかもしれない。

いずれにせよ、
自転車に乗れるようになるには、
補助輪を付けたり、
誰かに支えてもらったりという過程が絶対にあるはずだ。

始めから自転車に乗れた人などいやしない。

その瞬間。

何の支えもなく、
坂道を下るのに任せて乗っているのでもなく、
平らな場所を、
自力で漕いで自転車に乗れた瞬間の昂揚は、
今自転車に乗っているすべての人に訪れたはずだ。

ぼくの歌修行にあてはめれば、
さしずめ今日の天満「じゃず家」でのセッションは、
この昂揚の一瞬であった(はずだ)。

その予感というか、
決意のようなものは事前にあって、
店に入った時から落ち着きがなかった。

感覚を忘れないよう、
座るのももどかしく、
直前まで繰り返し繰り返し、
その感覚を確かめていた。

人力飛行機コンテストでよく、
飛んだのか、
ただ落ちただけなのか分からないような挑戦者がいるが、
飛んだか落ちたか、
それは当人にしか分かるまい。
判定では飛んだと認められなくても、
本人が飛んだと思えば、
飛んだのだ。

そういう意味で言えば、
今日ぼくは飛んだ。

話を自転車に戻せば、
すぐにこけたけど、
ほんの何メートルかは「漕いだ」のだ。

もっと長い距離を漕いでみせなければ、
誰にも認めてもらえまい。
悪路や坂道になれば、
まったく歯が立つまい。
調子にのって速度を出しすぎれば、
思いっきり何かにぶつかることもあるだろう。

でもこの感覚は忘れないと思う。


●ネットに歌詞があった。
Raindrops are falling on my head
and just like the guy whose feet are too big for his bed,
nothing seems to fit
those raindrops are falling on my head, they keep falling
雨が頭の上に落ちてくる
ちょうどベッドに収まるには足が長すぎる男みたいに
すべてしっくり行かないみたいだ
雨が頭の上に落ちてくる 落ちつづける

so I just did me some talking to the sun,
and I said I didn't like the way he got things done,
sleeping on the job
those raindrops are falling on my head they keep falling
だから太陽に向かってちょっと一言
どうもお前のやりかたは気に入らないと言ってやった
照りもしないで寝てるんじゃないよって
雨が頭の上に落ちてくる 落ちつづける

But there's one thing, I know
the blues they sent to meet me won't defeat me.
It won't be long 'till happiness steps up to greet me
でも一つだけわかっていることがある
向き合ってみろばかりに雨がよこした鬱な気分に俺は負けない
そのうち幸せの方が俺に挨拶しにやって来るだろう

Raindrops keep falling on my head
but that doesn't mean my eyes will soon be turning red.
Crying's not for me, 'cause
I'm never gonna stop the rain by complaining
because I'm free
nothing's worrying me
雨が降りつづける
でもだからといって俺の目が赤くなってしまうわけでもないし
泣くなんて自分の好みじゃない なぜって
文句を言ったところで俺は雨を止めることはできない
なぜって俺は自由
何も心配ごとなんてない


It won't be long 'till happiness steps up to greet me
そのうち幸せの方が俺に挨拶にやって来るだろう


Raindrops keep falling on my head
but that doesn't mean my eyes will soon be turning red.
Crying's not for me, cause
I'm never gonna stop the rain by complaining
because I'm free
nothing's worrying me
雨が降りつづける
でもだからといって俺の目が赤くなってしまうわけでもないし
泣くなんて自分の好みじゃない なぜって
文句を言ったところで俺は雨を止めることはできない
なぜって俺は自由
何も心配ごとなんてない




●昨日、Dr清水勇博君がNY修行に行くラストライブが西宮コーナー・ポケットであった。夜は仕事だったので、昼の部だけしか行けなかったけど、今現在は既に飛行機の中にいるはずの、慌ただしい中であったが、彼の顔はとてもすがすがしかった。幸多かれと願う●このブログは6月のミニライブにきて下さった人などほんの数人しかぼくはまだ紹介していない。ぼくの歌手の部分を知っている人に限っている。その中に、きょう一人素敵な人が加わった。さらに努力しようと思う。

2008年10月13日月曜日

ゴルフ

15年ほど前に住んでいた、
福井市のマンションの前は、
大きなゴルフ練習場だった。

仕事から帰ると、
クラブを2、3本持って行き、
200球ぐらい打つ。

ストレス解消でもあり、
汗まみれで帰って入る風呂が、
大好きだった。

日課といってもよかった。

なのにコースに行くとまるで駄目。
練習場ではあれほど見事に飛んだドライバーも、
狙った位置にピタリと落とせたアイアンも、
どうしちゃったのと思うほど当たらない。

飛んでも、
てんで見当違いの方向で、
草むらや斜面の下や、
あり得ないような場所から打つはめになる。

練習場ではやれないパターなどは、
ぶっつけ本番だから尚ひどい。

次第にわかってきたのは、
練習場とコースは全く別だということだ。
ゴルフに限らない。
バッティングセンターでいくらカッ飛ばしても、
試合で人間の投げる球は簡単には打てない。

逆に、
練習はそこそこで、
どんどん実戦している人が、
最初はひどいものだけど、
いつのまにかスコアはぐんと良くなっていて、
驚かされることがあった。

打った球数なら絶対負けてないはずだけど、
ぼくは「生きた球」を打ってなさすぎた。
ゴルフというのは、
フォームが悪かろうと、
距離が少し短くても関係ない。
どんな場所からでも狙った場所にさえ打てれば、
スコアはまとまる。

特に、
練習場にないパターやバンカー、
ラフなどのアクシデント対応は、
経験がもろに腕前に出る。

歌だって一緒だなと思う。
セッションは、
本番ライブと練習の中間あたりの存在だが、
ここでうまく行かない以上、
駄目なものは駄目だ。

自信を持って臨んで、
玉砕してガッカリして。。。

そんなことの繰り返しだ。

それでもあきらめないのは、
着実に上達している、
顔なじみさんたちがいるからだ。

みんなうまくなりたいと思って頑張っていて、
その成果が出ていると、
ちょっと嫉妬もするが、
それより自分もそうなりたいと願う気持ちの方がずっと強い。

ゴルフはすっかり諦めてしまったけど、
歌だけはそうはいかない。

そんなヤワな決意ではないのだ。


●久し振りに武庫之荘「Mクアトロ」。顔見知りのボーカルが多くて、皆、努力の跡がはっきり分かる素敵な歌だった●このブログを読んでくれている人がもう一人いることが判明。うれしくなった。

2008年10月12日日曜日

裸眼

時間つぶしに入った喫茶店で、
「anan」を開いたら、
近視矯正手術が20~30万円と書いてある。

えっ

本当にそんなに安くなってるのか。

「本当に」というのは、
以前それぐらいの値段だと聞いたことがあり、
ぼくは「そりゃひとケタ間違ってる」と、
笑ってしまったことがあったからだ。

10分間で済んで、
日帰りできて、
年間10万人が受けているのだと、
その記事には書いてあった。
どうやら、
知らない間に価格破壊が進んだらしい。


知り合いの若い女の子にも聞いてみた。
料金は実際はもっと安く、
手術を受けた友達は、
「世界が変わった」と大喜びしているという。

俄然、
手術を受けたくなってきた。
ぼくはドが付く近眼で、
おまけに左は乱視だ。

今年は2個もメガネを作ったのに。

就職祝いの食事の席で、
姪にその話をしたところ、
「私も受けたい」と大乗り気だ。
叔父が先に試すのも悪くない。

でもな。

今のぼくが裸眼で、
24時間クッキリ見えるようになって、
鏡に向かったら、
見たくもない皺や、
たるん体や、
白髪まじりの頭が、
容赦なしに目に入ってくる。

若い子はいい。
でも不惑も越した男には、
今更見なくていい現実もあるんじゃないか。

もう一度近眼に戻してくれと、
思いはしないか?

悩みどころだ。


●いつもの場所に行ったら、ちょっとタイミングが悪くて知り合いに会えず、寂しかった●やっと髪を切った。少しすっきりした●美容院で洗髪してくれた女の子に「格好いいですね」と言われた。お世辞と分かっていても、嬉しいものだと、食事会で話したら、だれからも異議なし。やっぱりお世辞だったのか●三浦和義が自殺!これは驚いた。自殺とは対極にある人だと思ってた。少し可哀そうに思えた。

2008年10月11日土曜日

作家

小学校低学年の事だから、
母が今のぼくより若かったころ、
ここらの主婦の間で、
ある手芸が流行った。

折り紙を二枚重ねてうまい具合に折ると、
クリスマスにパーンて鳴らすクラッカーのような物ができて、
それを何十も作って糊でくっつけて、
きれいな毬のようにする。

ただそれだけなんだけど、
そのころ母は暇があるとその毬を作っていた。
初めはソフトボールぐらいの大きさだったけど、
次第に大きいのが作りたくなる人情はだれも同じようで、
ついにはメロンぐらいのを作り上げ、
ご丁寧にそれを乗せる座布団まで手縫いする凝りよう。

それはしばらく、
我が家の玄関のげた箱の上に飾られていた。

何でこんなことを思い出したのかというと、
「ニードルフェルト」という手芸があることを、
NHK「おしゃれ工房」で知ったからだ。

フェルトの束を特殊な針でつつくだけで、
メロンパンや、
ショートケーキが出来上がる。

その出来栄えは男の目から見てもかわいらしい。
材料代も高くはなさそうだし、
やってみたくなった。

出演していたのは、
「ニードルフェルト作家」の女性で、
彼女いわく、
もとはスイーツ作りが好きだったけど、
そのニードルフェルトのスイーツ作りを始めてから、
本物を食べることが少なくなり、
7キロやせたんだという。

そんなものかねと思いながら見ていたら、
針を刺すたびに「サクッ、サクッ」という音がする。
これが何とも快感のようで、
あぁその手の感触、
音が夢中にさせるのだろうと想像した。

この番組、
TVをつけてやってたらつい見てしまうことが多い。
それにしても、
いろんな「作家」がいるものだ。
古いネクタイをストールに再生する作家もいたし、
厚紙と布をかわいい小箱に仕上げる作家もいたなぁ。

やってることは単純な工作なのだけど、
手仕事っていいなってぼくの中の子供心をくすぐる。
でもなぁ、
年がら年中フェルトに針刺して、
飽きないのだろうかとも思う。
作家ともなると、
いろんな注文もあって、
「またあれかよ」なんて思いながら、
針刺してるのかな、
それはちょっと怖いな、
子育ての合間になんて言ってたけど、
あの針は危ないぞとか、
どんどん余計な事を考えてしまった。

で、

母の毬は、
なんていう名前だったのだろう?

今でも作ってる作家はいるのかな。


●めでたく巨人V2●世界中で株が暴落している。ということは、99%が大損した分、大儲けした1%がいるのだ●阪神阪急と高島屋が資本提携するそうだ。三菱東京UFJ銀行みたいになってきた。

遺志

30日は親父の13回忌だ。 あーそんなになるのか、 と言うのが率直な感想。 親父が亡くなる直前、 僕は酒を辞めた。 復職して最初のボーナスが出た日、 入院していた病院に行って報告した。 もう親父はかなり弱っていて、 ほとんど喋れなかった。 でも...